鮎川哲也 りら荘事件 目 次  一  霧雨の死  二  ハートの3とクラブのジャック  三  第二の殺人  四  砒 素  五  赤いペンナイフ  六  スペードの4  七  謎の数字  八  暑い街で  九  スペードの5  十  二条の自信  十一 解決近し  十二 屋根裏にひそむもの  十三 トリカブト  十四 薔薇の寝床  十五 星影竜三  十六 青い夕焼  十七 カードの秘密  一 霧雨の死     一  ライラック荘の名のおこりは、もとの所有者|藤沢勘太郎《ふじさわかんたろう》氏がライラックの花を愛し、それを建物の周囲にぎっしり植えていたことによるという。いまでも四、五月の候になれば白色系のチールズにウィルモット、紅紫系のシリオンやペルシカアルバ、いわゆるライラック色と称される藤色系のタピーだとかオブラスだとかハーベメイヤーなどの品種が八重一重の房咲きとなって、馥郁《ふくいく》たる芳香があたりにみちるのである。  一般人で藤沢勘太郎氏の名を知るものはほとんどあるまいと思うけれど、藤太証券のワンマン社長としてかつてはとぶ鳥をもおとす勢いをもち、正妻と十二人の妾《めかけ》のあいだを疲れも知らぬげに游《およ》ぎまわった氏の私生活は、いまでも兜町一帯の伝説となっている。藤沢氏としてみれば、そのようなことで人々に記憶されるのは不本意に相違ないであろうが、わかい証券会社の社員たちが氏を鑽仰《さんぎよう》し、婦人社員が彼を否定しようとするのも一にここにかかっているのだから、なんとも致し方のない話である。  藤沢氏は、株屋の小僧からたたきあげた人だけに非常な辣腕《らつわん》家であり、自信家であったが、こうした人間にありがちなように、猪突猛進的なきらいがなかったとはいい切れなかった。氏が一代にして隆盛をきずいたのもそうしたやり方のためだといえるし、また数年前の恐慌にぶち当って持ち株の大暴落をきたし、ライラック荘で自殺をとげたのもそのせいであった。氏に石橋をたたいて渡る慎重さがあったら、拳銃のたまをおのれの頭にぶちこむというような悲惨な死に方をする必要はなかったはずである。  藤沢氏は、お面や民芸品の蒐集家としても仲間のあいだでは名の通った人で、ライラック荘の書斎は、棚も床も壁も、各地各国の面でうずまっていた。その廻転イスの上で氏の屍体が発見されたとき、かけつけた人も呼ばれた医師も、無数の面のかもしだす異様なアトモスフェアに怯《おび》えて、冷静な処置ができなかったということだ。  この部屋のことは後章でふたたびふれることがあると思うからこれ以上タッチせずにおくが、相場師の一夜乞食という言葉があるように、夫を失った未亡人は、昨日にかわる落魄《らくはく》した生活を送らなければならなかった。ライラック荘が藤沢家の手をはなれたのはそうした理由によるのであり、それを日本芸術大学が買いとった上で、レクリエーションの寮として学生に開放したのである。  ライラックは、別名を剌羅《りら》という。学生たちがこの寮を≪りら荘≫と呼ぶようになったのは変死者がでた≪ライラック荘≫の名をいみ嫌ったというよりも、りら荘という短い名前が、若者の近代感覚に合ったせいであろう。これらの芸術家の卵たちは、御幣《ごへい》をかついだり縁起にこだわったりするにはあまりに呑気であり、明朗であり、楽天家ぞろいであった。  りら荘は荒川の上流の、埼玉県と長野県の境にちかいところにある。江東区と江戸川区の境を流れて東京湾にそそぐあたりの荒川下流は汚くにごって、義理にも美しい水だとはいえないけれど、りら荘の近くを流れる荒川は、清冽《せいれつ》という文字がぴったりあてはまる、蒼くすんだ川なのだ。  そのりら荘にいくには、池袋から東上線の電車にのるのと、八王子から八高線にのるのと、又は上野から熊谷にでるのと、つごう三つのコースがあるわけだが、いずれにしても寄居《よりい》から先は、秩父鉄道の厄介にならなくてはならない。熊谷をでた列車は荒川にそってさかのぼり、寄居をすぎ、紀州の瀞《どろ》八丁をまねて命名した秩父|長瀞《ながとろ》をすぎてなおも走ると、やがて影森というしずかな小駅につく。熊谷を発車して一時間半の行程である。ここで下車してさらに三峰口《みつみねぐち》の方向に二十分ちかく歩いた頃、ようやくりら荘に到着するのだった。清流に坐し、いながらにして河鹿《かじか》をきくには多少の不便さは我慢しなくてはなるまいが、それにしても上野から二時間という距離は少々遠すぎて、そのため、せっかく設けた寮でありながら、これを利用する学生は夏休みのあいだですら数が少なかった。自殺した藤沢氏が夏期の週末をかかさずここで過ごしたというのは、その勤勉さをほめてやってもいいほどであった。  いわゆるマンサード・ルーフという屋根の型は、フランス人のMansard氏の考案になるそうだから、正しくはマンサールと呼ぶのかもしれないが、りら荘はこの形式を採用して屋根を銅でふき、その銅が一面に緑青《ろくしよう》を生じて、見るものに一層どっしりした印象をあたえていた。また、北側に生えた灰色の四角い煙突が、緑の急勾配の屋根に見事なアクセントとなっていることも、見逃せない事実であった。  駅から一本道路をてくてく歩いてくると、やがて左側に板の立札がでていて、≪りら荘≫と書かれてある。脚のみじかい丈のひくい立札だから、うっかりすると見逃してしまう。事実、お喋りに夢中の女子学生などは往々通りこして、四キロも向うにいってようやく気がつき、べそをかいて引き返してくることもあるのだった。  札のところから左に入って一間はばの道を百メートルばかりいくと、石積柱にとりつけられた鉄柵の扉につきあたる。門がとじてあるときは柱の≪りら荘≫としるされた大きな名札の下のボタンをおせば、なかから留守番の園田万平《そのだまんぺい》があたふたとでて来るはずだ。万平老が不在のときとか、或いは持病のリューマチスが悪化して歩けないときには、細君のお花《はな》さんがエプロンでぬれた手をふきふき小走りにやって来る。  似た者夫婦とよくいうけれども、万平老とお花さんはなにもかも正反対である。亭主のほうは百八十センチちかい大男のくせに体重は四十五キロしかなく、細君のほうは百六十センチそこそこのくせに、七十五キロあまりもある。性格にしても、夫は小心であるが女房は無類にのんびりしている。似ているところは夫婦そろって人が好くて親切な点であった。     二  暑中休暇もおわりにちかづいた八月二十日の夕暮れのこと、このりら荘に七名の学生がやって来た。彼らの学校は戦前までそれぞれ美術学校と音楽学校として独立していたのだが、戦後の学制改革で統合されたのである。だから一校にまとまってからの日もまだ浅く、したがって昔の校風とか伝統とかいうものが、それぞれの学生の内側にしみこんでいた。いま、りら荘に到着した一群の若者をみても、どことなく不精くさい女性が美術学部の学生であり、垢ぬけた服装をしているのが音楽学部の学生たちであることは、すぐに判断がつくのだった。 「いやねえ、成金趣味というのは。あのポーチの恰好みてごらんなさいよ」  鉄の扉の前に立って、寮の様子をすかし眺めながら同意を求めるようにつぶやいたのは、ショートカットの髪をして、ふちのふとい男物の眼鏡をかけた日高鉄子《ひだかてつこ》である。画板《キヤンバス》をこわきにかかえ、絵具で極彩色のしみをつけたスカートをはいて、マドロスパイプをすぱすぱとやっている。ブラック女史というニックネームのあるのは色が黒いからではなく、ブラックに心酔し、ブラックばりの絵をかくからであった。顔の色はむしろ白いほうといってよい。 「ふん、俗臭ふんぷんさ。こいつらと変りない」  行武栄一《ゆきたけえいいち》が長髪をゆさぶりながら顎でさしたのは、音楽学部の連中のことだった。彼自身、音楽学部の学生でありながら自分の仲間をけなすのは訝《おか》しいようだが、以前は美術学部の洋画科にいて、その独特なタッチと豊富な色彩感覚で将来を期待されていたくらいだから、音楽学部に転科したいまでも、やはり美術の人間のほうがウマが合うのである。  学生のあいだには対抗意識というものが底流している。なにしろ、美校の先輩には沖倉天心をはじめ、世界的に知られた人士がいくらもいるのに比べて、音楽学校出身者で海外の楽壇に名をはせた人物といえば、『マダム・バタフライ』の、三村たま子女史ひとりきりである。美術学部学生の優越感の根拠は、そこにあるのだった。  音楽学部の学生はどちらかというと金持の息子や娘も多くて、とくに女子学生のなかには高級車で通学し、音楽をお嬢さん芸として学ぶものもいる。それに対して美術学部の学生たちは苦学力行型のものが少なくない。ことに行武は、画学生のころの話だけれども、木炭画のデッサンを消すために使った食パンのくずを集めて、これにマーガリンをぬって夕めしのかわりにしたこともあるくらいで、彼がいまもって音楽学部の学生になじめぬのは、胸底にそのような感情がからまっているからなのだ。しかし、行武がその才能をすててなぜ声楽科に転籍したかということは、単に心境の変化というのみで、多くを語りたがらないのであった。  この二人の学生にくらべると、音楽学部の学生は屈託がないせいか、声高に陽気なおしゃべりをつづけていた。なかでも、人一倍|饒舌《じようぜつ》なのは尼《あま》リリスである。声楽科でソプラノを学んでいる彼女は、イタリア人の教師からビフテキを喰いなさいとすすめられてそれを実行したため、見る見るふとってきて最近は六十五キロになった。身長が百六十八センチもあるからおかしい程には目立たないが、そのむかし鼻炎を患ったため声が鼻にかかって甘ったるく、いかにも、金持のわがまま娘らしい調子に聞こえる。ことわるまでもないことだけれど、リリスというのは勿論本名ではない。本来の名前は南《みなみ》カメといい、その名にいささか間のぬけたひびきのあるのを嫌って、尼リリスを名乗っているのだ。将来ステージに立つときの芸名を、いまから用意しているわけである。 「あらちょいと、あのバルコニー、蔦《つた》がからまって素敵じゃないの。あそこでルチア狂乱をやってみたいわ。牧さん、あなたが相手役よ」  婚約者の牧数人《まきかずんど》はまんざらでもない面持ちだが、行武は呆れ返った表情で横をむき、ふっと笑いをもらした。冗談じゃない、こんな肥ったルチアがあるものか。観客がふきだしてオペラが滅茶苦茶になってしまうじゃないか。  一同が勝手なことを喋っているところに、ようやく万平老がやって来て門扉をあけてくれた。すでに夕方ちかくなっていたので、ライラックの葉は冴《さ》えた濃緑《こみどり》にそまり、林のなかでひぐらしが哀れっぽい鳴き声をきそっていた。  ゆるく曲った砂利道を歩いてポーチに達する。鉄平石をしいたその一隅に蘇鉄《そてつ》をうえた大きな鉢がおいてあった。 「悪趣味だわね」  と日高鉄子がささやき、先に立ってホールに入った。成金好みをけなすくせに金持の邸が珍しいらしく、目を丸めてあたりを見廻している。廊下はすぐ右へのび、つきあたりが内玄関だ。その手前でT字型にもう一本の廊下がわかれて、これは東から西へむけて建物をつらぬいている。左側、つまり南側に応接間と予備室が、右手には遊戯室と食堂がならんでいた。その先は調理室をはさんで南が万平老らの私室、北側が浴室である。 「みんな、ここで休んだらよかンべ」  万平老はそういって左手の扉をあけた。二十畳ほどの洋室で中央にカーペットがしかれ、その上に、白カバーでおおわれた数脚の安楽イスが、丸いテーブルを囲んでいた。学生たちは、それが自分たちの寮であるということを忘れ、まるで客に招待されたような錯覚をおこして、神妙な顔をしてなかに入った。煖炉の上とその反対側の壁には油絵がかけられており、庭に面した壁にガラスをはめた水彩画がかざってある。日高鉄子と行武のふたりは、それが気になるとみえ、三枚の絵の前を一巡して、たがいに感想をのべあっていた。どうもその顔つきから判断すると大したものではないらしくて、とくに水彩の風景画の稚拙《ちせつ》さは、素人目にもよくわかるのであった。 「暗い感じのお部屋だわ」  と、アームチェアに坐った尼リリスが感想をもらした。たしかに彼女のいうとおりで、白い壁はほこりがしみこんだようにうす黒くよごれているし、三枚の絵も例外なくくすんだような色彩だった。広く豪華ではあるが、陰気な感じのすることは否めなかった。  ノックもなしにドアがあいて、お花さんが例によってエプロンで手をふきふき現れた。彼女は目がさめているかぎりなにかしら用事をみつけて働き、そして忙しいことをこぼしている。 「ああら、みなさんお早いおつきで。東京はさぞお暑いことでござんしょうねえ」  丸い体をよじってしなをつくるのが滑稽だ。埼玉言葉まるだしの亭主とちがって、東京弁を巧みにあやつるのは、以前東京のさるお屋敷に女中奉公をしていたからであった。 「お手紙いただいたもんで、はりきって夕食のお仕度をしてますの。あと三十分でお食事にいたしますから、もう少しの辛抱でござんすわ……」  そういっているところに万平老がやって来て、各自を二階の部屋に案内すると告げた。 「あたし北側のお部屋がいいわ。暑い南側はまっぴらよ」  尼リリスが女王のように傲然《ごうぜん》と主張した。階上は階下と同様東西に一本の廊下が走り、その両側に寝室が並んでいる。いくら山国であるとはいえ、日中は太陽の光がじりじりとさし込むから、だれにしても北側の部屋をとりたいところであった。 「そりゃいかん。わり当ては籤《くじ》かなにかで公平にやるべきだ」  行武が太い声を張り上げて正面きって反対した。北九州生まれのこの男は色が蒼くて髪と眉が濃く、いかにも神経質そうにひょろりとしてみえるが、声の調子は意外にも粗野な感じのバスである。しかもそのバスは日本人には珍しく厚みがあって、ちょっとロシヤ人みたいである。  彼の性格も一見したところ芸術家肌の神経が細そうな印象をうけるが、実際はまったくちがって芯がふとくて意地がわるく、またときには冷酷でもあった。だから異論があると少しの遠慮もなく反対をとなえ、だれかれの見さかいなく衝突する。ことに尼リリスとは俗にいう犬猿の仲だった。目にかど立てて睨み合うのは毎度のことであった。 「どうしてさ、どうしていけないのさ」  と、彼女はすぐ喰ってかかる。わがままに育ったひとり娘だから無理ないことともいえようが、肥っているせいか、口をとがらせるとふくれた河豚《ふぐ》に似てくる。 「文明人はレディーファーストを知るべきだわよ。ホッテントットなら知るはずもないけどさ」 「なにっ、ホッテントットとはなんだ、え、ホッテントットとは!」  行武は酒をのんだり腹をたてたりすると青くなるたちである。こめかみの血管をふくらませて鼻の孔をひくひくさせ、立ったまま相手を威圧するように睨みすえた。尼リリスはふんと鼻の先をならすと、ことさら落着いた様子でポケットからチューインガムをとりだし、紙をはいで口のなかにほうり込むと、下品な音をたてて噛みはじめた。  行武は怒りのあまり、ただふるえるきりで言葉がでなかった。彼女の人をのんだやりかたはいつも見慣れていることだったが、行武はその図太さにすっかり圧倒されてしまったのである。 「よせよせ、喧嘩は」  行武の敗北をみとめたように仲裁をかってでたのは橘秋夫《たちばなあきお》だ。度のうすい、ふちなしの眼鏡をきらりと光らせ、みどりの半袖シャツに空色のズボン、ひと握りの髪の毛をわざとらしく額にたれ下げた気障《きざ》な男で、専門はピアノをやっているけれど、学期末の試験でバッハの『平均律』に妙なシンコペーションをつけて弾き、試験官の教授を慨嘆させたというエピソードをもっている。卒業後の希望はキャバレーでジャズピアノをやること。そのほうがクラシックのピアニストよりも収入が多いからだそうだが、いかにも橘らしいわりきった考え方であった。  本来ならば行武もこうした薄っぺらな男の仲裁をいさぎよしとするはずはないのだけれど、敗色の明らかとなったいまは橘も「時の氏神《うじがみ》」である。おとなしくいうことを聞いて身をひいたが、なんとも無念きわまりない表情であった。  結局、一同は騎士精神を発揮して、ご婦人がたに北側の部屋をゆずることになり、万平老の案内で階上に上っていった。     三  食事の仕度ができたことは、ディナーチャイムによって知らされる。万平老がチャイムを左腕にかかえて階段の下に立ち、右手の打棒で金属板を鳴らす図は、欧州の絵や物語にでてくる辻音楽師の現代版といったところだ。  その夕方はだれもが空腹であったとみえて、七つの扉がいっせいに開いた。男性の多くは部屋衣に着かえているが、牧数人だけはりゅうとした服の胸からハンカチをのぞかせ、几帳面《きちようめん》な性格の一端を示していた。服装を整えることに気をつかうのが紳士の条件であるならば、彼こそはりら荘随一の紳士といってよかった。百七十五センチのすらりとした体つきの貴公子然としたテノールで、在学中すでに三つのオペラで主役をやっている。いつも子爵とか伯爵とかいう役どころだったが、今年の四月に日比谷公会堂で『マルタ』の若き農夫ライオネルを演じたところ、これまた見事に成功して�夢の如く(マツパリ)�はアンコールをしなくてはならなかった。わが国のオペラ上演は日が浅いため、観るほうもやるほうも慣れていない。その慣れない観客が、熱狂したあまりアリアのアンコールを求めたのは牧のライオネルが初めてのことで、その舞台姿が水際《みずぎわ》立っていたのは勿論のこと、彼の歌、彼の演技のなみはずれてすぐれていることが証明されるのである。と同時に、そのことは在学生のあいだに多くの敵をつくった。嫉妬反感という感情は、とくに芸術家人種には強烈なものだからだ。  牧のあとから、なりふりかまわぬ行武が歩いてくる。まさにいいコントラストだが、彼の場合は風態を無視することがお洒落となっていることに、自分では気づいていない。  七人の男女は一団になって食堂に入った。食堂は、先刻の応接間の前をとおりこした右側にある。そこは北向きの部屋であるにもかかわらず、淡い桃色の壁紙をはったところが、応接間とは違って明るい感じを与え、日高女史も行武栄一も満足らしい表情だった。裏庭に向いた窓には金網《スクリーン》がとりつけてあるが、この山国には蚊もいないし蠅もいない。  行武は、尼リリスと隣り合うのはまっぴらだとでもいうように、大きな歩巾で入って来るといちばん奥の席に、入口をむいて坐った。橘はヘアトニックのにおいを発散させ、ふちなしのレンズを光らせて松平紗絽女《まつだいらさろめ》をエスコートしようとしたが、一足先にイスを引いて彼女を招いたのは安孫子宏《あびこひろし》だった。 「紗絽女さん、こちらへどうぞ。ぼく、お隣りに坐らせて頂きますよ」  髭の剃りあとが真っ青なくせに、一座のなかでもっとも背が低く、童顔である。彼を見たものは、誰もが子供と大人が同居しているようなちぐはぐな感じをうける。が、その声がまた意外にも錆《さび》のきいたバスであった。音楽学部合唱団のなかでは低音部の有力なメンバーだけれど、体格にめぐまれぬためか行武に比べると声量にとぼしい。胸声に対して彼のようなものを頭声というのだけれど、そこに低音歌手としての安孫子の悩みがあるのだった。子供々々しているくせに気位が高いものだから、滅多なことで頭をさげない。道ですれ違ったときに交わす挨拶にしても、先方から声をかけぬうちは知らぬ顔をしている。そうした傲岸《ごうがん》な安孫子宏ではあるが、橘と恋の鞘当てをやるとなると、反り身になっているわけにもゆかぬとみえて、不器用ながら、つとめて松平紗絽女のご機嫌をとりむすぶのであった。 「あらすいません」  紗絽女はちょいと頭をさげるようにして、イスにかけた。トビに油揚をさらわれた形の橘は、あっけらかんとした表情で立っていたが、やがて安孫子の顔をみると冷笑をうかべて鼻をならし、紗絽女をはさんで安孫子の反対側に座をしめた。安孫子は彼の妙な笑いに気がついたのかどうか、しきりと紗絽女にお世辞をつかっている。  男物の眼鏡をかけ、マドロスパイプをくゆらす日高鉄子は、そうした男女間の微妙な問題には超然としているはずだった。ところが内心かならずしもそうでないことは、橘秋夫の前に席をとろうとしてやきもきしているのを見ればわかる。  彼女は決して美人ではない。正直に表現すれば醜いほうであった。だがいくら醜女であるといっても、恋してならぬ道理はなかろう。葡萄酒の上等なものとなると十年二十年と貯蔵し、こくの出るのを待つという。鉄子も当年とって二十と三歳、その二十三年間かかって仕込んだホルモンはいまようやく醗酵して、葡萄酒にたとえればまさに呑みごろであった。自分を呑んでくれる相手をほしい齢ごろであった。しかしなおおのれの醜女であることを自覚しているがゆえに、心ならずも心を偽って、異性を超越しているがごとく振舞わざるを得ない。鉄子は醜女の悲哀を痛感し、美人をみると心平らかならざるものがある。  しかし、橘秋夫が彼女の心を忖度《そんたく》してくれるはずもなかった。とき折り示す鉄子の好意を、多くは気づかずにいるが、たまにそれと知っても、この醜い女のふしぎなそぶりを気味わるく思うだけである。だからこのときも、後から入ってきて牧と尼リリスに声をかけると、席をわりあててしまった。 「きみきみ、ここに坐ったらどう? 牧はおれの前だ。リリス君はそのとなり……」  鉄子はこわばった表情をむりに押えて、悄然として行武のとなりに坐った。  料理番としてのお花さんの腕前は、口のおごった藤沢勘太郎氏に仕えたくらいだから、一応の水準には達しているとみてよい。その日の夕食に供されたものも、川魚の類を煮たり焼いたりフライにしたりして、結構学生たちの胃袋をたんのうさせてくれた。食卓の青磁のつぼに活けられたいろとりどりの庭の花も、ただ雑然とさしたのではなく、一茎々々がちゃんとした調和を保っていた。行武や尼リリスが先刻の口論を忘れたようになごやかに卓を囲んだのは、胃袋のお相手をすることでいそがしかったせいもあったにちがいないけれど、卓上の草花が人々の心をやわらげたためでもあったろう。  さて、夕食はいまも述べたとおりなごやかに、そしてにぎにぎしく終った。やがて一同の前に食後の水菓子がだされたとき、にわかに尼リリスが立ち上がると咳ばらいを一つして、ひとわたりみなの顔を見廻したのである。 「……じつは皆様……」  そういってふたたび咳ばらいをすると、あとはすらすらした調子でスピーチをはじめた。 「今晩は皆様に大変よろこばしい、また嬉しいニュースをおきかせ致します。このたび、橘秋夫さんと松平紗絽女さんとのあいだに婚約が成立しました。橘さんは将来を期待されるジャズピアニスト、ゆくゆくはわが国のポール・ホワイトマンにおなりになるかたですし、紗絽女さんは日本のルネ・シュメー、いいえ、エリーカ・モリーニ、いえ、ジネット・ヌヴーとなられる女流ヴァイオリニストで——」 「ちょい待ち」  と牧が声をかけた。 「ヌヴーは縁起がよくないぜ。せいぜいシュメーかモリーニにとどめとくんだな」  ジネット・ヌヴーはフランスの若い女流提琴家として名があった。そのむかし或るコンクールに出場して、わかき日のオイストラフを押えてみごと一位の栄冠を獲得したこともある名手である。そしてその女流らしい繊細なフランス派の奏法は多くの人に絶讃されていたが、アメリカへ演奏に向った途中旅客機が太平洋で墜落したため、哀れにも惨死をとげたのである。牧はそのことを意味したわけだが、やがて発生した一連の殺人事件を考えると、彼の言葉にも思い当たることがあるのだった。  尼リリスは元来が鼻ッ柱のつよいわがまま娘であるけれども、思慕の情をささげている牧数人に対してはなにごともさからわない。 「あら、そう。ともかくこのご両人は、一対のお雛さまのように美しく幸福なご夫婦となることでしょう。結婚の日取りは未定でございますけど、来春の黄道吉日と承っております」  彼女のテーブルスピーチを橘はたのしそうに聞いていた。ときどき手をのばしてブドウの粒をちぎり、ちゅっと音をたてて口に入れる。あまり行儀のよくない花婿候補だ。  松平紗絽女というのはいかにもわるふざけした名前のようだけれど、これは文学にかぶれていた彼女の父がつけてくれた真物の名前なのだ。ピンクがかった赤いわかわかしいツーピース、ぬきえもんの丸えりからのぞかせた黄色のブラウスが印象的である。尼リリス嬢とは反対に小柄でほっそりしていて、顔も平面的だし、洋装よりも和服のほうが似合いそうだ。しかし目が大きいので化粧をすると派手な顔になる。 「ご両君おめでとう。そうだ、乾杯しよう。待ってくれ」  牧が簡単に祝福して、そういい残して立ち上った。ちかごろわかい人のあいだではホームバーをつくることが流行している。彼もさまざまな洋酒の組み合わさったセットを持っていて、それを貨物便で先に送り、いまもこの食堂の一隅においてあるのだった。  牧が立ったあとの食堂には、白茶けた、気まずい空気が、波紋のようにひろがっていた。先に述べた尼リリスと行武のいさかいが陽気な前奏曲であるとしたなら、これは、陰気でじめじめした間奏曲であった。日高鉄子は不意をつかれたように、激しくまばたきをしてリリスのスピーチを聞いていたが、すぐに下を向いてしまった。行武が話しかけるととんでもない返事をし、ふたたびうつむいてしまう。  安孫子も驚かされたことは同様である。根が傲岸不遜《ごうがんふそん》な性格だけに、鉄子のようにへこたれることはない。剃りあとのあおあおとした顔をぐいとねじって、紗絽女と橘の横顔をねめまわすように交互ににらんでいた。自尊心の強い男だから、胸中の無念さはおして測ることができる。浅薄《せんぱく》な橘にしてやられたことも口惜しいけれども、彼のごとき浮薄な男を夫として選んだ紗絽女そのものに対しても、激しいいきどおりを感じているようだ。  ジャズピアニストが芸術家であるかないかは別問題として、安孫子自身はそれを芸能人であると考えていた。この芸能人と芸術家たる自分とを秤《はかり》にかけて比較したとき、紗絽女が自分をえらぶにちがいないという絶対の信念をもっていたのだ。その自信がいま小気味よいほどにぺりぺりと音を立てて引き裂かれ、紗絽女の小さなパンプスの下で無残にもふみにじられてしまったわけである。ついいましがた、そういうこととは露知らず彼女のイスを引いて腰かけさせてやった愛人気取りの間抜けさかげんがなんとも腹立たしく、いまいましくてならないのであった。  尼リリスはこの場の空気を形容して、後日事件が発生したとき駆けつけた係官に、つぎのように述懐している。 「みなさんがあれほどショックをうけるとは思いませんでしたわ。なんといいますか、どすぐろいもやもやしたものがお部屋いっぱいに拡がってゆくような気がして、なにか不吉なことが起らなければいいがと、胸のうちで祈らないわけにはゆきませんでしたの……」  彼女はその場の雰囲気を敏感によみとったせいか、やがて牧が洋酒のケースを抱えて席にもどると、とりなすように自ら先に立ってグラスをならべ、葡萄酒の瓶をとりだして、みんなについでまわった。 「おれは呑まん、おれは呑まんぜ……」  手をふって拒んだのは、行武栄一である。先刻から黙々としてつまようじで歯をせせっていた彼は、このときはじめて口をひらいた。以前の行武は酒豪として鳴らしたものだったが、音楽学部に転科する前からぷっつり盃と縁を切ってしまっていた。 「でも、お祝いだからいいでしょ」 「呑みたくない」 「普通の場合とちがうんですからね。これはエチケットの問題よ」  両名のあいだの雲行きがまたもやおかしくなってきた。行武が目をむいたのは、先刻のホッテントットを想起したためかもしれない。 「おい行武、呑む真似をすればいいんだ。強情をはるなよ」  牧に声をかけられて不承々々酒を受けた。  やがてグラスに葡萄酒がみたされると、一同は盃をあげて橘と紗絽女の婚約成立を祝した。尤も、プロージットと気障っぽくいったのは尼リリスと牧数人の二人きりで、安孫子の童顔は苦りきっているし、鉄子はすっかり意気銷沈《しようちん》していた。行武はお花さんから番茶をついでもらい、唇をとがらせて吹いている。婚約の発表などまったく無視しているようだった。  祝福し祝福されて愉快そうなのはあとの四人だけで、ことに橘と紗絽女の両名は幸福に酔いしれたせいか、それとも元来が他人の思惑にこだわらぬたちなのか、無遠慮に笑いさざめいて、沈みがちの食卓をにぎわしていた。     四  一夜明けて八月二十一日。  熟睡できなかった安孫子宏は早目にベッドからおりて窓をあけた。昨夜は星月夜であったのに、今朝はけぶるような霧雨《きりさめ》が音もなく降っている。芝生の上の日時計のしっぽりぬれそぼれているさまが、妙に哀れっぽく見えた。  洗面道具をもって階下におりていくと、洗面所にだれやら人のいる気配がする。扉をあけた彼は、そこに日高鉄子の姿を発見した。彼女もまた眠れなかったとみえる。昨夜の安孫子は大きな衝撃《シヨツク》をうけたあまりに他を観察するゆとりはなかったけれど、ベッドの上で輾転反側《てんてんはんそく》しているうちに、ふと鉄子の恨みがましい眸《ひとみ》を思いうかべ、彼女もまた被害者の一人であることに気づいたのであった。 「おはよう」  と安孫子は故意に快活に声をかけた。気位のたかいこの男が、自分から挨拶をするのは珍しいことなのだ。 「あらおはよう」  鉄子は眼鏡をはずした顔でなにかはじらいの色をみせて答えた。その表情は女でなければ表現することのできないなまめいたものであり、安孫子は、はじめて鉄子が女性であることを認識したように目を見はったのだった。  さて、りら荘第二日目の最初のいさかいは、朝食のすんだあとで起った。昨夜の気まずい雰囲気が少しではあるけれど薄れたのは、時間がたったせいもあるだろうが、鉄子と安孫子がたがいの立場を同情しあい、それぞれの傷ついた気持をいたわったためでもあった。  ところで食後のお茶を飲んでいるとき、紗絽女がふと思いついたように、こんなことをいい出したのである。 「お部屋の入口にめいめいの名札を貼っておきましょうよ。お船みたいで素敵だわ」  女というものは、いくつになっても女学生気分がぬけないらしい。尼リリスが即座に賛成した。 「そうだわ、そうだわ。一週間もいるんですもの。名札をだしたほうがいいわよ。名札をださないと、ドアがずらりと並んでいるものだから、あたしが牧さんのお部屋にいくつもりで行武さんのところへ入ったら、たちまち大騒動になるじゃないの」  そうした他愛ない話から、万平老人の硯函《すずりばこ》をかりて、行武が一筆ふるうことになった。現代の若者に共通した特色として一同そろいもそろって字が下手である。だが行武だけはどうしたわけか枯れた手をもっていて、なかなかうまい文字をかく。学校にいるときは、アルバイトにでかける学生たちの履歴書を代筆することが、彼のアルバイトでもあった。  行武は筆先を噛みくだくと、尤もらしい表情で各人の名を紙片にしたためていった。 「うまいね」 「ほんと。味がある字だわ」  周囲の連中は、しきりにお世辞をいっていた。やがて書き上げた七枚のカードをずらりと卓上にならべて、行武がほっとした顔になったとき、一座のなかからいきなり爆笑がおきた。驚いてふり返ってみると、安孫子が臍《へそ》のあたりを両手で押え、小柄な体を二つに折るようにして、子供っぽい丸顔を真っかにそめて笑っている。 「どうしたのよ、どうしたのよってばさ」 「なにがおかしいんだ、おい?」  口々にきかれてようやく発作《ほつさ》がとまると、それでもまだこみ上げてくる笑いを押えるのに苦心しながら、安孫子はとぎれとぎれに答えた。 「シリだよシリだよ……リリスさんのシリだよ……」 「あたしのお尻がどうかしたの? いいなさいよ、はっきり!」  リリスは狼狽したように怒鳴りつけて、自分のスカートをつまんで肥満した腰のあたりをみた。 「ちがうんだ、ちがうんだ、あの字だよ……名札の字……」  指さされて、ようやく気がついた。弘法も筆のあやまりというべきか、行武は尼とかくつもりで尻とかいていたのである。  今度は彼が狼狽した。その様子をながめていた安孫子はまたも笑いがこみ上げてきた。 「ワハハハ、尼リリスが尻リリスなら、雨合羽が尻合羽で甘納豆が尻納豆だ。ハハハ、天照大神が尻照《しりてらす》大神とは恐懼《きようく》おく能わざるところだよ。これが戦前だったら行武、お前は皇室|侮辱《ぶじよく》の罪で絞首刑だぞ、ワハハハ……」  彼がここを先途とばかり笑いころげたのは、昨夜来の鬱積《うつせき》したものを吐き出そうとした欲求もあったろうが、もう一つは行武に対する反感がいっぺんに爆発したものともいえる。美術学部から転入してきた行武のほうがバス歌手として才能にも恵まれ教授の覚えもめでたいということは、安孫子にとって我慢できなかったに相違ない。そのはけ口を見出して、彼は快よげに爆笑し、嘲笑した。だが彼は、傍らにリリスのいることをすっかり失念していたのである。 「なんですって? あたしが尻リリスで、甘納豆が尻納豆? とっちゃん小僧が何いってんのさ、チンチクリンのプンプクリンのくせに」  彼女は真っかな唇をゆがめて憎々しげに毒づいた。いままで、大口をあいて笑いつづけていた安孫子は、ぽかんとした表情でリリスを見、ついでみるみる顔色をかえた。逆鱗《げきりん》にふれると竜が激怒するように、安孫子はとっちゃん小僧といわれることをなによりも嫌っていたのである。 「う、う、う!」  かーっとのぼせるとともに舌がひきつって、唸るきりで言葉がでない。卓上の茶碗をひっつかむや相手めがけて叩きつけた。間一髪、茶碗は女の髪をかすめて背後の壁にぶち当り、大きな音をたててわれた。  あとから考えてみると、後に問題の焦点となったあの男がリリスのレインコートを盗んでいったのはこの騒ぎの最中にちがいないと判断されたのだが、一同は二人の男女をなだめすかすのにおおわらわになっていた。そうした侵入者があったとしても気づくわけがなかったのである。橘と牧と行武が一緒になって安孫子をだきとめれば、鉄子と紗絽女がリリスの腕をおさえる。ようやくにして両人をひきはなしたときには、仲裁者のほうがぐっしょりと汗をかいていた。  さて事件はこの日を発端として続発するのだから、当日のことは、できるだけくわしく叙述していく必要があろう。後日ふり返ってみると、ちょっとした言葉の端にも、些細な行動にも、謎を解くに足る大きな意味がひそんでいたからである。  尼リリスという女性は、どこか人を喰ったところがある。行武と争った最中にガムを口に入れたのも、相手をなめてかかったわけでなく、ふいにガムを噛みたくなったから噛んだにすぎない。行武がその図々しいやり方に気勢をそがれてしまったのは、むしろ彼のほうが純な性格をもっているためといってもよいであろう。安孫子と大喧嘩をやったのちけろりとした表情で一座を見渡し、トランプをして遊ぼうではないかといったのも、いかにも彼女らしいことだと思って、めいめいが胸中で呆れかつ感心したのである。  馬鹿にしてやがる、といった表情で、安孫子は肩をそびやかして食堂をでていった。 「ふん、丁度いいわ。六人でできるゲームしましょう。紗絽女さん、すまないけどカード取って頂戴よ。そこの棚の上においてあるはずだわ」  紗絽女はすぐ立ち上ってカードの箱をとると、牧に手渡した。彼女が素直なのは牧数人とリリス、それに未来の夫に対してのみである。 「ありがとう……」  礼を述べてうけとった牧は、とたんに合点のいかぬ表情をうかべて、カードの箱を耳もとでふってみた。 「どうしたの?」  それには答えずにふたをあけてみると、いやに数が少ないのである。枚数が不足していてはなんの役にもたたない。牧はひいふうみい……と口のなかでつぶやきつつ数えていたが、いぶかし気にリリスの顔を見た。 「変だぜこれは」 「どれ、貸して」  尼リリスが手にとって調べていたが、やがていきなり卓上にぱらりとなげ出した。 「馬鹿にしてるじゃないの、スペードが全部ぬけてるわ」  若者たちは黙ったまま、たがいに顔を見合わせていた。だがその時点で紛失したスペードの札があのような禍々《まがまが》しい目的に使用されようとは、犯人を除いたこの屋根の下にいるもののだれ一人として気づくものはいなかったのである。 「それじゃ仕方ないわ。トランプするのはあきらめましょう」  リリスはそういってため息をついた。窓外の雨はいつか濃い霧にかわっている。紗絽女は立って電灯のスイッチを入れた。     五  日高鉄子が朝食をすませたあとで東京へ帰ったものだから、その日の夕方食堂に顔をそろえたのは六人であった。リリスは、紗絽女とおそろいで買ったレインコートが盗まれたといって、うかぬ顔をしている。  一同がテレビでニュースを見ていると、そこに背をまるくした万平老人が入ってきて、手近かにいた牧の耳に何事かをささやいた。 「諸君、警官がわれわれに会いたいというのだが、どうする?」 「警察? なんの用だ?」  行武がとがめるように訊いた。 「知らん。なにか重要な話らしい」 「応接間でお会いしましょうよ」  と紗絽女が提案した。はずんだ声をだしたのは彼女一人だけで、あとの男女は、警官が来訪した目的がどこにあるのかしきりに訝《いぶか》っていた。  一同が応接間の安楽イスに腰を降したかおろさぬうちに、扉のところで如才ない挨拶をして入ってきたのは齢のころ三十前後の精力的な感じの男で、たけが高くむだ肉のない、しまった体つきをしていた。目が細くて鼻孔が思いきりふくらみ、行武にいわせれば「ハードボイルドによくでてくる、ぶっ壊れたような顔つき」の刑事であった。彼はイスに坐ると、自分は秩父警察署の由木《ゆき》刑事であると自己紹介をした。ついで風呂敷づつみのなかから百円紙幣と山手線の回数券のつづり、一本の万年筆をとりだした。 「皆さんのなかで、この万年筆に見覚えのあるかたはいらっしゃいませんか」  指につまんで一同に見えるようにした。女もちの小型のものである。尼リリスはいつになく少々うわずったような声で答えた。 「あたしのですわ、それ」  すると彼は回数券を、彼女のほうにおしやりながら、つぎの質問を発した。 「これは?」 「それもあたしんです、何処にありましたの?」  刑事はそれには答えなかった。 「あなたは尼リリスさんとおっしゃるんですか」  リリスはごくりと唾をのんで、珍しく神妙な表情をうかべた。 「そうですけど」 「すると、これもあなたのですね?」  彼は風呂敷のなかから白いレインコートをひきだした。 「尼リリスというネームが入っています」 「あたしんです。今朝なくして、盗まれたものと思ってあきらめていたんですの」  刑事はコートをふたたび風呂敷にしまい込むと、万年筆と紙幣と回数券をリリスに渡した。 「このコートは証拠物件として、もうしばらく拝借させていただきます」 「あら、なぜですの」 「じつはですね、ここから二百メートルばかり上流の崖下に死人がありまして、その屍体の横にこれがおちていたんですよ」  室内の空気は急にひきしまったようだった。由木刑事は一同の表情を素早く見廻して、言葉をつづけた。 「死んだのは須田佐吉《すださきち》という炭焼きの男でしてね、死因は崖から落ちて頭を打ったためとわかったのです。崖の途中には辷《すべ》りおちた跡がついていました。この辺では、霧のために道をふみ誤るという事故は珍らしくありません。そこでわたしのほうでは過失死とみなした。雨がふっていたため、どこかでレインコートを失敬して、これを頭からかぶって歩いていくうちに、足をすべらせて墜落したもの、と考えたんです。ところが……」  刑事はふたたび一同の表情をすばやく見渡して、ポケットから一枚の紙片をとりだし、それを卓上においた。 「屍体のそばにこんなものが落ちていました」  紗絽女が息をのんだ。おどろいたのは当然だった。それは紛失したカードのなかのスペードの|A《エース》だったからである。 「あなたがたと違ってわたしは田舎者ですから、トランプ遊びなどはほとんど知らんのですが、しかしスペードのAがスペキュレーションという強力な切り札であることぐらいは知っていますし……」  刑事はそこで言葉をきると、また一同の表情をながめながら、語りついでいった。 「……スペードのAが死を意味する札であることも承知しておるのです。だからわたしは、ひょっとするとこれは殺人ではあるまいかと考えました。今夜こうしてお邪魔に上ったのも、そうしたわけからなのです」 「ぼくらがやった、とおっしゃるんですか」  と、牧が訊いた。おだやかな口調であった。 「いえいえ、そんなことを申しているわけじゃありませんよ。ただですね、ほんの形式として、みなさんがたの今日の行動をおたずねしたいのです」 「ぼくからいいます。午前中は部屋からでませんでしたよ」  と安孫子が反り身になって答えた。 「不愉快なことばかりあったもんで、ベッドに寝ころんで、東京へ帰ってしまおうかなどと考えていたんです」 「午後は?」 「午後はちょっとでました。駅の前までタバコを買いにゆきましたが」 「午前中ずっと部屋にいたことをだれか証明してくれますか」 「さあ。ともかく独りでいましたからね」  刑事は案外あっさりした口調でそれをみとめ、手帳をひらいた。 「結構です。つぎどなたでも……」 「あたくし、九時頃から散歩にでましたわ」  紗絽女の大きな目がいつになく興奮したようにかがやいていた。 「一人でですか」 「いいえ、この人と一緒に。あの、昨晩婚約したばかりですの……」  由木刑事は、当てられたように微笑して彼女と橘の顔をみた。橘はふちなしのレンズをしきりに磨きながら、平静をよそおっているふうだった。 「東京は霧がでることは少ないですからね。なんだかロマンチックな気がしたもんであちこち歩いて、昼食をとりに戻ったのが一時すぎでしたな。午後は晴れたから庭のベンチで語り合っていましたよ」 「なるほど、それはお楽しみなことで。ではつぎ……」 「あたしは昼食がすんだあと、写真をとりにでかけましたわ。午前中は霧雨がふってたし、レインコートを失くしてしまったもんだから、お部屋にいたの」  と尼リリスが答えた。彼女はカラー写真に凝っていて、今度もフィルムを三本持ってきている。そしてそれを、あるフィルム会社のコンテストに応募するつもりでいたのだ。以前も二等に入賞してトロフィーをもらったほどの腕である。 「途中までいってフィルターを忘れたことに気づいたので、一度とりにもどりましたわ」  入口の鉄柵《てつさく》の門のところでタバコを買いにでる安孫子と顔を合わせ、たがいにそっぽを向いたことは黙っていた。 「ちょっと。レインコートはどこで盗まれたんですか」 「階下の廊下ですわ。トイレの入口のそばの台にのせておいたのです。しみがついたもんだから、食事がすんだら洗おうと思ってだしてあったんです」 「内玄関からのぞいてちょいと失敬したんだな」  刑事はひとりごとのように呟いた。 「午前中部屋にいたことは、だれか証明してくれますか」 「それはわれわれ、つまり、わたしと日高君……」  といい掛けて、牧は、彼女が東京へ帰ったのに気がついた。 「わたしが証明します。わたしの部屋で話をしたりしましたからね。わたしは一日中まったく外出しませんでしたよ」 「すると残ったのはあなたですね」  と刑事は行武に視線をうつして、メモをとっていた鉛筆で耳をかいた。バスの行武は長くたれた髪をかき上げておいて、蒼白い顔を刑事にむけた。つめたい、切れ長の目をしている。 「松平君たちに少々おくれて十時前から散歩にでました。霧が顔にあたって気持がよかった。駅のちかくまでぶらぶらして、昼めしの時刻には帰ってきましたな。ところで刑事さん、その男が仮りにつきおとされたとしてですな、殺されたのは何時ごろなんです?」 「十一時前後」  刑事はぷつんと答えた。行武はぐっというような声をあげて安楽イスをにぎりしめた。そのころ外出していたものといえば、行武と紗絽女と橘秋夫の三人きりではないか。  彼は落着きを失った目つきで紗絽女の表情をうかがった。気のせいか彼女も橘も平然と構えている。刑事は、行武の顔に鋭い一瞥をくれてから牧をかえりみると、しずかな調子でたずねた。彼も牧のおだやかな性格をみぬき、好感をよせているふうに見えた。 「ところで牧さん、あなたはどうですか」 「わたし? いまも申したとおり、一日中ここにおりましたよ」 「なるほど。すると一歩も外出しなかったのはあなただけですな」 「ええ」 「それを証明してくれる人は?」 「午前中は尼君と一緒でしたが、午後は独りでいました」 「散歩はきらいですか」 「いえ。ただですね、霧のなかを歩くことはなるべく避けるようにしています。喉をいためますからね」  なめらかな、きれいな声だった。声楽家の卵だから、喉を大切にするという理由にも説得力がある。刑事は大きくうなずいて手帳に書きいれていた。そして初めから読みなおしているふうだったが、急に顔を上げ、細い目で牧を見つめた。 「もうひとりの女のひとがいるという——」 「ああ、日高君は東京へ行きましたよ。絵具を買いに……」 「ここをでたのは何時頃でしたか」 「朝食のあとですから、八時半頃でしたね」 「するとまた戻ってこられるんですな。しかし画家が絵具の用意を忘れるというのは変じゃないんですか」 「さあ」  と、彼は肩をすくめた。牧は、ブラック女史のうちのめされたような気持をよく理解できるつもりでいた。昨夜も、カードを手にして二階へ上っていく姿を見かけたが、それは自分の恋愛運でも占うためではなかったろうか。その鉄子が、ひそかに心をよせていた橘をうばわれて、敗北者として去っていった心境には同情をしないわけにはいかないのである。絵具を買うというのも、ここを逃げ出すための口実にすぎまい。  だが、そうしたことまで刑事に語る必要はなかった。 「わたしに絵のことは解りませんが、ペルシャンブリューという絵具がだめになっているとかいってましたね」  刑事は黙ってうなずいた。すると会話のとぎれるのを待っていたように、安孫子が口をはさんだ。 「刑事さん、その炭焼きを殺した犯人が仮りにこのなかにいるとすると、動機をなんと説明するんですか。われわれは会ったことのない男を殺すほど酔狂じゃないですよ」 「それはですね」  刑事はしずかな調子で答えた。 「犯人は須田がこのかたのレインコートを着ているのを見て、それを取りかえそうと思ったのかも知れませんよ」 「しかしですな」  と、小男の安孫子は後にひかなかった。 「松平、橘の両君ならともかく、行武君にはそのような親切心があるとは思えんですな。なぜならば、彼と尼リリス君とはただでさえ犬猿の仲なところにもってきて、昨晩大喧嘩をやったくらいですからな」 「それならばこうも考えられるじゃないですか。犯人は尼リリスさんを殺したいと希《ねが》っていた。たまたま、白いレインコートの人間が歩いて行くのを目撃したその人物は、てっきり相手を尼リリスさんと誤認したわけです。そして、発作的に殺意にかられてやったのです。なにしろ、ああした深い霧だから見違えるのも無理はない」 「まあ怖い。止《よ》して頂戴、そんなお話……」  尼リリスが怯えたように目を大きく開いて叫んだ。両手を心臓のあたりにのせて、胸をだきしめるようにしている。その手の甲は肌があれて、ぎすぎすしているように見えた。 「あたしを殺すなんて……残酷だわ」  刑事は素直に頭をさげた。 「気に障ったら勘弁ねがいます。単なる仮定の話ですよ」  すると、いままで擬似犯人にされていた行武がいささか気色《けしき》ばんだ口吻でいった。彼は興奮するとますます蒼白くなるたちだった。 「単なる仮定の話でよければ、もう一つの解釈がありますぜ」 「なんですね、それは?」  行武はすてばちな笑いを口のあたりに浮べ、二人の女性のほうを顎でしゃくった。 「松平紗絽女嬢と尼リリス君は、おそろいの白いレインコートを持っているということですよ。つまりですな、犯人は炭焼きをリリス君と見誤ったのではなくてですな、この紗絽女嬢と誤認して殺したかもしれんのです。ことわっておきますがね、わたしがやったのではないです。わたしには彼女を殺すような動機はないのですからね」  いい終えると、とってつけたように声をたてて笑った。  今度は紗絽女が小柄な身をちぢめるようにして怯えた。橘が映画のなかの二枚目がやるように、その手をにぎってなでている。  刑事は開いた手帳に目をおとしていた。簡単なメモ程度のものではあったが、各人の行動が一見して判るように、表にしてある。   安孫子宏 (午前)自室にいた。証人なし。        (午後)タバコを買いに外出。   松平紗絽女(午前)九時から散歩に出る。        (午後)一時に戻る。   橘 秋夫 (午前)右に同じ。        (午後)右に同じ。   尼リリス (午前)在室。証人は牧。        (午後)昼食のあとで外出。   行武栄一 (午前)十時前に散歩に出る。        (午後)昼食までに戻る。   牧 数人 (午前)自室にいた。証人は尼リリス。        (午後)在室。   日高鉄子 (午前)八時半に出発、東京に帰る。        (午後)東京に帰っていた。   註 炭焼きが殺された時刻は午前十一時前後である。  由木は一つうなずくと、手帳から顔を上げた。 「ところで、二階の部屋にいるものが、だれにも気づかれないようにして外出することはできますか」  由木刑事が安孫子のことを訊ねていることは、だれにでもすぐ解った。 「できないことはないですな」  怒ったように答えたのは当の安孫子だった。 「人の見ていないときを狙えば、堂々とでていくこともできるし、窓から樋《とい》を伝っておりることもできるでしょう。それにわたしには動機もあるんだ。昨夜紗絽女さんに失恋しているんです。可愛さ余って憎さが百倍というではないですか。まさにわたしはその心境ですからなあ……」  二 ハートの3とクラブのジャック     一  刑事という仕事は、ある意味で心理学をマスターしていなければ勤めることが難しいであろう。安孫子の破れかぶれな発言に対して、この秩父署の刑事は真っ向から追及するようなことはせずに、まるで彼の心をいたわるような表情で軽くうなずくと、質問の方向をぐいと変えてしまった。 「ところでこのカードですがね」  と、彼は屍体のそばにおちていたというスペードのAを指ではじいてみせた。 「どなたか見覚えありませんか」 「…………」  一同はすぐに返事をせずに、たがいに顔を見合わせた。見覚えがあるないの段ではない。彼らがいままでに幾回となく遊んだカードなのだ。 「あたしんですわ」  尼リリスが喉のつまったような声をだした。 「あなたの? これがですか」 「ええ」  刑事は体の向きをかえると、上体をリリスのほうにのりだした。 「それがどうして屍体のそばにおちていたんです?」 「知りませんわよ、そんなこと!」  肥ったソプラノ歌手は吐きだすようにいった。刑事はあわてて首をちぢめると、すなおに謝った。 「これは失礼、あなたが知るはずはなかったですな。では残りのカードを拝見させて下さい」  刑事の質問が癇にさわったとみえ、リリスは頬をふくらませて立ち上ると応接間を出ていったが、まもなく食堂の棚からカードの箱を持ってきた。 「やあ、すまんです」  軽く頭をさげて受け取った刑事は、箱の感じで中身の少ないことを悟ったのであろう。おやという表情でふたをとると、カードを卓上にぱらりとふりだした。一同の視線は、刑事がついでどんな表情をするであろうかとそれを楽しみにしているように、いっせいに彼の顔にそそがれている。カードを卓上にひろげていくに従って、刑事は訝しそうな面持ちをうかべたが、やがて顔を上げると怒鳴るようにいった。 「これはどうしたわけなんです? スペードの札が全部ぬけてるじゃないですか」 「そうなんです。われわれも今朝気がついたんですが」  牧の説明を刑事は体をのりだして聞いていたが、話が終るとはずんだ調子で質問を再開した。 「最後にトランプをやったのはいつですか」 「昨晩でした」  落着いた口調で答える牧の顔を、じいっと喰いこむように鋭い眸で見つめながら、刑事は鉛筆の先をなめた。 「メンバーはだれでしたか?」 「あたくしと橘さんと、それからリリちゃんに牧さん。そのよったりでしたわ」  と、横から松平紗絽女が口をはさんだ。ほっそりした体にふさわしく、細い声だった。 「そのときは異状なかったのですな?」 「ございませんでしたわ」 「ゲームがすんだのち、カードは、どこに置いたのですか?」 「食堂の棚ですの」 「するとその後から今朝にかけて、だれかがそれをひきぬいたことになる。食堂はだれでも入れるのですか」 「ええ、鍵はかけてございませんから。それに、カードを盗る人があろうとは夢にも思いませんでしたし……」  由木刑事は無言のままうなずくと、みなの顔を無遠慮な眸でぐるりと見廻した。りら荘にやってくるまでは、刑事も炭焼きの死が過失か殺人か、決めかねていたのであろう。だが、屍骸の近くに落ちていたカードがリリス所有の紛失した十三枚のスペードのなかの一枚であることを知ったとたんに、事件が単なる過失死でなかったと悟ったに違いない。彼の陽焼けした頬にさっと血がのぼったのは、内心の興奮をあらわしているとみてよいだろう。  刑事の視線が行武に及んだとき、彼は長髪をゆさぶるようにして意見を述べた。ロシヤの農奴《のうど》を思わせるような野性的な低音である。 「ぼくはこの点を考えてみたいんですがね。つまり犯人は、刑事さんのいわれる通り、盗んだレインコートを被っていた炭焼きを、紗絽女君もしくはリリス君と誤認して崖からつき落す。そのあとで十三枚のカードのうちスペードのAをえらんで屍体のそばに投げおとしておいた。問題は、それがなにを意味しているだろうか、ということなんですよ」 「で、あなたはどう解釈されるんですか」 「つまりですな、ぼくが警告したいのは、犯人が連続殺人を計画しているのではないか、ということですよ」 「なんだって?」  はじかれたような声をだしたのは橘だった。素通しみたいなレンズに天井の灯りがきらりと反射した。 「連続殺人……?」 「そうさ。連続殺人だよ、連続殺人」  行武はジャズピアニスト志願のこの男をからかうように語尾に力をこめていうと、刑事のほうを向いた。 「さもなければ、スペードの札を十三枚もひきぬくわけがないでしょう?」 「するときみは、事件がまだまだ続発するとおっしゃるんですな?」 「そうです、犯人が尼リリス君を殺そうと考えているのか、松平紗絽女君を殺そうと考えているのか、その点はいまもいったようにわからんですが、自分の計画が失敗した以上は、あくまで目的を完遂しようとしてかかるに違いない。だからぼくは、つぎの犠牲者は尼君か松平君だろうと思うんです」  悲鳴をあげて、尼リリスが牧にしがみついた。紗絽女は頬を蒼白ませたきり、身動きすらしない。 「止して頂戴! あたし、人から恨みを買うことなくてよ」 「ないことはないさ。きみみたいに傍若無人《ぼうじやくぶじん》に振舞ってれば、振舞う当人は愉快かも知れないが、振舞われるほうはたまらん。腹を立てている人間も少なくはないと思うがね」 「それじゃあんたが犯人ね。そうだわ、きっとそうよ。あたしを嫌ってるのは、あたしを憎んでるのは、あんたよ」 「おいリリちゃん、興奮しちゃいかん。刑事さんの前で滅多なことをいうものじゃない」  見かねた牧数人がリリスの肩をつかみ、軽くゆすぶるようにしてたしなめた。 「いや、いや、止めないで。この人よ、この人だわ。あたしを殺そうとしているのは行武さんだわよ」  リリスは駄々ッ子のように声を高めてわめいたかと思うと、牧の胸に顔をうずめてわっと泣きはじめた。橘はびっくりしたように目を丸めて彼女をながめている。紗絽女は顔の筋肉一本うごかさずに、じっと壁を見つめていた。 「そうかもしれんよ、おれが犯人かもしれん。事実おれはきみが大嫌いなんだし、だいいち、おれには午前中のアリバイがないんだからな」  やぶれかぶれな言い方をして、行武はふたたび刑事に視線を転じた。 「もう一つぼくがいいたいことはですね、犯人は尼君か松平君を殺すことに成功したら、それで殺人劇の幕をおろしはしまいということですよ。いいですか刑事さん、第一の殺人事件は誤殺だったんですよ。犯人は炭焼きを殺すことは計算に入れてなかったのです。だから、彼が尼君なり松平君なりを殺そうと計画し、その屍体にスペードのAを残しておこうと考えていたならば、この箱のなかからA一枚だけをひきぬいてゆけばよかったわけです。ただ一枚だけ持ちだしてゆけばよかった。にもかかわらずスペード全部のふだをとっていったということは、犠牲者が三人や四人ではとどまらないことを暗示しているではないですか」  由木は小さな鉛筆で耳の穴をはげしく掻いていたが、彼がまだなにもいわぬうちに、安孫子が歯をむきだし鼻にしわをよせて、行武の説にはげしく反対した。 「ナンセンスだ。推理小説の読み過ぎによるノイローゼだよ。きみの論法でいくと犠牲者の数とカードの数が合わなくなる。仮りに、われわれ全員が殺されるとしても、犯人を除けば六名しかいないじゃないか。殺された炭焼きを加えて七名だ。ところがスペードのふだは十三枚あるんだぜ」  口論好きな行武は、いいカモが見つかったとでもいうふうに、蒼白い顔にうす笑いをうかべた。いかにも余裕ありげな表情である。 「おれの取り越し苦労だというならそれでいいさ。おれはただ当局の係官に一言注意しておきたかっただけだ。だが犯人は数学者じゃないんだぜ、芸術家の範疇《はんちゆう》には入るかも知れんが、数学者じゃないんだ。カードが二枚余ろうが、三枚余ろうが、そんなことを気にするはずはないと思う。犯人がわれわれのなかにいて、そいつが六名全員を殺そうとしてスペードのふだを六枚ぬいておいたとする。そこに今回のように冒頭に思わざる誤殺が起ったとすれば、たちまちカードは、一枚不足してくるじゃないか。だから犯人がスペードのAからキングまでのふだを盗っていたのは、あらかじめ不測の事態を勘定に入れておいたと考えることもできるんだ」  二人とも低音がきくから、やりとりが妙にドラマチックにきこえる。  安孫子はちょっとのあいだ黙っていた。が、すぐに顔を上げるとにやりとした。 「妙にくわしいじゃないか、え?」  行武は彼の皮肉を黙殺したまま刑事の顔を見た。 「落ちていたカードに指紋はついてなかったのですか」  彼らのカードは、汚れれば洗うこともできるようにビニールがひいてある。と同時に、それは指紋がつき易くもなっているのだった。 「指紋は発見できませんでしたよ。犯人が自分の指紋をハンカチで周到に拭きとったということが考えられますな」 「なるほど」  行武はおもむろに腕を組んで首をひねった。蒼白いひたいに髪がたれた。     二  刑事が帰ったのは九時少し前である。一同は揃って食堂にもどった。 「まったく長っ尻の刑事だな。八時半からFENでシナトラがあったのに聞きそこなったじゃないか」  橘はぶつぶつこぼしながら、ラジオにスイッチを入れてダイヤルを合わせた。すると、たちまちフランク・シナトラの喧騒なジャズがスピーカーをふるわせて聞えてきた。 「秋夫さん、お願い、止して……」 「オッケー」  紗絽女が頭痛のするような表情で叫ぶと、彼はただちにラジオをけしてとなりに坐った。  お花さんが番茶をいれて持ってきた。お茶菓子は山国のこととてカリントウぐらいしかない。行武は早速それを齧《かじ》りはじめた。 「みんなどう思う?」  と、だしぬけに牧が一座のものをかえりみた。 「どう思うって、なにをだ?」  橘はそういうと番茶をごくりとのみ、舌をやけどして顔をしかめた。 「決ってるじゃないか。行武の発言さ」 「おれの意見はさっきいったとおりだ。ナンセンスだと思うな」  安孫子が口をはさんだ。ナンセンスに思うというよりも、彼の真意は行武の言葉に遮二無二さからいたいようだった。 「そう単純に考えられれば世話はない。ぼくは行武説に賛成するね」 「すると牧、ぼくらのうちのだれかれが殺人鬼の犠牲になって殺されていくというのか。冗談じゃない。ぼくは安孫子に賛成だな」  と、ジャズピアニスト志望のこの男は眉をあげて、カリントウをつまんだ。橘の応援を得て安孫子は元気づいた。 「牧、きみはここにいる六人のなかに殺人鬼がまじっているというんだな」  彼は頬をゆがめて苦々しげに笑うと、言葉をつづけた。 「きみはおれのことを単純だと批判したが、簡単に行武の説に賛成するほうが単純じゃないか。殺人のたびに屍体のそばにカードを残していくというそのこと自体がナンセンスだ。なんの意味があるんだ?」 「きみには殺人者の心理がわかっていない」  牧は即座に反駁《はんばく》した。 「兇悪無残な殺人鬼が小動物を可愛がったという例はいくらもある。人を殺すことは平気な男が、一匹のカナリヤを助けるために身を挺して猛火のなかにとびこんだという話もあるんだ。その話が法廷で発表されたとき、傍聴人はいっせいに笑った。ナンセンスだというんだよ。どいつもこいつもきみみたいな男ばかりだったとみえるね。だがこの一見矛盾した行為も、彼らの心理にたち至ってみれば決して矛盾じゃないのだ。世に容れられない極悪非道の犯罪者は、代償として小動物を愛する傾向があるんだよ。ぼくがいいたいのはこの点さ。犯罪者の心理を常識でわりきれると思っているほうがナンセンスなんだ。今度の場合にしたって、犯人が屍体のそばにカードを残していくということは、殺人者に共通した虚栄心のあらわれとみれば納得できるんだ。こうした例は幾らもあるんだぜ」 「止しましょうよ、そんな縁起でもないお話」  紗絽女が仲裁するようになかに入った。彼女は菓子にもお茶にも手をふれていなかった。 「なにもぼくは不吉なことをいってるわけじゃない。たがいに用心したほうがよかろうと注意したまでさ」  牧はそう答えて茶碗を手にした。  カリントウをたべ終った橘の指先を、紗絽女がポケットからとりだしたハンカチでふいてやる。安孫子は不快そうな眼差でそれを見つめていたが、やがてぷいと視線をはずすとタバコに火をつけて、まずそうに煙を吐いた。  ふだんはだれにもまして黄色い声ではしゃぐリリスも、今夜は怯えきったように一言も口を開かなかった。  その夜の牧はベッドに横になってもすぐには眠られなかった。行武の予言に興奮したとも思わないが、こうして眠れずにいるところをみると、やはり神経が昂《たか》ぶっているに違いない。  ベッドからおりてスリッパをはくと、窓の金網《スクリーン》をすかして夜空を見上げた。降るような星空だ。胸いっぱいに夜気を吸いこんでみる。肺の細胞にふれる空気が、汚れた東京のそれとはまるで違った甘い味がした。  彼はスタンドに灯りをつけて、読みさしの本をとりだしてページを開いた。目が光線に慣れるのを待って読みはじめる。と、三ページほど進んだころ廊下にかすかな足音がして、ドアを叩くものがあった。あたりをはばかるような小さなノックだった。 「だれだ?」  と、こちらも小さく応えてあけてみると、立っているのは橘秋夫だった。半袖シャツを着たままの姿である。スタンドの灯りを正面からあびて、ふちなしのレンズが楕円形《だえんけい》に輝いている。彼は部屋に入ると、そっとドアを閉じた。 「眠れないのか」 「ああ、きみの部屋に灯りがついたのをみてやって来たんだ」  先程は行武の連続殺人説を否定していたくせに、眠れぬところをみるとやはり気にかけているのだろう。彼はガウンのポケットをさぐってタバコをとりだすと、牧に一本とらせて自分もくわえ、そのまま火もつけずに何事か考えるように目を伏せた。気障でスタイリストを売り物としているこの男にしては、いつになくしょんぼりとしている。  牧がマッチをすってやった。 「あ、すまん」 「どうかしたのか」 「いや、なに……」  みじかくいったきりけむりを吐いていたが、半分ほど吸ったタバコを灰皿にすてると、急に牧をかえりみた。レンズの奥の眸が、思いつめたような妙な光をたたえている。なにかいおうとして息を呑んだようだったが、ふたたびそれをほっと吐きだした。 「どうしたんだ、一体?」 「…………」 「行武の連続殺人説が気になるのか」 「いや、そんなもんじゃない」  ジャズピアニストは言下に首をふった。 「ぼくはね、女が魔物だということを痛感しているんだ」 「女が魔物? ははは、たしかにそうだ。女がいるからこそ、この灰色の世の中が美しく見える。人類がアミーバみたいな単性生殖をやっていたら、おそらく芸術は存在しなかったろうと思うね。女の魔力また偉大なる哉だよ」 「そうじゃないんだ、女がお面を被ってぬけぬけと男を騙《だま》そうとする下劣な根性、そいつをぼくは非難しているんだ」  平生の軽薄な橘にはまるで想像もできぬしんみりした口調である。牧は呆気にとられてしばらく相手の顔を見つめていた。 「おいおい、どうしたというんだ。自他ともにゆるすフェミニストがなにをいってるんだ」  力づけて、机の上からジンの瓶とグラスをとり上げた。 「一杯やれよ」 「ありがとう。だが、女ってまったく油断のできないしろものだなあ」 「止せ止せ、そんなことにこだわるのは」  橘秋夫は返事をするかわりにぐいとジンを呷《あお》って、グラスをことりと机においた。  紗絽女となにか悶着《もんちやく》があったらしい、と牧は思う。女に対する不信を云々するところをみると、彼女がなにかを告白し、橘はそれを一応許したものの、胸のなかになにかが澱《よど》んで悩みもだえているのだろう。ここは一つ男同士の友情として、なんとか励ましてやらねばならない。  牧がそのように考えていると、先を越すように橘が口をひらいた。 「しかしだね、男たるもの女房の不貞に気づいたときはどうしたらいいのだろう」 「なんだって?」 「いや、女房とは限らなくてもさ、婚約中の男女でもいい。相手の女の不倫《ふりん》を知った場合、きみならどうする?」  牧は、彼が不倫という古くさい言葉をもちだしたことに可笑しさを感じ、同時に髪をおでこにたれ下げたこの友が、案外しっかりした道徳観をもっていることに妙な安堵を覚えた。  彼はいきなり手を伸ばすと、スタンドの灯りを消した。目が暗闇になれてくると、金網《スクリーン》のかなたに四角くくぎられた星空がくっきりとうかんで見えた。 「おい橘、あの星を見ろよ。ぼくはなにか精神的な打撃をうけるたびに星を眺めることにしているんだ。そして想いを無窮《むきゆう》の宇宙に馳《は》せる。すると人間社会のちっぽけなトラブルが馬鹿々々しく思われてくるんだな。一度や二度の失恋がなんだという気になる。裏切った恋人をゆるしてやろうという気にもなる。試験に失敗してくよくよしたときなぞ、星空を眺めることによってたちまち気分が一新されるんだ」  橘は黙ってつっ立っていた。彼も夜空を見上げているようだった。鈴虫がよく鳴いていた。 「……そうか。きみはいつもそうするのか」 「ああ、だからぼくの精神はつねに健全だ。ぼくの字引には打撃という文字もない。失望という文字もない。どうだい、ぼくの字引を頒《わ》けてやろうか」  橘はまた口をつぐんだ。暗いなかで彼の立ち上がる気配が感じられた。 「解ったよ、よく解った」  その表情はみえないが、元気がでた声であった。ドアを開ける音がした。 「失敬するぜ」 「ああ」  と、牧が暗いドアのほうを向いた。 「おおらかな気持をもつことだな。女にはそれを要求することは不可能だ。しかし男には可能だからな」  橘はうなずいた様子だった。そっとドアが閉じられ、足音が遠ざかっていった。     三  尼リリスはベッドの上に起き上ると、両手をあげてあくびをした。六十五キロの体重に耐えかねたようにスプリングがきしんだ。  外は一面の深霧だった。窓の金網に、水滴がいっぱいついている。部屋のなかにながれこんだ霧の粒が喉を刺激して思わず咳がでた。昨夜ガラス戸を閉めわすれたのである。喉を大切にする声楽家志望の学生としては、決してほめられぬことだった。  手でふれてみる。布団も服もしっとりとぬれていた。顔をしかめてスリッパをはくと、スーツケースをあけてツーピースをとり出したが、これは無事だった。寝衣《ねまき》をぬぎ服を着ながら、そっと夜中の妙な経験を思い出してみた。  あれは二時ごろだったろうか。トイレにゆきたくなって目がさめた。常夜灯に照された廊下をとおって階段をおり、用をすませて帰ろうとしたとき、食堂の方向でかすかな物音を耳にしたのである。気のせいかと思って階下の廊下の様子をうかがってみたが、それきりことりともいわない。応接間の扉も食堂の扉も炊事場の扉もぴたりと閉じられて、しんと静まりかえった通路に、真紅の絨毯《じゆうたん》がながく一筋にのびていた。  肥ってはいるけれど、リリスの神経は敏感であった。室内に入っただけで額の裏にかくれている蜘蛛《くも》の存在を感じることができる。いや蜘蛛ばかりでなく、あの不気味なすべての節足動物の存在に対して、彼女の神経は異様なほど敏感にはたらくのであった。彼らが物蔭にかくれてこちらを睨んでいる視線を、視覚によることなしに、全身にはりめぐらされた皮膚感覚をもって知覚するのである。たといお嬢さん芸にしろ音楽を専攻する以上、そのくらいの敏感な神経を要求されることは当然かもしれない。  昨夜のリリスもそうだった。廊下の両側にならぶ扉を見ただけで、食堂にかくれて息をひそめているものの気配をはっきりと知覚したのであった。すると、自然に恐怖の感情がうしおのようにおしよせてきた。彼女はあとも見ずに階段をのぼると自分の部屋にとびこみ、手早く錠をおろしてしまったのである。  リリスは服の袖にハムのようなふとい腕をとおしながら、そのことを考えているのだが、改めてふり返ってみると、夢であったのか事実であったのか判然としない。トイレットにおりたことや廊下をのぞいたことは事実であるにしても、食堂の扉の内側にだれかがひそんでいたと感じたことが夢であったかうつつであったか、どう考えてもはっきりしないのだ。  洗面をすませ、髪にブラシをあてているうちにみんなも起きはじめて、朝のチャイムが鳴らされたのは八時であった。  ハムエッグズのハムは、一同が東京から持って来たものである。パンや卵は駅の前までゆけば手に入るが、うまいハムとなると電車にのって寄居まで行かないと売っていない。  起きぬけの食事だというのに、さすが若者だけに食欲は旺盛だった。リリスも二枚目のパンにバタをぬりながら、そっと人々の顔を見廻した。どれもこれも無心に顎をうごかしている。彼らの顔を見ることによって、昨夜この食堂にひそんでいた人物がだれであるか、見当をつけるのは難しかった。いや、その人間が食卓をかこむ一同のなかにいるとはいいきれない。あるいはお花さんであったかもしれないし、寝呆けた万平老かもしれない。あるいはまたコソ泥でも忍び込んでごそごそやっていたのかもしれないのだ。  食事が終ると思い思いにくつろいだ。ラジオの朝の音楽をきくもの、タバコをすうもの、さまざまである。  リリスはまたぞろカードの箱を手にとった。一同のなかで最も遊び好きだし、カードの遊び方もポーカーからオークションブリッジに至るまでなんでも心得ている。 「どう、カード、遊ばない?」 「四十枚しかなくては、なにもできないだろ」 「そんなことないわ、いくらでも遊び方あるのよ」  牧と彼女のやりとりを、行武が上目づかいにちらりと見た。誘われたら堪《たま》らんという表情である。 「牧さんの結婚運を占ってあげるわ。あたしにも関係あることだもの。慎重にやらなくちゃならないわ」  リリスはカードを卓上に並べはじめた。しばらく室内はしずかになった。と思う間もなく、尼リリスは盛り上った胸をゆさぶってはげしく息づいた。 「あら、変だわよ」  カードを一枚々々数え始めた。 「……どうも妙だと思った。三十八枚しかないわ」 「三十八枚? 昨日勘定したときは四十枚あったろ?」 「そうなの。スペードが全部ぬけてたから四十枚よ。それがいま数えると二枚減ってるの」  二人の顔を交互に見比べていた紗絽女が声をかけた。 「どうしたの? なにがないの?」 「ハートの3とクラブのジャック」 「訝《おか》しいわね。一夜あけるごとにカードが減っていくなんて変てこだわ。アラビアンナイトみたい」 「なんだって、またなくなった?」  と、安孫子もわり込んだ。 「ハートの3とクラブのジャックだよ」 「ハートとクラブ……? 妙な組み合わせだね。行武先生にお伺いしたらどうだい。奇想天外な珍説を披瀝《ひれき》するにちがいないぜ。でなくとも先生なにか発表したくてむずむずしてるんだから」  その童顔に似ず、彼は執念ぶかいところがある。まだ昨夜の口争いを根にもっているように、皮肉めかして行武のほうに顎をしゃくった。  しかしその行武も、今度のカードの紛失がなんのまじないだかさっぱり理解しかねるようだった。彼が首をひねっていると、だしぬけにリリスが叫んだ。 「そうだ、わかったわ」 「なんだい、びっくりするじゃないか。なにがわかったのさ」 「昨日の夜のことなの。あたしおトイレにいったのよ。そしたらこの食堂にだれかがひそんでいる気配がしたの。リリ、こわくなっちゃったから、あわててお部屋へ帰ると、鍵かけて寝ちゃったんだ。いま思うと、カードからハートの3とクラブのジャックをえらんでいたとこだったんだわ」  男女は顔を見合わせて黙っていた。その人物の狙いがなににあるのかわからぬだけに、妙に不気味である。  窓の外には濃霧が渦まいていた。     四  牧はそれとなく橘の様子に注意を払っていた。だが、彼が昨夜の悩みをけろりと忘れてしまったように陽気になっているのを見ると、牧もほっと安心し、自分の精神療法の効果のあったことをひそかに得意になっていた。  食卓にも紗絽女とならんで坐り、いつもと変りなく楽しそうに語っている。この仲のむつまじそうなところを見せつけられれば、二人のあいだにトラブルがあったことはだれも気づくまいと牧は思い、あの件に関しては自分も口に緘《かん》していようと考えた。彼は口の固い、自分の発言に対して責任を持つたちの男であった。  カードのさわぎがしずまると、橘はひとり二階へ上っていった。彼が紗絽女を放りだすのは、釣りに夢中になるときに限られている。当世風の浅薄なプレイボーイの彼が釣りに趣味をもっているとは、ちょっと想像できぬことだった。 「紗絽女ちゃん用心しなさいよ、釣り竿を買うためにあんた質《しち》に入れられるかもしれないわ」  橘が出ていったあと、リリスはそういって彼女をからかった。紗絽女はうふっと喉を鳴らしたきりなにも答えない。ねむそうに細めた目が、いかにも幸福に酔い痴《し》れた女のように見えた。 「なにを釣るの、メダカ?」 「鮎だって」 「へえ、ドブ釣りかい?」  と牧が訊いた。 「なんだか知らない。あたし興味ないもの、釣りなんて」 「大分年季が入ってるって話じゃないの」 「去年からはじめたの。ここで万平さんに手ほどきしてもらったんだって。今日はおひるごはんがすんでから出かけるっていってたわ」  餌《えさ》やなにかは万平老に頼んであり、彼は東京から二本の竿と釣り糸を持参してきていた。なにかにつけ通人ぶりたがるたちの男だから、新橋の有名な釣具店の親爺に注文して作らせた竿である。  牧が上ってゆくと、果して彼はランニングシャツ一枚で竿をみがいていた。 「どうだい、この艶をみてくれよ。そんじょそこらの職人にゃとてもだせない色だ。名人芸だね」  うっとりとした目で、もとから先のほうへ見つめていった。まるで刀剣の目ききをやってるような形だ。なにかというと恰好をつけたがる橘の性格が、牧にはこの上なく滑稽にみえる。邪気がないといえばそれまでだが、意地のわるい見方をすると気障で単純で鼻もちがならない。  橘は、牧がそんなことを考えているとは知るはずもなく、どこで仕込んだのか竿の講釈をとうとうと述べていた。いい加減にうんざりしているところに、尼リリスが顔をのぞかせたものだから、明らかに牧はすくわれた表情になった。 「なんだい?」 「あたし、ちょっと外出してくるわ。郵便局に用事を思い出したのよ」  局は駅の近くまで行かなくてはならない。 「すぐめしだぜ」 「いいの。朝喰べすぎたもんだから、まだ頂きたくないの。少し散歩したほうがいいようだわ」 「じゃお昼になったら先に喰べるぜ」 「いいわ。それじゃ行ってきます」  手をふって出ていった。  やがて、昼食の時間になって食堂にでた牧は、いつもの話相手がないためか、ひどく手もちぶさたのていであった。 「牧、いやにしょんぼりしてるな」  と声をかけられ、いつもなら間髪をいれずに返答をするのだが、今日はそうする気力もないといった表情で、黙って安孫子の子供っぽい顔をにらんでいた。 「武士は喰わねど高楊子《たかようじ》てんだ。そうもの欲しそうな顔をすんなよ。こちとらまで涙がでらあ」  安孫子は調子にのって喋りつづけた。牧は黙って顎をなでている。 「お止しなさいよ、いじめるの」  紗絽女が見兼ねて注意した。毎度のことだが、彼女は牧の肩をもちたがる。 「止すよ、きみがそういうなら止すともさ」  安孫子はからむような口調《くちよう》だった。彼女に失恋してからというもの、安孫子はどこか常軌を逸しているようであった。  食事がすむとジャズピアニストは自室にかけ上り、ピケ帽に空色の開襟シャツ、白の半ズボンという軽装にきかえ、釣道具片手におりてきた。真っ白い手ぬぐいをえりにまいて、いっぱしの釣り師気取りだ。『スターダスト』のメロディを口ずさんでいる。  かけよった紗絽女がまた女房気取りで、まめまめしく世話をやく。 「あなた、この手ぬぐい新らしすぎておかしいわよ。お帽子はこう被ったほうがいいわ。早く帰っていらしてね」 「妬《や》けるね、まったく。おれでさえそうなんだから、相手のいない行武や安孫子の胸中察して余りありだ。目の毒だな」  牧が玄関のポーチにでてきて笑った。橘は運動靴をはくと紗絽女の手をにぎり、牧には手をふった。 「晩めしの仕度は要らんと伝えてくれ。うんとこさ釣ってくるからな」  投げキスをしていった。いかにも橘のやりそうな気障なゼスチュアであった。 「大きくでたね。帰りに魚屋で鯨の肉でも買ってくるんじゃないかい」  紗絽女をからかいながら食堂にもどってくると、その足音を聞きつけて、お花さんがエプロンで手をふきながら顔をだした。 「あのお嬢さん、まだお帰りにならないんですの?」 「どうしてさ、リリちゃんが何かおみやげでも買ってくるって約束でもしたのかい?」 「そうじゃないんですの。あたくしこれから買い物に出かけるんですのよ。おひるのごはんが冷《さ》めてしまうし、どうしましょう?」 「なに、いいさ。今日はあまり喰べたくないなんていってたからね、冷めたら冷めたでかまわないよ。買い物にいってらっしゃい。ちょっと遠いから、主婦は毎日大変だね。自転車があればいいけど、おばさんが乗るんじゃタンクでもなくちゃ壊れてしまうよ」 「あら、お人がわるい」  からかわれたお花さんは、赤ん坊のようにまるまると肥った手で牧をたたくまねをした。 「それじゃ行って参ります。今日のおひるはビーフンの広東風炒めなんです。お帰りになったら、電熱器で温めて召し上るようにおっしゃっていただきますわ」  彼女はそうたのんででて行った。  牧が食堂に入っていくと、そこでは紗絽女と行武と安孫子が食後のお茶をのみながら雑談をしていた。ラジオからタンゴ音楽が流れている。 「アルゼンチンタンゴのことをポルテニヤ音楽っていうのはどうしたわけだい?」  急に顔を上げて、行武が訊いた。 「ポルテニヤというのは港のって意味さ。この場合のポートはブエノスアイレスをさすのだがね」 「ああそうか、どうもおれは通俗音楽はわからんのでね」  行武はいつもの癖で皮肉ともつかずに独りごちた。芸術家を気取る彼らのあいだでは、大衆音楽につうじるといわれることは一種の侮辱ととれぬこともない。安孫子は果してむっとした顔になると、おし黙ってしまった。  行武の皮肉は意識しないで口をでるらしく、いまの場合も悪意があっての発言ではないようだ。それは、けろりとした表情で「いまやっている曲はなんだい?」と訊いたのをみてもわかる。  安孫子がぶすっとしているので、彼は牧と紗絽女の顔をみた。歯切れのいいバンドネオンのリズムにのって唄われているのは『|さらば草原よ《アデイオス・パンパミーア》』である。 「有名な曲だわ、あなたご存じないの?」 「知らんね」 「知らなきゃ教えて上げる。『ブルーサンセット』、つまり青い夕焼って意味ね」  行武の言い方に彼女も腹を立てたのだろうか、挑《いど》むような調子が感じられた。 「なんだと、ブルーサンセット?」 「そうよ、なぜそんな顔なさるの?」 「おれをからかおうとしてるのか」 「あらいやだ、なにおっしゃるのよ。題名を教えてくれというから、青い夕焼だと申し上げているのじゃありませんか」  紗絽女の切り口上にまくしたてられて、行武は自分の非を悟ったらしく沈黙してしまった。しかしなお心中は穏かではないとみえて呼吸が荒く、平素の蒼白い顔がさらにあおくなっている。  牧は彼がなぜ些細なことでむきになるのかわからぬままに、二人の顔を交互に見くらべた。安孫子も思いはおなじとみえて、子供っぽい目をきょとんとさせて呆気《あつけ》にとられていた。四人が立ちつくしているうちに、音楽は終った。後日になってみると思い当ることがあるのだけれども、青い夕焼という言葉になぜ彼が腹を立てたのか、そのときの牧にはまったく見当がつかなかったのである。  四人の気まずい沈黙をやぶったのは、外出からもどってきた尼リリスだった。急いで歩いてきたとみえて、頬を赤らめ、上気したように汗をにじませていた。 「あら、橘さんは?」 「釣りに行ったわ」 「そう、紗絽女ちゃん気をつけなくちゃだめよ。いまからこんな有様じゃ、先が案じられるわ。ゴルフウィドウじゃなくて、フィッシングウィドウになりかねなくてよ」 「ご心配いりません。いざ結婚したら、あたしの愛情で釣り竿を折らせてみるわ。自信あるの」 「いやだあ、ただでそんなこと聞かされて。東京へ帰ったらなにかおごりなさいよォ」  リリスはひどくはしゃいだように、浮き浮きした調子でいった。 「牧さん、ただいま」 「ああお帰り、めしが冷えちまうといってお花さん心配してたよ。電熱器で温めてくれってさ」 「いいのよ、冷たくても」  彼女は手を洗うと髪の形をちょいと気にして鏡をのぞき、席にすわってひとり昼食をとりはじめた。が、すっかり冷めてしまったのでまずいらしく、ビーフンにはほとんど手をつけなかった。 「温めればいいじゃないの」 「いいわ、面倒くさいんですもの。もう止めとくわ。それよか、明日みんなで三峰《みつみね》山へのぼらない? 安孫子さんどう?」  その場の沈んだ空気に、また何かあったなと察したとみえ、リリスはわざとはしゃいだような言い方をした。 「そうだな、ここまで来たんだから一度はのぼってみたいね」  彼はリリスの意図を察したように、すぐ同意した。 「行武さん、あなたも行くわね?」 「ああ」 「紗絽女ちゃんも行くのよ」 「でも、途中でロープウエイが停ったらこわいわ」  彼女は真剣な顔をしてしりごみした。一年ほど前に空中ケーブルが谷の上空数十メートルの高所で停ってしまい、救出されるまで乗客は宙づりのスリルを味わった事件があった。しかもそのとき、日はとうに暮れて、まっ暗になっていたのである。 「なにいってるのよ、橘さんと二人きりだったら喜ぶくせに」  リリスはずけずけと冷やかした。 「あなたは橘さんを口説いてね」 「おいおい、ぼくは仲間はずれかい?」 「そうね、牧さんにはお留守番をお願いしようかしら」 「薄情だね、どうも」  衆議が一決して、ひとしきり三峰山の話がはずんだあと、リリスは口笛をふきながら食器をさげて炊事場へ行った。  小さな波風はあったにしても、このときまでりら荘は平穏そのものだったのである。犯人をのぞいてはだれひとりとして、その平穏が瞬時にして破れることを予知するものはいなかった。  三 第二の殺人     一 「どうだい行武、ひとつ西洋将棋《チエス》のトーナメントといこうじゃないか」  貴公子然とした牧数人が提案した。 「そいつはいい。挑戦されて逃げるような行武じゃないはずだ、なあ、そうだろう?」  童顔の安孫子も即座に賛成した。彼も牧も、退屈をもてあましていたのである。彼らがりら荘にきたのは確とした目的があったからではなく、アルバイトが終ったところにもってきてきびしい残暑がつづいたものだから、揃って避暑することを思いついたにすぎない。リリスは牧のあとにくっついてきたのだ。 「むだだ、止めといたほうがいい」  行武は長髪をかき上げながら大きく構えた。彼は将棋がうまい。初段ぐらいの実力がある。牧も安孫子もまるで歯がたたなかった。しかしチェスとなると、こちらに一日《いちじつ》の長があった。 「ほざいたね、そうこなくちゃ面白くないからな」 「だがね行武、チェスは少々勝手がちがうぜ。アメリカのプレイヤーが世界一周旅行でわが国にやってきたとき、木村名人が帝国ホテルまで手合わせに行ったが、ころりと負けてしまったんだよ」 「そりゃ相手がちがう。きみらとやって負けるようじゃ仕方がないさ。盤はあるのか」 「ある。藤沢氏が愛用したという象牙と黒檀《こくたん》の駒があるんだ」 「成金だけのことはあるね。おれたちのプラスチックのとはわけがちがう。早速やろうじゃないか、指がむずむずしてくるぜ」  風呂をたきつけている万平老にたのんで、保管してある盤をだしてもらうと、応接間のテーブルを囲んで対局することになった。 「きみもやらないか」 「情勢次第ね。あなたが負けたら雪辱戦にでるわ」  肥ったリリスがいい、紗絽女は紗絽女で、「気が向いたらやるわ」とおっとりした口調で答えた。  慣れたせいか応接間は昨日ほど暗い感じをうけなかった。あの渦をまいていた濃霧はすっかりはれ上って、晩夏の陽ざしがかっと庭にふりそそぎ、その照り返しが部屋のなかを明るくしている。花壇のカンナの真っ赤な花弁が眩しいほどだ。  銀貨のトスによって第一戦は牧と行武の組み合わせになった。安孫子と二人の女性にかこまれた対局者は真剣な面持ちになる。行武は長髪のたれさがるのを邪魔にして、手ぬぐいで鉢巻をした。  先番の牧はなにか期するところがあるように歩《ポーン》を動かし、行武も悠然と第一手を指した。とみるや、牧の頬の筋肉はたちまちひくひくと痙攣《けいれん》をはじめ、はじめはそれを無理におさえようとしていたが、とうとうこらえきれずに破顔した。 「チェックだ」 「え?」 「王手だよ」  わずか二手で王手をかけられ、行武は信じられない表情で自分の陣営をみた。謀らざりき、王様ははやくも敵の女王に狙われて身動きもできない。 「しまった、やったな!」  鉢巻を床にたたきつけて口惜しがったが、今更どうにもならなかった。わずか二手で詰めるこの妙手は俗に馬鹿詰めといわれている。少しでもチェスをさすものは、決してこんなヘマな詰め方はされないはずである。今日の行武はよほどどうかしているにちがいない。一座は彼の口惜しがりようを見て腹をかかえて爆笑した。ようやく人々のあいだのしこりがとけたようであった。  渋々と席を立った行武のあとに安孫子が坐った。今度の一戦は簡単に片がつきそうもない。庭の松の幹にとまった死に損《ぞこな》いのあぶら蝉が、ゆたかな声でなきはじめた。 「紗絽女ちゃん、のどかわかないこと? お珈琲でもいれて下さらなくて?」  肥っているせいか、リリスはよく喉がかわくようだ。 「いいわ、いれて上げる」 「すみません。角砂糖も三盆白《さんぼんじろ》も、炊事場においてあるわ」 「珈琲はどこ?」 「炊事場の棚よ。あたしはココアにして頂くわ」  と、リリスが注文をつけた。紗絽女もまた珈琲が胃に合わないので、ココア以外は飲まない。あとの連中はそれぞれモカとサントスとジャワという好みの相違はあるが、珈琲党ばかりである。  大体が紗絽女はリリスとちがって主婦型の女性で、台所いじりが好きだった。だからこうした仕事をたのまれると、むしろ嬉々として炊事場へとんでゆく。事実ヘボ将棋を観戦しているのよりも、台所で珈琲をわかすほうが遥かにたのしかった。  プロパンコンロに火をつけ、水を入れたポットをのせる。棚の上からサンカの珈琲とピーターのココアの缶をおろして、湯のわくのを待つ。そして好きなイタリア民謡の『海に来よ』を口ずさむ。声楽専攻の連中の前ではどうも歌いにくいのである。彼らと共同生活をしていると、それだけがなんとも気づまりでならない。だから紗絽女は独りになると、鎖をとかれた犬が自由にはねまわるように、手あたり次第に好きな歌をうたうのだった。ヴァイオリンの練習をするのは辛いことだけれど、歌はたのしい。歌っていると、時間のたつのがとても早く感じられる。  二、三度くり返しているうちにもうお湯がわいた。珈琲をいれて煮る。いい香りが炊事場に充満する。珈琲嫌いの彼女もこのにおいだけは大好きだ。香りの点ではココアはとうてい珈琲の敵ではない。  つぎに少量の水をわかして練っておいたココアを溶かす。ココアが二杯に珈琲が三カップ。ココアには三盆白とミルクをいれ、珈琲には角砂糖をそえて盆にのせた。 「あら悪かったわね、わがままいっちゃって」  部屋に入っていくとリリスが労をねぎらった。 「そこにのせときなさいよ」 「どっちが勝ったの?」 「牧さんの敗け。今度は、あなたとあたし。あなたのくるのを待ってたのよ」  リリスは積極的な言い方をして、無理に紗絽女をすわらせた。 「まだ、あなたとやったことないわね」 「あたし弱いのよ」 「知ってるわよ、一局教授して上げるわ」 「相変らず鼻息だけはあらいね。これで負けたらなんて言いわけをする気だろう、楽しみだね」  テノールの牧はととのった顔に白い歯をみせた。紗絽女が黒をとり、リリスは白をとって自陣に並べた。 「呆れたね。黒はキングとクインの位置が逆だよ。あれで勝とうというんだから、けなげだね」  と、安孫子が真実あきれたような声をだした。紗絽女は可愛い舌をぺろりと出すと、あわてて二つの駒を並べかえた。 「この王様、少し中性的なんだわ」 「なるほどね、ご夫婦して性の転換かい」  減らず口をたたいているうちに準備なって、紗絽女の先攻で開始された。どちらも駒の動きをマスターしたばかりだから、やることがたどたどしい。 「ほらほら、城《ルーク》が危ないじゃないか、紗絽女さん」 「……今度はきみの僧《ビシヨツプ》が危機一髪だぜ。どうせ生臭坊主なんだ、いっそ殺しちまえ」 「うるさいわね。少ししずかにしてよ」 「これが見殺しにできるものかい、そら、やられちゃった」  女流棋士よりも、かたわらの安孫子と牧のほうが気をもんでいた。  安孫子は腕をのばすと珈琲のカップをとって角砂糖をおとし、スプーンでかきまわすと、ひと口のんだ。 「美味しいとかなんとかおっしゃいよ。黙ってのんでいないでさ」 「うむ、早くのまないと冷たくなるぜ」  彼はリリスにとり合わなかった。自分を拒否した女のいれた珈琲をほめることが、気位のたかいこのバスにとってはなんとも業腹《ごうはら》でならぬらしい。 「一人で飲んでいないで、あたしにも取ってよ」  安孫子は不承々々立ち上ると盆を手にもち、各自に茶碗を配った。リリスはそのままひと息にのんでしまい、紗絽女は駒をうごかしてからゆっくりかきまぜて、うまそうにひと口すすった。牧は砂糖をいれずにのみ、バスの行武は神経質そうにちょっと口をつけただけだった。彼は馬鹿詰めされたのが無念らしく、先程から無言のまま、しきりに作戦を練っている様子であった。 「さあ、これで詰めたわ。動けるものなら動いてご覧なさい」  リリスが勝ち誇ったようにいった。紗絽女の王様は二つの騎士《ナイト》ではさみうちされている。 「敗けたわ」  と紗絽女はあっさり駒を投げた。 「ああよかった。あたしがもし敗けたら、えらそうなことをいった手前、どんな顔しようかと思っていたのよ」  リリスは正直にそう告白して席を立った。  かわって行武と安孫子の対戦となる。平素から何事によらず対立しがちなふたりのことだ、盤上いかなる風雲をよぶか、観戦者も大いに興味をもって見守っていた。果して劈頭《へきとう》から乱戦となり、安孫子の王様は早くも疎開の準備にとりかかった。  小柄な紗絽女は口に片手をあててなまあくびを噛み殺すと、つと立ってテラスの扉のところにたたずんで、こちらに背を向けて花壇を眺めている様子だった。  ややあって、「いま時分になるとほんとにいいお天気ね」と独りごち、耳をすませるようにちょっと黙ってから、「あら、郭公《かつこう》かしら」とつぶやいた。  秋口になろうとするこの頃、郭公が鳴くはずもない。おそらく山鳩かなにかの声をきいたのだろうが、リリスも牧も黙っていた。行武と安孫子は、なにものも耳に入るゆとりはない。指しつ指されつの熱戦にわれをうちこんでいる。  そうした状態がしばらくつづいたのち、扉の前にたたずんでいた紗絽女のくるりと振り返った気配に、牧はなにか異様なものを感じたのか、ふとそちらを見た。 「どうかしたの?」 「なんだか……頭が……いたいの」  元気のない声の調子に、リリスもいぶかるように彼女を見た。紗絽女は目を大きくひらいて、夢遊病者のように両手を前につき出すと、危なそうな足取りで歩きはじめた。 「どうしたのよ、紗絽女ちゃん」 「目まいがするの……。ちらちらして物が見えないのよ」 「なんですって?」  リリスはあわててとんでいくと、両腕をのばして彼女の体を支えた。牧も手をかして、イスに坐らせた。行武も安孫子も驚いたように駒をすてて、紗絽女の顔に目をむけた。 「病気だな。二階の部屋に、つれて行ったほうがいいぜ」 「紗絽女さん、手を貸してやるよ。上へ行って寝たまえ」  行武と安孫子にいわれてうなずくと、彼女はよろよろと立ち上りかけ、ふたたびどすんと坐ってしまった。と同時に手足に急に痙攣がきて、顔の筋肉がひきつるように歪み、笑っているような表情になった。 「……頭が痛い。……頭が」  そういったかと思うと大きく体に波をうたせ、一声二声うめいてから、両手で服の胸をかきむしるようにひきさいて、床の上に仰向けざまに崩れおちてしまった。     二 「紗絽女ちゃん、しっかりして、紗絽女ちゃん!」  リリスは膝まずくと紗絽女をかき抱いた。ふたたび痙攣が手と足からはじまって、紗絽女の体はリリスの腕のなかではげしくふるえた。その拍子にペンダントをひきちぎったとみえ、固く握った左の拳から細い金のくさりがだらりとたれていた。  男たちは茫然とつっ立ったきり、なにをすべきか、とまどっている。 「あんたたち何をぼんやりしてるのよ」 「ベッドへつれて行こうか」 「こんな苦しんでいる人を動かすことができるものですか。牧さん、いそいで洗面器をかりてきて頂戴! そして万平さんをお医者にやって」  牧はあたふたとでていった。紗絽女はなおも痙攣をおこし、その合間にうわごとをいった。 「苦しいでしょ? 我慢してね、いまお医者さんがいらっしゃるわ」  とリリスはやさしくあやすように声をかけた。こうした場合の看護は、やはり武骨な男よりは万事によく気がつく女性でなくてはならない。  紗絽女は抑揚のない声で、とぎれとぎれに意味のとれないことをつぶやきつづけた。 「橘のことをいってるんじゃないか」 「そうだわ。あの人、なにを呑気な真似してるんでしょう。安孫子さん、お願い、すぐ呼んできて」 「ああ、いいとも、どこにいるんだろう?」 「川下《かわしも》で釣るんだといってたわ」 「よし、行ってくる」  安孫子が横っとびに飛んででたあと、紗絽女はまたも痙攣をおこし、激しい痛みをこらえるように唇をふるわせた。その拍子に胸のポケットからすべりだしたものか、小さなペンナイフがことりと床の上に転りおちた。白字でMのイニシャルが入っている。 「あら行武さん、まだそこにいたの?」 「なにか用はないかい?」 「そうね、万平さんのかわりに、あなたに行ってもらいましょうか、自転車で行ってよ、そのほうが早いわ」 「どこだい、医者は?」 「駅の近くよ、きっと。あ、その赤いナイフひろって、このテーブルにのせといて」  彼がでていくのと入れ違いに、牧が洗面器をもって駆けこんだ。 「済みません、お使いだてして。じゃ、あたし、吐かせますから」 「よし、手伝おう」 「駄目よ、扉の外に立っていて頂戴。女の人って、汚いところ見られるの恥ずかしいものなのよ」  どの男もまったく度を失って、ただリリスのてきぱきした指示をうけて右に左に動いた。牧がすごすごでていこうとすると、入れ違いに、廊下のかなたから万平老があたふたとかけつけてきた。平素の人の好い顔が、いまは憂いに曇ってまるで仏頂づらにみえる。 「ああよかった、おじさんなら手伝ってもらえるわね」  リリスはほっとしたように叫ぶと、牧の背中に声をかけた。 「牧さん、出たらドアはぴったり閉めて頂くわ」  扉がしまるのを待って老人の手をかり、紗絽女に吐かせた。彼女はすでに半ば意識を失ったようにぐったりとなっている。 「これ、捨ててくべえ」  いやな仕事がすむと老人は洗面器に手をふれた。 「お医者さんに見せるのよ、そのままにしといて頂戴」 「なんの病気かなあ」 「日本脳炎じゃないかと思うの」 「ここに蚊はいねえ」 「だから東京で刺されてきたのよ」 「おっかねえところだな、東京は」  老人はつくづくと都会を嫌うようにいった。  紗絽女はすっかり意識が混濁《こんだく》してしまったらしく、かすかに喉をならして昏睡《こんすい》状態におちいっていた。 「牧さん」  リリスは扉に向って叫んだ。 「もういいのかい?」 「ええ、大分しずかになったわ。二階の寝室に連れて行きましょうか。ここでお医者さんにも見せられないし。手伝って頂ける?」 「いいとも」  牧は病人の上体をかかえ、万平老が脚をもってそっともち上げた。痙攣はすっかりおさまり、軽く目をつぶったまま紗絽女はなにも気づかぬようだった。  リリスは先に立ってドアをあけると、階段を先導して二階に上がり、紗絽女の部屋の扉を開いた。毛布をとりのけ枕の位置をなおす。小柄な紗絽女は、ベッドの上に羽根のようにふわりと横たえられた。顔色はまっさおで、ウエーブをあてた髪が無慙《むざん》にも乱れている。リリスはそっと毛布をかけた。昏睡しているうちにも劇痛がおそってくるのか、ときどき唇の端がきりきりとひきつるように歪んだ。六つの眸《ひとみ》がいたましそうにそれを見守っていた。 「遅いな」  と牧は腕時計をみた。 「お医者さん?」 「医者もだが、橘もだよ」 「お医者は自動車をもっとるで、あと十分もしたら来ますべえ」 「あらそう、それじゃ応接間片づけといたほうがいいわね」 「いや、洗面器はわたしが始末すべえ。お嬢さんは看護をつづけたほうがええ」  万平老はのっそりと立ち上ってでていった。  牧はほとんど三十秒ごとに腕時計をみた。ひいでた眉のあいだに刻みこまれた深いしわが、いらだつ胸中の気持をよくあらわしていた。  六、七分すぎたころだろうか、玄関に人の気配がした。 「来たぜ」  二人はほっとしたように顔を見合わせて部屋をとびだした。走るように階段をおりてみると、それは医者ではなくて安孫子だった。彼の子供々々した顔は不安におののいていた。まるで泣き笑いの表情であった。 「どうしたの、橘さんは?」 「いないんだ、いないんだよ」 「おかしいわね、よくさがしたの?」 「さがしたとも、下流にそって両岸をずうっと歩いてみたんだ。いないから、だれかほかのやつが呼びにきたのかと思って、帰ってみたんだよ。松平さんは?」 「少ししずまってきたらしい、もうすぐ医者も来る」 「そいつは安心だ。それじゃ、ちょっと、これを見てくれないか」  と、彼は一枚のカードをさしだした。 「なんだい?」  牧の眉のあたりがにわかにけわしい表情に変った。 「どこにあったんだ!」 「あそこだ、郵便受けのなかだ。帰りがけにふと見るとなにか入っているようなので、手をいれてみたらこいつだったんだよ」  安孫子の声はバスだから、こんな場合もどっしりと聞こえる。だが決して落着いていたわけではないのだ。 「あら、スペードのカードじゃないの」  と、リリスが声をふるわせた。 「そうだ、スペードの2だよ」 「2ですって? すると……すると……」 「そうだよ、これは第二回目の殺人を意味するカードなんだ。紗絽女君は病気じゃなくて犯人に殺されかけたんだ。もし彼女が死んだなら、これは第二の殺人になるんだよ」  彼は早口でそういうと、ふと思いだしたように顔色を変えた。 「そうだ、あのココアのなかに毒が入っていたのかもしれん」 「そうかもしれないわ。カップを保管しておかなくちゃならないわ、紗絽女ちゃんのカップを」  三人はあわてて応接間にかけこんだ。さいわいカップはまだ手をつけた様子がない。 「紗絽女ちゃんのカップ、どれかしら?」 「ココアだから、こいつだろう。向うがきみのカップじゃないか」  それぞれのカップには、リリスのうすいピンクの口紅と、紗絽女のオレンジ色のルージュがついていたことで容易に識別することができた。 「それ、厳重に保管しといたほうがいいわよ。あとは洗ってもかまわないけど……。おじさーん」  彼女は風呂のたきつけ口のほうに声をかけた。 「なにかね」 「あとのカップ洗って頂戴ね。それからこのカップ」  と紗絽女の茶碗を指さして、おごそかな声でいった。 「どこかに大切にしまっておいてほしいのよ」 「こ、この茶碗をかね?」 「そうよ、金庫があれば金庫のなかがいちばんいいわ。そしてだれがなんといっても渡しちゃだめよ」  それだけいうと、二階が気がかりになるように階段を上って行った。牧もすぐあとを追う。万平老は紗絽女の飲んだカップを大切そうに持って、事情がのみ込めそうもない顔つきで出ていった。  応接間には小男の安孫子だけが残された。彼は腹立たしそうに、イスとテーブルのまわりをちょこまかと廻りはじめた。彼の童顔には不安と焦慮と立腹の色が次第にこくひろがってきた。 「おれがとってやったカップに毒が入っていた……。おれがとってやったカップに毒が……」  彼はおなじ文句を幾度もつぶやき、そして爪をかみながらなおも歩きつづけていた。  第二回目の殺人はこうして遂行された。  四 砒 素     一 「ご免!」  玄関でふとい男の声がした。それを聞いて、応接間のなかで円を描いて歩きまわっていた安孫子は、すぐにとんで出た。  鼻下に髭をたくわえた丸顔の中年の紳士と、くたびれた折り鞄を小脇にかかえた白衣の看護婦が立っている。門の外に、医師が乗ってきたのだろうか、緑色のコロナが見えた。 「急患だというのでいそいでやって来たのですが……」 「ええ、症状がひどいんです。どうぞこちらへ」  ほっとした表情をうかべて安孫子がスリッパを二足そろえたとき、万平老とリリスがあたふたとでてきた。彼女は鞄をひったくるようにして受け取り、先に立って部屋にみちびいた。安孫子は医者のパナマを帽子かけにかけて、後につづいた。  紗絽女のわきに腰をかけて患者を見まもっていたテノールの牧数人は、医師が入ってくる姿をみるとそそくさと立ち上って、しかし礼儀正しく会釈《えしやく》をして席をゆずった。 「あたくし、洗面器を持ってきます」  リリスが廊下にでようとするのを医者はとどめて、看護婦がさしだした消毒器のふたをあけ、アルコールをひたした脱脂綿で手早くかつ丹念に指をふいた。看護婦はものなれた手つきで器用に患者の服のボタンをはずし、胸を開きにかかった。 「ぼくら、遠慮していよう」  牧はそういって安孫子をさそうと廊下にでた。音もなく閉じられた扉を、安孫子は心配そうに見つめたまま、終始ものをいわなかった。しかし牧も想いはおなじとみえて、これまた黙々と、しきりに小指の爪をかんでいた。  まもなく、湯をいれた洗面器をささげるようにして万平老人が上ってきたが、診察がすでに始っていると聞いて、沈んだ面持ちで扉の前に立ちつくしていた。室内からもれてくる微かな物音に、三人の男は異常な熱心さをもって聴き耳をたてるのだった。  応急の処置は十分もつづいたであろうか、やがて扉が内側から開くと、リリスが、ひきつったような顔をのぞかせて、みじかく告げた。 「お入りになって……」  部屋に入ったとたん、牧も安孫子も、患者の生命が絶望にちかいことを敏感に悟った。紗絽女は目を半ばひらき、顎のあたりまでタオルの夏布団をかぶせられて、完全に意識を失っているらしかった。 「いかがでしょう、先生?」  牧に声をかけられて、医師はちらっとベッドに視線をやると、むずかしい顔をしてかるく首をふった。そして万平がさしだす洗面器の湯で手を洗い、丁寧にタオルでふいたのち、鞄をかたわらにおしやった。卓上には聴診器や数本の注射器が乱雑においてある。 「毒物にやられたことは明らかですな。あなた方の好むと好まざるとにかかわらず、医師の義務として警察にとどけなくてはなりません。ちょっと、きみ、駐在所の和田さんまで行ってくれませんか」  万平老人がでていくと、あらためて医師は男女の大学生をかえりみた。 「駐在所はすぐそこにあるんです。電話で本署に通知すれば、追っつけ係官がやってくるでしょう。その前に予備知識を得ておきたいと思うんですが、一体、どうしたわけでこうなったのですか」  事の重大さに緊張した医師は、同時に、いかにして患者が毒物をのむにいたったかということに、大きな興味を感じているようだった。彼は、牧のかいつまんだ話に熱心に耳を傾けていたが、やがて聞き終ると、顔を上げた。 「そのココアの茶碗は保存してありますか」 「ええ、万平さんに頼んで保管してもらってありますわ」 「そりゃいいことに気がつきました。ちょっと拝見」  お花さんがすぐさま持ってきたカップをうけとると、小指の先にココアをつけて匂いをかぎ、ついで舌にのせて味をみた。 「症状からみて大体の見当はついていたんですが、やはり砒素《ひそ》系統の毒ですな。味もなければ匂いもない。十人が十人とも気づかずにのんでしまいますよ」  と、彼は声を小さくして囁《ささや》くようにいった。  牧と安孫子と女の眸《ひとみ》が、火花をちらすように激しくぶつかる。安孫子がなにか発言しようとして口を開けたとき、扉があいて一足おくれて着いた行武が入ってきた。 「あら、ご苦労さま」  リリスのねぎらう言葉が耳に入らぬように、彼はつかつかとベッドにちかづくと紗絽女の顔をそっとのぞいて、医師に質問するでもなく、無表情な顔で部屋のすみに立った。が、その視線が牧のポケットから首をのぞかせているカードの上にとどまると、にわかに驚いた顔になった。 「おい、そのカードはなんだ」 「郵便受けに入れてあったんだ。スペードの2だよ」  行武がどんな反応を示すか、それを試そうとするかのように、牧は語尾に力をいれて答えた。 「こんな場所で冗談は止せ」  彼はたちまち噛みつきそうな顔になった。 「冗談をいってはいない。事実なんだ」  牧はおだやかに答えた。  行武の剣幕を、事情を知らぬ医師は、眉をひそめて非難するように見上げている。それに気づいた行武はあわてて話題を変えようとしたのか、「橘は?」と訊いた。 「まだ帰らないんだ。どこで釣っているんだろうな」 「さがしたのか」 「おれが行った。いくらさがしても姿が見えんのだ」  牧にかわって安孫子がぶっきら棒に答え、行武はそれをはねかえすように、「さがし方が悪いんだろう、さがし方が」といった。 「手をわけてさがしたらどう? フィアンセが大変だというとき、のんびりお魚を釣ってるなんてどうかと思うわ」  リリスが批難するとおりだった。病人の容態に気をとられてうっかりしていたが、早く橘を呼びもどして許婚者の枕元にそわせてやらねばならぬ。このままでは紗絽女も可哀想だし、そんなこととは夢にも知らずに糸をたれていた太公望にも気の毒である。  四人が廊下にでて手筈《てはず》をきめていると、入口のホールにだれか訪れた気配がして、男の声が聞えてきた。一人が万平老であることはすぐ判るが、もう一人、聞き覚えのある声がまじっていた。 「刑事じゃないか、この前の……」  安孫子の声は悲鳴に近かった。 「ばかに早くきたね」  牧も不安な面持ちでいった。  やがて先頭に立って階段を上ってきたのは果してあの刑事だった。そのうしろに恰幅《かつぷく》のいい中年の男がついてくる。刑事はすでに顔なじみになっているので軽く頭をさげると、行武の肩をそっと叩いていった。 「あんたのいわれたとおりになったですな、え?」  部屋に入った男たちはしばらく医師と話をしている様子だったが、やがて、幾分緊張した面持ちででてくると、男女の学生をかえりみた。 「先日の客間で少々うかがいたいことがあるんですが……」  そして返事を待たずに、一同をうながして階段をおりた。     二  応接間の丸テーブルの上にはまだチェスの盤がのせられ、駒がならべられている。対局していた行武と安孫子がおどろいて立ち上ったイスも、紗絽女が苦しみもだえながらころがりおちたイスもそのままであった。男女の学生は古戦場をながめる観光団のような顔をして入口にたたずんだ。 「ちょ、ちょっとそこで待っていて下さいよ」  刑事と、もう一人の男は扉のところで男女を制すると、あたりの様子を頭に刻みこむように、するどい視線を八方にはなちながら、テーブルを一周した。 「結構です。席におつきになって下さい。おや、イスが足りないな。仕方がない、わたしはこの不吉なイスで我慢しましょう」  刑事は紗絽女が坐っていたイスをもってきて腰をおろすと、蒼ざめた一同の顔を刺すような目で見わたした。 「じつはですな、このあいだの炭焼きの怪死事件を調査するために県本部から剣持《けんもち》警部たちの一行がみえて、駐在所で休憩しているところに、園田老人がご注進にあらわれたというわけでして。紹介しときます。こちらが剣持警部です」  警部は坐ったまま、鉢のひらいた大きな頭を一同の前につきだすようにしてお辞儀をし、学生たちも同じく坐ったままで挨拶をかえした。造作の大きな、あくのつよい顔をした六尺ちかい大男で、つき出した下腹を両手でかかえるようにし、いかにも大儀そうにみえた。 「郵便受けのなかにスペードの2が投げこんであったというではないですか。どなたがお持ちなんですか」 「わたしです」  と、牧はポケットのカードを卓上にのせた。刑事は、自分のポケットから参考品として押収しておいたらしいスペードのAをとりだし、すばやく二枚を比較したのち警部にわたした。 「犯人がいよいよ第二の殺人にのりだしたことは明らかですが、ココアを調理したのはどなたですか」 「それは松平君自身なんです。自分でつくったココアに毒がいれてあったというわけです」  すかさず答えたのは安孫子宏だった。 「自分でつくった?」  と刑事は意外な顔をした。 「まさか自殺じゃあるまい」 「自殺ということも考えられるじゃありませんか」  と、安孫子は懸命に喰いさがった。 「これはぼくの想像ですから、そのつもりで聞いて頂きたいんですが、あの炭焼きを殺したのは紗絽女君じゃないかと思うんです」 「これは新説だ。しかし当時の彼女は、橘君と一緒に散歩していたという話ではなかったのですか」  刑事は橘の姿の見えぬことに気がついた。 「おや? 橘君は?」  安孫子はそれに答えずに、せきこんだ口吻で自分の推理を開陳した。 「でも刑事さん、紗絽女君と橘が終始一緒にいたかどうか、そこまで追及したわけじゃないでしょう。二人が散歩しているとき、紗絽女君はふと崖のふちを歩く尼リリス君の姿をみた。尼君と思ったのは、いうまでもなく炭焼きが尼君のレインコートを頭からかぶっていたから誤認したわけですが、紗絽女君は尼君に対してなにかわれわれの知らぬ殺害動機を持っていたかも知れんのです。そこで適当な口実をつけてちょっと橘のそばを離れると、尼君に近づいてこれを崖下につきおとしてスペードのAをなげおとしたのち、なにくわぬ顔で橘のところに戻ってきた……というわけですな。松平君に首ったけの橘のことだ。まさか彼女が犯人とは思わないから、わずかの時間を利用して殺人をしたとしても気がつくはずはない。或いはまた、愛する女のために彼もぐるになったということも考えられぬわけではないです」 「そうかも知れぬ。なかなか面白い見方です」  と、刑事は陽焼けした顔に微笑をうかべていい、一方、剣持警部は無言のまま目をひからせていた。 「するとですよ、いずれ発覚することを予期した松平君は、司直の手のとどく前に自殺することを決意した、ということも考えられるではありませんか」 「わざわざスペードの2を郵便函に投げこんでですか」  刑事は納得ゆきそうにない表情で、安孫子に反論した。 「つまりですよ、犯人の心理を分析すればすぐにわかることなんだけど、自分が殺人者であることを知られたくなかったんですな。とくに、愛している橘に対してね。だから、自分が第二の犠牲者であるように偽装する必要があったのです」  すると、由木刑事が答える前に行武が口をはさんだ。 「自殺説も成立するけど、それならば、過失死ということも考えられるじゃないですか。彼女が尼君を殺そうと思っていたことは、炭焼きを誤殺した事件をみれば明白です。ところで第二の事件の場合、ココアをのむのは松平君と尼君の二人だけなのですよ。殺人を計画していた紗絽女君が前もって毒薬を用意していたことは当然考えられます。台所で尼君のカップに毒を入れると、残った分は下水に流してしまったに違いないです。証拠となるべき毒物を捨てずに持っていて、あとで身体検査をされたときにばれてしまったら一大事ですからね」  刑事はかるく合槌を打った。 「さてこの部屋にもどってココアを分配しようとしたとき、これはあとの諸君も覚えているだろうが、尼君が彼女のもどってくるのを待ちうけていて、すぐチェスのプレイに誘い込んでしまったのです。松平紗絽女君はこれには困ったに違いないと思います。いやだというとかえって怪しまれる。仕方なしに素直に相手になったのが、間違いのもとだったんです。そんなこととは露知らぬ安孫子君は、みんなに飲み物をくばるとき毒入りのカップを尼君ならぬ本人の松平君にわたしてしまった」 「え、茶碗を配ったのはあなたなんですか」  刑事に聞きとがめられた安孫子は瞬間しまったという表情をみせたが、行武は強引にそのまま話をつづけた。 「松平君としては一か八かというところに追いつめられたわけです。いや、一か八かではなくて、こうなると自分がやられるか尼君を倒すか生死のチャンスは五分と五分です。かといって、躊躇していたのでは怪しまれてしまう。それは、自分が犯人であることを告白するようなもんですからね。あのとき紗絽女君はひと口ふた口すすったが尼君はひと息に飲んでしまったろう。あんな濃いやつをよく飲めるもんだと思って感心していたから、覚えているんだ」  彼は憑《つ》かれたように喋りおわると、反響を知ろうとするかのように、正面きって、リリスの顔を見た。だが彼女は、疑わしそうな冷淡なまなざしでこの小意地のわるい九州男児の蒼い頬のあたりを見つめたまま、ひとことも返事をしなかった。行武はばつがわるそうに安孫子に視線をやったが、これも黙りこくっている。彼はますます慌てて、救いをもとめるように、牧に眸を移した。 「うん、そうだな、ぼくも覚えているよ」  と牧は微笑みながら答えた。 「すると、なんですか安孫子さん、ココアをいれたのは松平さん自身だが、そのココアはいったん彼女の手をはなれて、あなたの手に渡ったということですね?」 「そ、そうです。ほ、ほんのちょっとですけれどね」 「あなた以外に茶碗にふれたものはいませんか」  由木刑事は遠慮のない目で一同を見廻した。先刻から質問はもっぱら刑事ひとりがやり、肥大漢の警部は黙したまま一言も口をきかなかった。その重々しい態度が、男女には、なにかうす気味わるいものに思われるのだった。 「ぼくは手をふれませんね」 「あたしもよ」 「松平君は、盆をもってくると、その小テーブルにのせたままチェスをはじめたんです。小テーブルのすぐとなりに安孫子が坐っていたのですから、彼が茶碗をくばるようになったのは極めて自然なことですし、また他のものがわざわざカップをいじるとしたら、かならずだれかの目にふれたに違いないんです」  牧が説明した。由木刑事は、一同を当時の席にすわらせて、小テーブルとの距離を実地にたしかめた。  安孫子以外のものが投毒するとなると、どうしてもイスを立たなくてはならない。だが、あの当時席を立ったものはひとりもないことが、みなの記憶によって明らかになった。 「松平さんが毒入りのココアを誤って飲んだという説には同感できませんな。どちらかの茶碗に毒が入っている場合、彼女がココアに口をつけるはずがない。尼さん一人に飲まして、毒が入っているかいないか、その効果のあらわれるのをひそかに待つのが当然でしょう? すぐに飲まないからといって怪しまれるわけもないです。なにも、自分で命をかけて危ない橋をわたる必要は、さらさらないじゃありませんか」  刑事はあっさり紗絽女犯人説を駁《ばく》し、茶碗をくばった安孫子の立場は一段と不利になっていった。 「そういえば安孫子さん、昨日あなたは妙なことをおっしゃっていましたな。松平さんに失恋して可愛さあまって憎さ百倍、ということでしたね? そうじゃなかったですか」  まずいことを喋った、とでもいうように、彼はまるい童顔をしかめた。 「先程あなたは、松平さんが炭焼きを尼さんであると誤認して、崖からつきおとしたのだといわれましたが、この話は、犯人と狙われた人物とを変更しても、説明がつくのじゃないですか。つまりです、犯人は余人ならぬあなたであって、炭焼きを松平紗絽女さんと誤認してつきおとしたとも考えられるじゃありませんか。あなたは兇行時刻には自室にいたといわれるが、樋《とい》をつたって地上におりることは、男なら必ずしも不可能ではないのですよ」  刑事はこうきめつけておいてから、ふと語調をかえると、他の連中をかえりみた。 「どうです、安孫子さん以外に被害者とトラブルのあったものはいませんか」  すると尼リリスがにやにや笑いをうかべて、挑むように答えた。 「あたしが郵便局から帰ってきたとき、紗絽女ちゃんと行武さんが妙に白い目をむいていたわね。なにかあったんじゃない?」 「いや、ありゃなんでもない。トラブルというほど大げさなもんじゃないよ」  牧がもみ消すように否定した。 「なんです、そりゃ?」 「つまらぬことですよ。行武君と松平君とがちょっとした、ほんとにちょっとした口論をしただけです」 「そりゃ是非きかせて頂きたい」 「刑事さん、この行武君という人は大体が天邪鬼《あまのじやく》で臍曲りですから、一日に何回かは、必ずいさかいをやるんです。とりたてていうほどのことはないですよ」 「牧さん、わたしも人間の端くれですから、隠されれば隠されるほど好奇心をあおられますな。些細《ささい》なことでも構わんです。どなたかその話をきかせて下さい」  すると、しぼんだ花のように頭をたれていた安孫子が急に元気づいて顔を上げ、行武の蒼白い顔に敵意のこもった視線をなげて、おもむろに口を開いた。 「そのいきさつはぼくが話します。ちょうどラジオがアルゼンチンタンゴをやってたとき、行武が曲の名を訊いたんです。それに対する松平さんの返事が気にくわなかったとみえて、急に怒りはじめたというわけです」 「そりゃ違いますよ、刑事さん」  行武はじっとしていることができずに立ち上った。 「ただ単に返事が気にくわなくて怒ったというと、いかにもわたしが短気で思慮のない男みたいな印象を与えるじゃないですか」 「ほう、すると怒るだけの正当な理由があったというわけですな。なんです、それは?」 「その前にわたしが疑問に思うのは、そんなつまらんことが殺人の動機になるかという点ですよ。発作的な兇行は別として、今度のような計画的な殺人をやる以上、犯人としても、発覚した場合に法的に最高の制裁をうけることは覚悟しているはずです。自分の生命をかけてこれだけの犯行をするには、それにふさわしい大きな動機がなくてはならんと思いますね。愚にもつかぬことで人を殺すほどわたしは馬鹿ではないです。それとも、このわたしの考えはまちがっているとおっしゃるんですか」  行武は、ひたいにたれさがる毛を邪慳《じやけん》にかき上げながら、憤懣《ふんまん》やるかたない面持ちである。 「たしかにそのとおりですな」  刑事は煙草をとりだして火をつけると、ゆっくり一服した。そして行武が腰をおろすのを待って、説いてきかせるようにいった。 「尤も、犯人は百パーセントの自信を持っているようだから、万一の場合の覚悟などしていないかも知れませんな。それからついでに申しておきますが、こうした事件が発生した場合、捜査官としてはどのような些細なことでも見逃すわけには参らないのです。それが事件の解決にどんなひっかかりを持たぬとは限りませんからね。そこで改めてお訊ねしますが、松平さんがタンゴの曲名を教えたときあなたが怒られたという、その正当な理由なるものはなんでしたか」  言葉尻をつかまえられたことを悔いるように、行武はまずい顔をした。 「黙っておられてはわかりませんな。牧さん、あなたおっしゃって下さい」 「お望みとあれば仕方ないですな」  牧は迷惑そうな表情をうかべながら、行武のほうをみた。 「行武君のいうとおり、松平さんの返事のしかたに腹を立てたのではなくて、返事の内容に立腹したのです」 「返答の内容といいますと? 彼女はなんと答えたんですか」 「青い夕焼、ブルーサンセット……と、たしかそんなことをいいましたな」 「ブルーサンセット? 聞いたことのない曲ですね」 「いえ、原名を聞けばだれでも知っていますよ。『さらば草原よ』という——」 「ああ、あれですか。それがアメリカに入ると『ブルーサンセット』となるんですね」 「『エルチョクロ』が『キスオヴファイア』に変るようなもんでしょう」  こうした些細な会話のなかに、あとになってみると謎を解くに足るキイが秘められていたのだけれど、刑事としては珍しく知的な彼も、そこまでには気づくわけがなかった。 「行武さん、あのタンゴのなにがあなたの気に障《さわ》ったんですか」  訊かれた行武は庭の赤いカンナを眺めたまま、返事をしない。 「聞こえないのですか、行武さん」  刑事がつづけて二度よびかけたとき、彼はくるりとこちらを向くとティンパニイを強打したような激しい声で怒鳴り返した。 「いやだ。返事はせん。なんといわれても答えたくない!」 「それなら、強いてお訊きしません。多少の暇はかかるが、やがてつきとめてみますよ」 「勝手にやったらいい。なにもことわる必要はないです」  と、行武は肩をそびやかし、警部は黙々としたままするどい視線を行武にあびせた。その、気まずい空気をとりなすように口をはさんだのは牧である。 「しかし刑事さん、行武君と彼女との衝突は今日の正午すぎのことですよ。しかるに第一の事件はずっと以前に発生しているじゃないですか。したがってタンゴの問題にかかずらう必要はないと思いますがね」 「それもそうですな」  由木刑事は意外なほど素直におれた。この場の空気をやわらげて、調査をすらすらとはかどらせたく思ったからに違いない。 「どうです、みなさん。ほかに松平さんに対して動機をもつかたはいませんか」 「あのかた、どうかしら?」  リリスは容疑者の総ざらえをするつもりか、刑事の問題にすぐ応じた。 「紗絽女ちゃんを恨んでいるに相違ないわ」 「だれですね、その人は?」 「橘さんをとられてしまったんですもの。恨み骨髄に徹してるはずだわ。でも、いま東京に帰ってるから事件に関係ないわね」 「ははあ、日高鉄子さんのことですな。その、橘さんをとられたという話をくわしくきかせて下さい」  リリスが先頃の、婚約発表の件を早口で喋ると、二人の係官はしきりにうなずいていた。  牧は、彼女の多弁をいささか苦々しく思っているらしく、男らしい跳ね上った眉をひそめていた。一方、行武と安孫子はそれぞれ鉄子に好意をもっているせいか、リリスのよく動く唇を憎悪のこもった眸でにらみつけていた。  のちに彼女が殺された際に、刑事はすぐにこのときの各人が示したさまざまな表情を思いうかべたのである。  五 赤いペンナイフ     一  応接間の扉を激しくたたく音がしたので、人々はいっせいにそちらをふり返った。 「どうぞ」  という刑事の声に応じて扉があくと、先程の看護婦が片手でノブをにぎりしめて早口で告げた。 「患者さんの容態が急におかしくなりました。お話中をなんですけど、すぐおいでになって下さい」 「そりゃいかん。諸君、行ってあげ給え」  刑事は一同にいうと自分も腰をあげた。四人の学生の顔が一瞬蒼ざめ、なかでも安孫子は頬を痙攣させていた。  病室の前に立った看護婦がしずかにドアをあけた。医師は右手にからになった注射器をにぎり、ベッドの上におおいかぶさるようにして紗絽女の容態をうかがっている。 「駄目ですな、あと五分ともたんでしょう。砒素中毒は経過のながいのが普通なんですが、この人は心臓があまり丈夫でなかったとみえる。いずれにしても時間の問題でしたがね」  医者は無遠慮な大きな声で語った。瀕死の紗絽女にそれが聞えるはずのないことを充分に承知しているような彼の態度をみて、人々は胸中に抱いていたもしやという希望が崩れていくのを感じた。紗絽女は枕にふかぶかと頭をうずめ、すでに苦悶《くもん》の時期はすぎたとみえて昏睡状態をつづけている。  牧も、リリスも、行武も、そして安孫子も、彼女の枕元をぐるりと囲むようにして、無言のまま学友の顔を見つめた。四人の男女はどれもこれもが、憂いにみちた表情をうかべ、いまや吹き消されんとする紗絽女の生命のともし火を痛々し気に見守っていた。係官は床上の犠牲者にはまるで関心を示さず、言い合わせたように牧たちの顔をじっと見つづけていた。しかし係官の視線がいかに鋭くても、彼らの表情から犯人を察知することは、とうてい不可能であった。  あと五分といった医者の判断はわずかではあったが狂っていた。三分のちに紗絽女が、最後の息をひきとったからである。医者も看護婦もつくすべき手段はつくしたためか、べつに慌てるふうもなく、落ち着いた調子で彼女の魂が昇天したことを告げた。紗絽女の頬にかすかに残っていた生色が、その途端にふっとかき消えたように見えた。こうして犯人は第二の殺人に成功したのである。  看護婦が紗絽女の顔に真っ白いガーゼをのせたのと、牧が口を開いたのとは、ほとんど同時だった。 「おい、橘を呼んでこなくちゃならんぞ」 「そうだ、すぐ知らせなくてはいかんな」 「それもそうだけど、なんて告げるか、その口上を考えていかなくちゃならないわ」 「そりゃきみのいうとおりだな。だしぬけに松平君が毒殺されたと伝えたら、かれ発狂するかもしれない」 「急病だといったらどう? 食あたりかなにかでお医者さまに診察して頂いているってふうに……」 「そうだね、そういうほかはあるまいね」  牧とリリスと行武は首をあつめて相談をしていたが、安孫子はその仲間に加わらないで、窓から庭を見おろしたままなにごとかじっと考えている様子だった。彼が手渡したカップに砒素が入っていたとなると、安孫子はだれよりも不利な立場に立たされる。平素は傲岸不遜、小さな体を反り身にして歩く安孫子が打ちのめされたように元気を失っているのは珍しいが、それも無理はないことかもしれなかった。  その安孫子は自分にそそがれている執拗な視線を意識してか、ちょいとふり返った。そして剣持警部のきつい視線に射すくめられて、どぎまぎして向こうをむく。首筋のあたりがみるみる赤くなった。 「おい安孫子、きみはどの辺をさがしたんだ?」  牧に声をかけられて、ほっとしたようにそのほうを向いた。 「川下《かわしも》さ。そうだな。両岸を三百メートルばかりさがしたね」 「見落したんじゃないか」 「そんなことはない、空色のシャツに白い半ズボンだから、すぐ目につくはずだ」  牧は下顎をつまんで考えるふうだったが、ついで尼リリスの肥った顔に目をやった。 「リリちゃん、たしかに川下で釣るといってたのかい?」 「そうよ、あそこに吊り橋が架《かか》ってるでしょ、あの下流で釣るんだっていってたわ。でも、いないとすると、どこに行ったのかしら……」 「釣り師は穴場を求めて移動するからね、川下で釣るといったからって、川下にいるものとは限るまい」 「そりゃそうね。それじゃあなたとあたしで、も一度川下をさがしましょう。安孫子さんと行武さんは手分けして川上をさがすといいわ」  リリスはてきぱきと指示した。安孫子と行武はたがいに反撥しあうようにちらと顔を見たが、組み合わせに不平をいってる場合ではない。やがて男女はふた組に別れると、川下と川上めざしてりら荘を出た。四人の学生がいなくなると、とたんに邸内がしんとしずまる。 「解剖するとなると早いほうがよいと思いますな。まだ気温が高いですからね」  医者が注意をした。 「すぐ連絡をとらせますよ。夕方までには一行が到着すると思うんですが、それまで待ってもらえますか」 「そうですな、ぐずぐずしているといたんできますが、夕方までなら大丈夫でしょう。わたしのみたところでは砒素系統の毒物による中毒ですけれど、果してそれが当っているかどうかは専門家がくればすぐ判りますよ。しかし砒素化合物のうちの何による中毒であるか、ということは分析してみなくちゃ答がでないし、少々時間もかかりますね」  医者はそういいながら指を消毒し、よれよれのボロ鞄をひきよせて、口をあけると診療具をつめこんだ。そして屍体の処置をする看護婦ひとりを残すと、医師と警部は階段をおりて客間に入り、刑事は連絡をとるために駐在所に走っていったのである。  万平老人がだしてくれた渋茶を、応接間の二人は旨そうにすすった。医師は当然のことだが、警部も屍体には不感症になっている。屍体をいじくった直後だからといって、お茶の味がまずくなるようなことはない。 「おうっと、まさかこの茶のなかには砒素は入っておらんでしょうな? 無味無臭というから始末がわるい」  ふた口ばかりのんだのち、警部が急に気づいたように叫んで、慌てて湯呑みを机においた。 「ははは、そう心配するこたあないですよ。使用した毒は多分亜砒酸《あひさん》じゃないかと思うんですが、あれはココアには溶解するけれども、お茶だとか珈琲のようなタンニン質に逢うと溶けにくくなるんです。こうやってなかをのぞいて白い粉が浮いていなけりゃ、まあ安心していいでしょう、ははは」  無口の警部のあわてた恰好がよほどおかしかったとみえ、医師は肥った腹に掌をあててひとしきり笑った。しかしその笑い声がおさまると、死の家はふたたびしんとした静寂のなかに沈んでいった。  警部は湯呑みの底の茶柱をじっと眺めながら、黙々として思う。砒素はココアには溶けるが珈琲には溶けぬという。すると仮りに紗絽女が珈琲嫌いでなかったならば、今度のような羽目に合わずにすんだはずである。珈琲の表面に砒素が白く浮いていたなら、彼女も怪しんで口をつけなかったであろうからだ。もちろん犯人はべつの手段で彼女の命を狙っただろうが、少なくとも、このような死に方はしなかったに違いない。  二人が砒素を話題にしばらく雑談をしているところに、処置をすませた看護婦がおりてきたので、医師はすぐに腰を上げた。不愉快な仕事をしたにもかかわらず、彼女の顔にはいささかも暗い表情はない。この看護婦にとって屍体の始末をするということは、画家が絵を画き、音楽家が楽器を奏するのと少しの変りもないらしかった。小麦色の肌をした華奢《きやしや》な彼女のどこに、そうした図太い鋼鉄のような神経がひそんでいるのであろうか。警部はなかば驚き、なかば呆れた面持ちで彼らを送りだすと、ふたたび応接間にもどった。  晩夏の陽ざしを浴びた庭のカンナの緋の色が、目にしみるように燃えている。激しくまばたきをすると、視線をそらせて日時計をみた。円い台の上に、三角形の黒い影が午後の刻《とき》をくっきりときざんでいた。彼はさらに目をテラスの端においてある童子の像に転じた。裸の三人の男の子が洗面器に似たつぼを両手でささえながら、外側を向いて鼎立《ていりつ》している像だが、元来警部にはあまり美術鑑賞の心得がないから、この白色のセメントの像がどれほどの価値をもつものか一向に判らなかった。金満家の趣味はどうもわれわれごとき人間にはわからん……、そういいたげな面持ちで、なおもこの面白味のない彫像に見入っていた。だが、後日あのまがまがしい事件が起ってみると、警部がそれにしばしなりとも視線を預けていたことは、そこになにか目に見えぬ糸が張ってあって、彼の眸をひきつけたのではあるまいかとも思われるのだった。  遅いな、と呟《つぶや》きながら時計をみた。四時を二分すぎていた。剣持警部はあの俊敏な刑事を相手にとっくり事件を検討してみたかったのだが、その望みはさらに後刻まで延長されなくてはならなかったのである。事件の急テンポな展開が、彼にそのゆとりを与えなかったからだ。  刑事が帰って来たのは十分ほど後のことだった。時間がかかっただけのことはあって、浦和の本部に詳細な情報を伝え、警察医と鑑識班を呼ぶ手筈まですっかりととのえてくれた。刑事がその報告を終えると、それに対して警部がねぎらいの言葉を述べた。二人はしばらく黙って番茶を呑んでいた。暑いときは熱いお茶がいちばんだ。  由木刑事は手帳をひろげて先程の話を整理することにした。紗絽女殺しに動機をもつものは、つぎの三人になる。彼は、理解をたすけるために表にしてみた。   安孫子宏 (動機)失恋        (可能性)自分で毒入りカップを渡した。可能。   行武栄一 (動機)タンゴの曲名が原因で口論をした。        (可能性)カップに触れない。投毒することも、毒入りカップをわたすことも不可能。   日高鉄子 (動機)恋人を横取りされた。        (可能性)現場にいなかったから不可能。  書き上げたそれを剣持警部にみせると、彼はさっと目を走らせただけだった。 「一応の動機はあるね。ただ、この程度のことで殺人をやるかどうかということになると疑問だが……」 「そうですね。それに加えて砒素を用意してきたことから判断すると、どうみても計画的な犯行ですな。昨日今日の事件が動機になっているとはわたしにも考えられんのですよ」 「この表の面白いところというか、参考になるところは、投毒のチャンスを持ったのはだれかという問題が明らかにされている点だね」  剣持はあらためて手帳に目をやった。 「そうなると安孫子という男以外にはおらんね。粉末の砒素を入れれば白いものがうかんでいるというので怪しまれるだろうが、水溶液をスポイトにでも入れておいて、そっと滴《たら》しこめば気づかれるわけもない」 「わたしも安孫子に目をつけているのです。あの男はなにか欲求不満でもあるんじゃないですかな。なにかこうお高く止まりたがっているんだが、力量がそれに及ばなくていらいらしているような感じをうけるんです」 「なるほどね」 「わたし、今度の犯人は精神異常者ではないかと思うのですよ。殺しのたびにナンバーの入ったカードをおいていくなんて、ノーマルな犯人のやることではない」 「ノーマルな犯人なんているのかね?」  刑事の失言を、肥った警部はにやにや笑いながら突いた。 「だれかがいっていたように、学生仲間の皆殺しをくわだてているとすれば、動機などを追及したってはじまらないだろう。そうなると相手は異常者なんだからね。だが、連続殺人なんてことは信じられないな。近頃は映画にだってそんな筋のものはない」  平穏の一刻をたのしむように、二人はそんな話をしていた。剣持がまだ県警に入る前、どちらも大宮署でおなじ釜のめしを喰った仲であった。気心が知れているのである。  由木刑事がなにか発言しようとしたときだった。玄関のほうでひどく乱れた足音がしたかと思うと、やがて応接間の扉口に蒼ざめた行武が現れた。ふだんから色の蒼いつめたい感じの顔だったが、そのときの彼はチアノーゼをおこした心臓病患者のようにまるで血の気がなかった。口を開いて苦しそうに呼吸している。 「どうしたんです?」  と、刑事は上体をひねって声を大きくした。剣持警部はおし黙ったまま、詰《なじ》るような視線を行武の上になげつけた。  行武は唇をわななかせたが、声がでない。肩で息をきりながらよろめくように入ってくると、手ぢかのイスにどしりと坐った。頬も胸も腕も、ふきだす汗にぬれていた。 「どうしたんです、きみ」  刑事はもう一度声をかけた。行武はふたたび唇をわななかせたが、それもやはり声にはならなかった。汗はなおもあとからあとからにじみ出て、おとがいの先から床の上にしたたり落ちた。額にたれた毛もびっしょりぬれている。 「飲み給え」  刑事がさしだした湯呑にかぶりつくようにして一気に茶をのむと、ようやく行武は落ち着いたらしかった。 「け、刑事さん」  と、彼はあえいだ。 「橘君がやられました」 「なにっ」  刑事は思わず立ち上り、剣持は坐ったまま目を大きく見開いて行武のつぎの言葉を待った。 「どこで? どこでやられたんです」 「……獅子ケ岩の近くです」 「行こう、きみ、案内してくれ給え」  刑事は行武の袖をつかんだ。しかし彼は走りつづけてきたために疲労の色が濃く、折り返して現場へ向うことは耐えられそうになかった。 「そうだ、きみはここに待っていて下さい。場所を教えてもらおう。獅子ケ岩のどの辺です?」  獅子ケ岩というのはりら荘の川上六百メートルばかりの右岸にあって、その名のように獅子が寝そべった形をしている。荒川上流には象の鼻だとか虎の牙だとか獣に見立てた岩の名前が多いのである。 「……その向側です。安孫子が張り番をしているからすぐわかります」 「発見したのはだれです? 彼の屍体を発見したのはだれ?」 「ぼくです」 「屍体の状態は?」 「さあ……、よく見たわけじゃないからわかりません。体の半分以上が水に浸《ひた》って、あおむけに倒れているんです」 「頸をしめたとか短刀で刺したとか、そうした跡はなかったですか」 「そんな様子はないです。とにかく早く行って下さい。……それから刑事さん!」  行きかけた係官の後ろ姿に声をかけた。 「なんです?」 「屍体のそばにカードが置いてあったんです」 「なんだって? どんなカードです」 「スペードの3ですよ」 「なに?」  彼と行武は無言のままにらむように顔を見合わせていたが、やがて刑事は肩をゆすってふり向くと、警部とともにあたふたと出ていった。  行武はまだ胸の鼓動がおさまらぬとみえ、苦し気な呼吸をつづけていた。     二  このあたりは川幅もぐっとせばまって、切り立った両岸の上には松やブナの木の枝が、安孫子に襲いかかりでもするような姿で茂っている。屍体の番をして立っていると、両側の絶壁がじわじわと目に見えぬ速度で迫ってくるような錯覚を生じる。そのあいだにはさまれて平たく圧し殺される自分の屍体を脳裡にえがいて、われになくおののいたようにあたりを見まわすのだった。こちら側の岸も、そして川をへだてた向う側の岸も、花崗岩と流紋岩とから成り立っている。点々と赤いまだらの飛び散った岩の肌をみていると、それが圧殺された犠牲者の血のように思われてくるのだ。  いま彼が立っている地点は、ごろごろした石塊《いしころ》が川の中程へおしだされているので流れも早く、水音が激しい。ジャズピアニストはその石の上に釣り場を見出して蚊鉤《かば》りをこころみていたらしいのだが、ざわざわと鳴る水音をきいていると、橘の魂が何事かをつぶやきかけるような気がしてくる。安孫子はそそけ立った面持ちで、警官の駆けつけるのを待っていた。じつに四十五分という時間を、彼はこうして怯えながら橘の屍体とともにすごしたのであった。  やがて崖の上で男の話声が聞こえたかと思うと、刑事の声が降ってきた。 「おうい、屍体はどこだあ……」 「ここだ、ここだ、ここですよオ……」  安孫子は、両手を口にあててメガフォンをこしらえると、生き返ったような元気な声で答えた。崖の端の笹がゆれて、そこから四つん這いになった刑事が熊のように首をだした。 「おお、そこですか。屍体はどれ?」  安孫子が返事をするより早く、彼は屍体に気づいて視線をこらしていた。 「どこから降りるんです?」 「もう少し川上に行くと道がついています」  安孫子が指で示すと、刑事の首は一つこっくりをして笹のしげみにすっとひっこんでしまった。  三分ほどのち、二人の係官は安孫子の横にひざまずいて、橘の屍体と周囲の情況を入念に調査していた。つい三時間ほど前まで生きていたこのプレイボーイは、毛むくじゃらのすねをなげ出すようにして、ぶざまな姿で倒れていた。腰から上は水のなかに浸って、頭は完全に水底に潜っている。竿やビクや帽子はごつごつした石の上に散らばっていた。  しかし係官が求めていたものはそうした漁具ではない。 「カードはそこにありますよ。ピケ帽のそばです」  安孫子にいわれて近づいてみる。きれいに彩色された小さなスペードの札は、すぐ目にふれた。たくあん石のような二個の石塊にはさんであるのは、風にとばされ紛失するのを用心してのことらしい。刑事はそれをとろうと手をのばした拍子に、ふまえていた石がぐらりと動いたために重心を失って、思わず尻もちをついた。 「畜生ッ」  と石を罵りながら、カードをそっとつまんだ。まぎれもなく、それは紛失した一連のスペードの一枚であった。 「妙な真似をするじゃありませんか。なんのためにいちいちカードを残していきやがるんでしょう、気になるな」 「殺人者の署名だね。一種の虚栄心のあらわれだろう」  警部は受け取ったカードと、ポケットのなかからとり出した二枚のカードを比較しながら、いつか牧が述べたのとおなじ見解を答えた。しかしそうはいうものの、二人の係官も犯人の残したカードが単なる見てくれであるとは思わなかったのである。犯人が屍体のかたわらにカードを置いてゆく真意は決してそのような単純なものではなく、もっと合理的な納得ゆく狙いがあって然るべきだと思われてくるのだった。ではそれはなにか、と訊かれるとまったく見当がつかない。刑事はふと、犯人の正体を、この気障な洒落男に訊ねてみたい衝動にかられた。  すでに夕方ちかいが、木の葉をもる陽ざしはまだ明かるく、川面の波をくぐった光線は水中を屈折して、水中の橘の死顔に奇妙にゆらめく縞をつくっていた。水底の橘の表情はとどまることなく千変万化した。怒り、嘆き、おどけ、泣き、しかめ、笑い、そしてまた怒って嘆いておどける。彼の口のあたりがふっくり歪んで歯をむき出しそうに見えたとき、刑事は、自分の無能を嘲笑されているような気がした。  駐在所から電話をかけておいたので、三十分あまりすると医者が自転車をかってかけつけてくれた。だが、たといどんな名医を連れて来ようと、橘を蘇生させることはできない。医師を呼んだのは彼の屍体をみてもらうためだった。  医師は緊張に顔をこわばらせて崖の急な小路をおりると、大きな石塊をふみしめながら近づいてきたが、挨拶もなにもはぶいてすぐさま屍体のかたわらにかがんだ。 「どなたか手を貸して下さい」  つっけんどんな調子でふり返りもせずにいう。その怒ったような口調にも、医師が三度目の変事に驚いていることがよくうかがわれるのであった。安孫子と刑事が手をさしのばすと、橘の屍体を水中からひき出してそれを賽《さい》の河原に横たえた。橘の冷たくぬれた指の先に赤トンボがついと来てとまると、忙しく目玉をうごかしていたが、またすぐに飛び立っていった。  医師は慣れた手つきで顔や四肢の外傷をしらべ、刑事に手伝わせてシャツとズボンをぬがせたが、なにも発見することができず、ふたたび刑事の手をかりて屍体をぐるっと半回転して、うつむかせた。橘は釣り上げられた鰤《ぶり》のように他愛もなく、ぴちゃりと軽い音をたてて寝返った。水滴がはねたとみえ、いやな顔をしてシャツの袖で唇をこすっていた安孫子は、その動作を中途で止めると、眸をこらして、屍体の後頭部を一心に見つめた。  橘の延髄《えんずい》に、一本のペンナイフがぷっつりとつき立っているのだ。蒼白なうなじに刺さった真赤なナイフの柄《つか》は、じつに鮮やかな印象を人々にあたえた。 「ここをやられちゃ堪らん、即死ですよ。声をたてる暇もない。電気に撃たれたようなもんです」 「どうです、自殺の可能性は?」 「とんでもない、自殺や過失死じゃ絶対にないです。殺人ですよ、これは。充分に狙いをつけておいてずぶりとやったんですな」  医師は言下に否定しておいて、ハンカチで柄をくるむとぐいとばかり引きぬこうとしたが、容易にぬけない。 「筋肉がからみついている。生体につき立てた証拠ですよ。死んでからつき刺したなら、するりとぬけるはずです」  ナイフを引きぬくことを諦めたふうに立ち上りかけたが、ふと気づいたようにもう一度腰をおろすと、屍体の後頭部に手をあてて撫でていた。 「ここにコブができてますな」  さらに頭髪をかきわけるようにして地肌をしらべた。 「というと生前に撲《なぐ》られたことになりますか」 「もちろんです。死んでから撲られたとか、あるいは延髄を刺されて倒れる拍子にぶち当ったとすると、このような皮下|溢血《いつけつ》は生じませんよ」 「すると犯人は背後から後頭部をぶんなぐって昏倒《こんとう》させておいて、悠々と延髄を刺したことになる。そう想像して間違いありませんか」 「もっとも妥当な解釈でしょうな」 「犯人は心をゆるした人間だったことはわかるな。この男は殺されるとは夢にも思わずに、敵にうしろを向けたまま、すっかり気を許して釣りをやっていたんだ」  刑事は独りごとのようにつぶやいて、小指の爪をかんでいた。だがその発見がなんの役にたつというのか。犯人がのこった四人の大学生のなかにいることは、最初から明らかになっているではないか。その四人のなかのだれが背後に立ったとしても、橘は少しも疑うことなく釣りをしていたであろう。 「兇行時刻はいつごろになります?」 「さてね、どうも難しいご質問ですな。外部からみたのみで判断をくだすことは普通でも困難な問題なんですが、まして屍体がこのような冷たい水に浸っている場合は、より一層むずかしくなるんですよ。なにしろ、この川の水温は真夏でさえ一分と手をつっこんでいられないくらい冷たいのですからね、屍体も冷凍されているようなもんです。まあ、一時から四時までの三時間という大雑把《おおざつぱ》なところで勘弁して下さい」  彼はすこぶる茫漠とした数字をあげた。  これを換言すれば、りら荘をでたのちから、屍体を発見されるまでのあいだに殺されたということになる。そうした推定ならばべつに医師の判断を待つまでもなく明らかなことであった。刑事はからかわれたとでも思ったのか、ちょっと不興な顔になった。  剣持警部は膝をついてハンカチをとりのぞくと、首のうしろに突き立てられたペンナイフを詳細に観察していたが、やがて刑事をかえりみた。 「女物のナイフらしいね。男はこんな色の品を持っちゃいまい」 「そうとばかりは限らんですよ。ちかごろの男のなかには赤いワイシャツを着てるやつがいますからね」 「赤いシャツなら昔からいたじゃないか。漱石の小説に出てくる。だがこのMというイニシャルはなにか暗示的だな」  二人の小声の会話をきいていた安孫子は、話のとぎれるのを待って言葉をはさんだ。 「ぼく、このナイフに見覚えがあります」 「だれのです?」 「りら荘で死んだ松平紗絽女君のナイフですよ。Mというのは松平の頭文字です」 「これがか?」  刑事は調子のはずれた声を出した。毒殺された女のナイフがその許婚者の延髄につき刺さっていたという事実は、怪談にでもありそうな因縁めいた話だった。  にわかに崖の上に足音がしたので、一同はいっせいに頭を上げた。行武を道案内にたて、牧数人や尼リリスがやってきたのだ。間もなく河原におりた一行のうしろには、万平老人が駐在巡査と担架を持って従っていた。彼らはそこにうつ伏せになっている屍体を見て、一様に面をこわばらせた。昼食をたべたあと、口笛をふきながらはずんだ足取りで出ていった学友がこのような痛ましい姿になったことを、彼らは恐怖するよりも哀悼《あいとう》するよりも、ただ驚愕《きようがく》して見つめるばかりであった。  すると、リリスは口のなかであっと小さくさけぶと、行武にあわただしく声をかけた。 「行武さん、あの赤いペンナイフ、あれじゃなくて?」 「そうだ、さっき松平君のポケットから転がりでたやつだ」  学生たちのそうした会話を、刑事が聞きとがめぬはずがない。 「このナイフがどうかしたんですか」 「いえ、べつにどうもしませんけど、ただ……」 「ただどうしたというんです?」 「あの、さきほど紗絽女さんを介抱してたとき、ポケットから転げでたんです。行武さんに拾ってもらってテーブルの上にのせておいたんですけど……」 「テーブルというと、どの部屋です?」 「応接間のテーブルですわ」 「そいつがいつの間にか橘君の延髄につき立っていたというわけですな? で、ペンナイフがテーブルの上から消えてなくなったことに気づいたのはいつです?」  刑事はするどい調子でつっこんだ。言葉ばかりでなく、彼の目もするどい光に輝いていた。 「さあ、存じませんわ。あの騒ぎでナイフのことなんぞすっかり忘れていましたもの。いまこれを見て、やっと思いだしたんです」 「行武君、あなたはどうです?」 「ぼくも同様ですな。テーブルの上にのせたまでは覚えとるのですが、それからあとは思いだすこともなかったです」  刑事は残念そうに唇をゆがめ、一同をふり向いた。 「みなさんはいかがです?」  牧も安孫子も万平も顔を見合せるきりである。 「知りませんな、どうも」 「そのあとで応接間に入った人はだれとだれですか?」 「われわれみなが入りましたよ。ほら、あなたの訊問を受けるために」  と、牧が答えた。身だしなみのいいこのテノールは、こうした場所に立つと何かちぐはぐな印象をあたえていた。 「そう。だが、あのときテーブルの上にナイフはなかった。すでに犯人が持ち去っていたわけです。わたしが訊いているのはそれより前のことですよ」 「あたくし入りましたわ」  リリスが言った。 「紗絽女ちゃんを二階のお部屋に連れていったあとで、毒入りのカップを万平さんに保管してもらうように頼みましたわ」 「そうだ、あのときはぼくも入ったよ。安孫子も一緒だったし、万平さんも入ったね」  と牧がいい、童顔の安孫子は不承々々それを認めた。 「そのときナイフはどうでした?」 「さあ……、あったといえばあったようだし、なかったといえばなかったようだし」  牧の返答は不得要領《ふとくようりよう》だった。しかし犯人をのぞいただれしもが牧と同様であったろう。あのような動転している際に、ナイフの存在に気づくものがいたらどうかしている。  刑事は失望を隠そうともせず、腹立たしそうにタバコをくわえると、マッチで火をつけて軸木を流れの上にほうった。万平老人はのっそりした足取りでうち捨てられたビクに近づいて、ふたを開けて鮎をかぞえていたが、やがてかすかに首をふった。 「十六匹釣っとる。仏様にゃわるいが、いくら教えてやっても釣りの腕は上達しなかった。ビクも竿も上等だけんど、肝心のわざが駄目だったな。あの腕で十六匹も釣るにはたっぷり三時間はかかったべえよ」  屍体がくしゃみでもしそうな痛烈な批評だけれど、そのなかにどことなく師匠が弟子を思うような暖か味が感じられた。しばらくの間だれもかれも黙っていた。  万平老の話から逆算してみると、兇行時刻を推定するのはきわめて容易なことだった。橘が竿をかついでりら荘を出たのは零時半である。この釣り場に到着して糸をたれたのが三十分のちの一時としてみると、殺されたのは四時ごろという答がでてくるのであった。 「行武君、屍体を発見したのはあなただというお話でしたな?」 「ええ」  と、彼はぶっきら棒な返事をした。そこには明らかにそうした質問をされることを好まぬ響きがこもっている。 「そのときの様子をくわしくうかがおうじゃないですか」  と刑事は開きなおったような口調だった。行武はいくらか表情を固くしてしきりに唇をなめていた。その沈黙を破って一羽のセキレイがひと声鳴くと、長い尾をふって、青いつぶてのように流れをよこぎって飛んだ。  六 スペードの4     一  行武が語った話を整理すると、それはつぎのようになる。  婚約者の毒死したことを橘に知らせるため、りら荘をでた四人の大学生は、ネム林の下につづいている小路をたどって、川のふちに立った。巨大な庖丁《ほうちよう》でそぎとったように急な断崖の下に、透明な水がくろい岩をはみ、白いあわをたてて、身をよじり、くねらせ、もつれあうようにして激しく流れている。 「じゃ、ぼくらは下流をさがす」  水音に負けまいとして牧は大声をだした。 「もしきみたちが見つけたら、どちらか一人がぼくらに知らせにきてくれ、われわれのほうで発見したら、ぼくがきみたちに知らせる。おたがいに無駄な努力をするのはつまらんからな」  牧はそう提案すると、流れを見おろしたままでリリスにいった。 「尼ちゃん、きみはこっち側を行かないか。ぼくは向うにわたる。二人そろってこちら側を歩くと、この崖の下が死角になって見えないからね。橘の姿を見おとすおそれがあるんだ」 「そりゃそうだ。おれも向う側にわたる」  安孫子は、気の合わない行武とコンビになって歩くことがどれほど不快なものであるかを、つまり自分が相手をいかに嫌っているかを、ことあるごとに当人に思い知らせてやりたくてたまらぬらしい。それによって行武が腹をたてれば、幾分なりともこちらの虫がおさまるといった顔つきである。その、いや味のこもったあけすけな調子に、敏感な行武が気づかぬはずはない。だれがお前と一緒になるものかというふうに、眉をぴくりとさせ肩をはると長髪をゆすって、さっさと川上へ向けて歩きだした。そのうしろ姿を、安孫子はにやりとしながら見つめていたが、あっ気にとられた面持ちで立っている牧たちをうながすと、川下へ向った。  流れを越えるには、百メートルほどしも手にある吊り橋を渡らなくてはならない。安孫子はじめじめとぬれた崖のふちの路をたどって吊り橋にでると、そこにリリスをのこして牧と二人で橋を渡り、さらに牧と別れて独り川上へ向かったのである。  行武は、少なくとも五分先んじて対岸の崖にそった路を歩いていたことになる。その彼が現場に立って刑事の問いに答えて語ったのは、つぎのようなものであった。  蝉《せみ》の声と水音のほかはなにも聞えなかった。彼のいく路はぴたりと流れによりそったかと思うと、浮気女のようにぷいと離れたりしながら、うねうねと長くつづいていた。そのため、ときどき藪のなかに踏み入って対岸の様子をうかがわなくてはならず、思いのほか時間がかかるのであった。茨のとげにズボンをひっかけて危なく破りそうになったときには、こんな苦労をして橘をさがすことが腹立たしくさえなった。 「……はじめ獅子ケ岩の前をとおったとき、橘の屍体には少しも気がつきませんでした。ぼくは彼が水際に立って釣り糸をたれている姿ばかり頭にえがいていたもんだから、こんな恰好の屍体が目に入らなかったのは無理ないことなんです。そんなわけで、そのままとおりすごしてしばらく上流へ歩きました。ところがいくらさがしても見つからないもんだから、いい加減に見切りをつけてもどることにしたんです」 「すると屍体を発見したのは帰り途だったのですな?」 「ええ。しかし、最初みたとき橘の屍体だとは思いませんでしたね。増水のときに崩れた丸木橋が漂流して、その丸太ン棒がうち上げられたのかと、そんなふうに感じたのです。しかしよく見ると丸太じゃなくて、人間の二本の脚らしいことがわかった。だが、まさか橘だとは思いませんでした。木樵《きこり》かなにかの変死体がある! ……と、そう考えたんです。どきんとしましたね、心臓が。一分ばかり……いや、五、六秒のみじかい時間だったかもしれませんが、どうすべきか判断をつけることができずに、立ちつくしていました。そして橘をさがすことも大切だが、変死者のあることを安孫子に知らせる必要もあると感じたのです。そう、考えたというよりは感じたといったほうが適切かもしれんです。とにかく、そのときのぼくはまだ半ば呆然としていたんですから」 「それからどうしました?」  刑事は冷酷なまなざしで、行武の話の先をうながした。少しでも嘘や不確かなところがあれば遠慮なしにつっこんでやろうと待ちかまえているような、感じのわるい視線である。先程、りら荘の廊下で行武の肩をたたいたときとはまるで別人のごとききびしい視線であり、態度であった。 「だからぼくは、対岸に向って安孫子の名を呼んだのですよ。このとおり水音がやかましいもんだからなかなか声がとどかないんです。真向いには聞こえても、少し上流か下流にいると、聞こえるはずがないんです。そこで仕方なしにもう一度上にのぼって、しばらく安孫子の名前を呼びながら歩きました」 「すぐに見つかりましたか、安孫子君は?」 「運よく近くにいたもんだから三、四分で見つかりましたよ。彼はぼくの話を聞いてすぐこの石原におりてみたんです。屍体が橘だとわかって、安孫子もびっくりしたようだが、ぼくも驚きました」 「そりゃそうでしょう。で……?」 「ぼくは、屍体を見るために、対岸にわたりたいと思った。本来なら、変死人など見る勇気があるはずがないんです。鼠の死骸《しがい》でさえ、正視することはできませんからね。だが相手が橘であるとすれば、そんなことはいっておられんです。ところがこのとおり流れが早い上に、深いときてるもんだから川に入ることができない。そこで屍体を見ることはあきらめて、安孫子をその場にのこして、りら荘にかけもどったわけ……」  彼の語尾は、水の音にかき消されてはっきり聞こえなかった。刑事は行武の顔をじっと見つめたまま、胸中しきりにいまの話を検討している様子だった。剣持警部はそ知らぬ顔でパイプをほじっているが、中途から到着した五、六名の警官は猜疑《さいぎ》にみちた目で行武を凝視していた。尼リリスも牧の指をにぎりしめたまま、目を大きく見開いている。その顔色がそそけ立ったように蒼ざめてみえるのは、崖の上におおいかぶさっている木の枝のみどりに染まったためであろうか。頭上の梢《こずえ》で鳴きつづけていたつくつく法師がその場の緊迫した空気を感じとったようにぴたりと声を止めた。  二人の捜査官はこちらに背を向けるとしばらく密談をしていたが、やがて手近の巡査を数名よぶと、なにやら命令をした。すると警官は万事承知というように大きくうなずいて、屍体を前にしてたたずんでいる学生達に意味ありげな一瞥《いちべつ》をくれたのち、崖の小路を上って行った。黙々としてそのうしろ姿を見送る学生の顔には、一様に不安のいろがかくせない。 「さあ……」  そう声をかけて、刑事が石の上を渡って小柄な安孫子の前に歩みよった。 「さ、今度はあなたの話を聞かせて頂きたいですな」  安孫子はかすかにぶるっとふるえたようだった。するとそれに気づかれまいとするかのように、かえって反抗的な口調になった。 「ないですよ、話なんて。べつに……」 「ないことはないでしょう。あなたが吊り橋のたもとで牧君と別れたのちのことを聞かせてくれりゃいいんです」 「どうせね、本当の話をしたところで信じてもらえないんですから、気がすすみませんよ」 「そろそろ日が暮れるじゃないですか。いつまでもこうしているわけにはゆかん。さ、聞かせて下さい」  刑事は、うす気味わるく感じるほどにおだやかにうながした。  安孫子は、自分の立場がますます不利になっていくことをよく知っていたらしい。先程までは怯えていたが、いまはもうどうにでもなれという捨て鉢な気持になったとみえて、以前のようにふんぞりかえった傲岸な態度をとりもどしていた。くわえていたタバコを流れのなかになげすてると、おもむろに両脚をふまえて体の重心をとり、両手をわざわざズボンのポケットにつっこんだ。 「ないんですよ、なんにも! 牧と別れると、この崖の上の道をたどって獅子ケ岩の百メートルばかり先まで行った。そのとき行武の声を聞いたので、てっきり橘が見つかったものだと思ったんです」 「行武君はなんていいました?」 「だれかが倒れとる、放っておくわけにはゆかんから橘のことは後廻しにして、お前ちょっと見てくれ、といいました。だからぼくは、橘のやつ一体どこに行って釣っているんだろうと考えながら、ともかくあと戻りをしてここに降りてみたんです」 「すぐに橘君だとわかりましたか」 「ええ、見覚えのあるピケ帽が転がっていたものだから、とたんにピンときました。水のなかをのぞいてみると間違いなく橘です」 「それからどうしました?」 「どうもしやしないですよ。びっくりして立ちすくんでいました。ぼくらは戦争に行ったわけではないんです、屍体には慣れていませんからね。それでも勇気をだして足にふれてみると、もう体温が感じられない。いまさら上体を水中からひきだしてみたところで、助かる見込みはあるまいと思いました。だから屍体にはそれ以上手をふれずに、行武を知らせに走らせたのです」 「ちょっとばかり合点のゆかぬところがありますな。あなたは、足にさわってみたところが冷たかったから助かる見込みはないと判断したという話だが、この冷たい水に浸っていれば一分間で冷凍魚なみに冷えてくるんですよ。だからあなたが屍体をみたときは、まだ橘君が水中に沈められて一分たったころだったかもしれません。その場合なら引き上げて人工呼吸すれば蘇生したとも考えられる。一見しただけで絶望だと推定するだけの医学的素養があなたにあるとは思われんですがね」 「もちろんそうです。ぼくは芸術家の卵であって、医者の卵じゃない。人工呼吸をいかにやるべきかも知らんのです」 「しかし、それは傍観していたことの釈明にはならんですよ」 「だけど延髄にナイフがつき立っている以上は、即死したことが明らかじゃないですか、ともかく橘は死んでいたんです」 「そりゃたしかに死んでいた。だが、当時あなたは延髄にナイフがつき刺さっていたことは知らなかったはずでしょう?」 「そりゃ理屈ですよ。いかにもぼくは延髄にナイフが刺さっていることは知らなかった。しかしその人間が生きているか死んでいるか、われわれは直感的に悟ることができると思いますね」 「どうですかね」  と、刑事はなおも懐疑的だった。 「なにはともあれ、橘君を水中からひきずりだして、人工呼吸は知らないまでも水を吐かせたりすべきではなかったんですかね」 「刑事さん、そういうひとの悪い質問の仕方はやめてもらおうじゃないですか。まるで嫁が姑《しゆうとめ》にいじめられているみたいだ」  安孫子は得意とする反り身のポーズをとって、刑事の顔をにらみ上げながら言葉をつづけた。 「なん度もいうようだけど、ぼくは人工呼吸の知識がない。だからひきずりだしたところで手当ての方法を知らないです。そう思ったからそのまま放っておいたんだ……。いや、違う、ぼくは素人だからわかるはずはないんだけど、一見してこいつは駄目だと感じた。もう万事が手遅れだというような感じを受けて、それに支配されたんです。水底にある橘の顔にあらわれている死相、たしかそれを見てぴんと感じたんじゃないかな。どうもうまい言葉が見つからなくて充分に説明できないが、つまるところそんなものです。それから……」  と、安孫子はますます反り返った。 「あんたがたはそんなことをいってぼくをいじめるけど、もしぼくが仮りに屍体をいじくったとしたら、現場を荒したとかなんとかいって目に角を立てるところじゃないですか」  図星《ずぼし》をさされたとみえ刑事は指で鼻の下をこすって、いままでの疑問を思いきりよく捨ててしまったように、べつの口調になった。 「スペードの3にはすぐ気がつきましたか」 「ええ、あたりを見廻したときにすぐ……」 「屍体を見たのとカードを見たのとどちらが先です?」 「まず屍体ですよ。それが橘だということがわかって呆然としたんです。そこに、行武からどうしたのかと声をかけられてはっとわれに返った。あたりを見廻すゆとりができたのはそのあとのことです。カードは石と石にはさまれてあったものだから、最初のうちはわからなかった。やがてそれと気づいて近よって目をこらしてみると、スペードの3なんだ。おどろいたな、あのときは。おれがそのことを怒鳴ると、行武もびっくりしていた」  と、安孫子は牧やリリスや万平の顔をひとりひとり見廻した。 「犯人らしきものの姿は見えなかったですか」 「残念ながら見ませんでしたね。とにかく、あのときほどびっくりしたことはないですよ。刑事さんも知ってると思いますが、行武が、盗まれたカードの数から判断して連続殺人説をとなえたとき、ぼくはこれに反対した。推理小説の読みすぎからくるノイローゼだといってね。あのあと刑事さんが帰られてからも、われわれのあいだでその問題がむし返されたんです。行武に賛成したのはこの牧で、ぼくに賛成したのは橘でした。ぼくはやはりナンセンスだと信じていた。行武の主張が非常識的だと思っていたんです。ところがつぎに松平さんが毒殺された。それでもまだぼくは、これが連続殺人になるとは思いもしなかった。そうしたところに、いきなり目の前に三番目の屍体をつきつけられたものだから驚いた。いや、驚いたというよりも、慌てたといったほうがただしいでしょう。だれがやったのだろうかと思うと同時に、犯人はまだこれからも殺人をやるのではないかと直感した。ぼくはいつの間にか、行武の連続殺人説を肯定していたんです。だからじつをいうと、屍体と二人きりで待っているのは恐ろしかった。犯人が上から狙い射ちをすればぼくは簡単にやられてしまうし、ナイフでも持って崖をおりてくれば逃げる路がない。そんなわけであなたがたが来てくれたときは、正直の話、ほっとしたのです」  彼はしんから安堵《あんど》したようにみえた。しかし刑事は、なおも冷たい眸でつき刺すように相手を見つめている。胸中の平静を失ったためにぺらぺら喋っているのか、ほかに何かの目的があってまくしたてているのか見当がつかない。 「自分がやられるのじゃないかと思って恐ろしかったとおっしゃるが、すると、なにか殺されるような動機があるわけですな。なんです。それは?」  安孫子はしきりにまばたきをつづけ、なにか答えようとして唇を動かしたが、結局だまり込んでしまった。 「動機がある以上は、相手がだれであるか見当がついているはずです。だれですか、それは?」  と刑事がにじりよって追及した。 「そうじゃない、ぼくには殺されなくちゃならないような動機はありませんよ。ただ相手が殺人鬼じゃないかと考えたんです。理由もなにもなくて、ただ面白いから殺して歩くんじゃないかと思ったんです」 「殺人鬼か、いかにもこの犯人は殺人鬼に違いないな」  安孫子の返事に納得したのかどうか、刑事は独りごとのようにつぶやくと、牧とリリスをかえりみた。肥ったソプラノ歌手の卵はルージュをぬった真赤な唇をきっとむすび、牧の二の腕にとりすがっていた。 「ところで牧さんたちはいかがです? 吊り橋のたもとで別れたあと、あなたがたはそれぞれ単独で下流の左岸と右岸を探したと称しているわけですが、アリバイはありますか」 「ありますわよ!」  リリスはさも疑ぐられたのが心外そうに眉をひそめた。 「あたくしども歩きながら始終呼びあっていたんです。橘さんを殺しに行くなんて、とんでもない話ですわ。それに……」  唇をゆがめて毒々しい表情をすると、リリスはゆっくりと説き聞かせる口調になった。 「あそこで雑木を伐ってるお百姓がいたの、ご存じないかしら。あたし、あの農夫にいろいろ訊ねてみたんです。魚釣りにいく男のひとを見たかどうかって。そしたら、小さな男のひとが……というのは安孫子さんのことですけど、その安孫子さんがさがしにきた姿は見ているけど、橘さんを見た覚えはないというんですの。だから牧さんと川をへだてて相談し合った結果、橘さんは上流で釣っているにちがいないとの結論に達したので、捜索をあきらめてりら荘にもどったんですわ」 「そうなんです。りら荘に帰ってみると行武君が疲れた恰好でイスにすわっている。どうしたのかと思ったら橘君がやられたというじゃないですか。われわれ大いに驚いてここにかけつけてきたという次第です」 「ですから刑事さん、あたくしどもが川下にいたということは、木を伐っていた農夫にお訊きになればおわかりになりますわ」  両人とも自信にみちた声音《こわね》である。ともかくあとで農夫にあってみようと刑事は考えた。それが事実とするなら、牧とリリスは現場まで往復するゆとりはない。先行している安孫子に気づかれぬよう追い越して現場へおもむくことは、絶対に不可能であった。  するとそのとき、崖の上で人声がしたと思うと、先程のふたりの警官が降りてきた。 「発見しましたよ。すぐこの上流なんです。崖の上から見おろすとわかるんですが、水面すれすれに大きな岩が飛び石みたいに三つならんでいます。ですから、イナバの白兎の要領でその上を跳べば、簡単に横断できたはずです」  刑事が鉛筆で耳の穴をかいた。警部は無表情に巡査の報告をきいていたが、のっそり体を動かすと、巡査の顔を見た。 「どれ、そこにつれて行ってくれんか」 「はあ」  警部は学生たちにちょっと会釈をすると、巡査に腰をおされて崖を上っていった。  一同はようやく警官がなにを調べていたかを了解することができた。りら荘の下流にある吊り橋まで戻ることなしに、流れを越す足場が発見されたというのである。  だれもかれもが黙っていた。その沈黙に反抗するかのように、行武はぎごちない動作で流れに向って唾をした。しかし彼がどんな表情をしているかはうかがうことはできなかった。谷底には夕闇が迫っていたからである。     二  解剖は秩父署で行なわれることになっていたので、りら荘の門の前には、警察の小型トラックが屍体うけとりのため停車しており、紗絽女はすでにその上にのせられてあった。学友と万平の手ではこばれてきた橘の屍体も、ただちに紗絽女とならべて横たえられた。婚約を発表してどれほどもたたぬうちに、冷たいむくろと化した一対の男女を、学友たちは一様に信じられぬ面持ちで見まもっていた。  やがてトラックが走りだし、あかいテールライトがカーブをまがって見えなくなると、暗闇のなかでだれかがほっと溜息をついた。それをきっかけとするように、リリスは急にハンカチで顔をおおった。先程から涙ひとつみせなかったのは勝気な性格のためか、緊張していたためか。しかしいま、二個の屍体がはこび去られてしまうと、僚友の死が、いたましい実感として犇々《ひしひし》と胸に迫ったのであろう。ハンカチの下からむせび泣くような声がもれていた。牧がそっと肩を抱く。彼女はいやいやをするように首をふったが、すぐ男の胸に身をなげかけた。  行武は門の石積柱によりかかってタバコに火をつけ、ふいごのようにふかしつづけている。安孫子は唐草模様の鉄門に片手をかけて、檻《おり》のなかの類人猿のように、無意味にそれをゆすぶっていた。淡くうすい門灯の光りはあるが、人々の表情までは判然としない。その四つの顔を交互に根気よくながめながら、そこにうかんだ表情から犯人の正体を看破しようとしていた由木刑事は、とうとうあきらめたように声をかけた。 「いつまでここに立っていても仕様がない。家のなかに入ろうじゃないですか。みなさん食事がすんだあとで、もう一度われわれの質問に答えて頂きます」  彼の言葉にはのっぴきならぬ調子があった。四人の学生はおもい足取りでりら荘へもどることにした。  こうこうと輝く建物の灯りは昨夜と少しも変っていないはずなのに、それが妙に暗くわびしく、寒々と陰気に見えた。係官は階下の客間に入り、学生たちはそろって階段を上った。平素は息つぐ暇もなく喋りまくるリリスも、いまはおし黙っている。彼らのうしろ姿は、絞首台にのぼる死刑囚を思わせるほどに元気がなかった。  そのころ、調理室のお花さんは夕食の仕度で多忙だった。剣持警部たちにもりら荘でたべてもらうことになったから、なおさら忙しいのだ。食器をならべたり新香を切ったり釜のふたをあけたり、老夫婦が二人きりのときに冷《ひや》めしと漬物ですませるのとは違って、大変な騒ぎだ。  そこにのっそりと亭主の万平が入ってきた。 「ちょいとお前さん、お風呂はどうなの?」 「あと五分もすれば沸くだべえ。そろそろボンベを注文しとかなくちゃなンねえな」 「ほんとに困っちまうよ、今夜のお料理にゃお砂糖をつかうことができないからねえ」 「砂糖、どうしただね?」 「毒が入っているかも知れないといって、お巡りさんが持っていってしまったのさ。ココアの缶と一緒にね。そうと知ってりゃ、買い物にでたついでにべつのお砂糖を買っておいたのに。……ああそうそう、警察の旦那がたは鮎がたべたいとおっしゃるんだよ。ビクをここに持ってきておくれな」 「ビクってだれのビクだ」  万平は妙な顔をした。 「殺された橘さんのビクだよ」 「あンれ、死人の釣った魚を喰うちゅうのか」 「お巡りさんはね、そんなことで縁起をかついでた日にゃ商売ができないのさ。さ、早く持ってきておくれ」  お花さんは七輪をあおぐうちわの音をやけにばたつかせ、万平は自分のお尻をあおがれたようにあたふたと裏口のドアのほうへとんでいった。どういうわけだか彼は手足の関節のできがわるくて、動作がぎくしゃくとしている。だから本人は慌てているつもりだが、その動きはいかにものっそりとして見えるのだった。  お花さんは、ばたばたやりながらしきりに独りごとをいう。 「どうも変てこだよ。あたしにゃさっぱりわけがわからない。気になってしようがないから刑事さんに相談しようとすりゃ、きみなどと話をしてる暇はない、それよか鮎の塩焼をたのむなんていわれるし……。でも刑事さんがムキになってるのも無理ないよ。炭焼きの佐吉どんが女の子に間違われて殺されたかと思うと、その犯人が捕まらないうちに、松平さんと橘さんがばたばたと殺されちまったんだからね」  パチン! と炭がはねたので、お花さんは思わずとびさがった。そして中断された独りごとをはじめた。 「まさかね、ココアやお砂糖に毒がまぜてあるわけがないさ。あたしゃ今日のお昼もあのお砂糖を使ってお料理つくったんだけど、なんの変わったことも起らなかったんだからね。だけど佐吉どんも見損った男だよ、人様のレインコートを盗むなんてね、あんな人間じゃないと思っていたけど、まったく他人を信用することはできないよ。そのあげく崖からつきおとされてさ。お巡りさんがロープをつたってようやく降りられたという谷底だもの。墜落するときの気持ったらなかったろうね。考えただけでも足がふるえるよ」  プロパンガスのコンロにかけておいた鍋がふきだしたので、お花さんは、慌ててふたをとるとなかをかきまぜ、ちょっと味をみてから、満足そうにうなずき鍋をおろした。あとに薬缶をのせると、ふたたび七輪の前にもどって炭火をおこす。 「……橘さんも気の毒なことをしたものさ。お洒落で派手好きな人だったけど、死んじまえば万事がおしまいだよ。殺されたお嬢さんも運がわるいね。一昨晩婚約を発表したばかりだというじゃないか……。それにしても、あれは思い出すたびに気になるよ。お巡りさんは相手にしてくれないし、どうしたもんだろうね」 「おい、鮎はだめだよ」  だしぬけに声をかけられて、お花さんはぎくっとしたようにふり返った。 「だめ? なにが駄目なのさ?」 「なにがだめッてよう、鮎がだめなんだというとるじゃねエか」 「鮎はわかってるけどもさ、鮎がどうしてだめになったのかと訊いてるのよ」 「三匹のこしてあと全部がいたんどる」 「あら、もう?」 「向うで見たときはどれもこれもぴんぴんしとったが、夏だから腐るのも無理はなかンべえ」  お花さんはみるみる丸い顔に眉をよせると、腹立たしそうに亭主を見据えた。 「いやンなっちまうね、ほんとに。いまになって腐ってるなんていわれてもどうにもならないわよ。せっかく火をおこしたのに」  鮎を焼くのにプロパンガスの火はだめ、炭火にかぎるというのがお花さんの持論なのである。 「炭は火消しつぼに入れたらすぐ消えるだべ」 「なにいってンのよ。いまあたしは忙しいの。お前さんの相手をしてる暇はないンだよ。行って頂戴、あっちへ!」  大きな目をむいてにらみつけられ、万平老はすごすごと風呂の焚き口のほうへ立ち去った。いかに楽天家のお花さんとはいえ、食事の仕度であたふたするときには、やっぱり気がたつとみえる。  客の食事がすんで、応接間で係官の訊問がはじまったのが八時ごろ。老夫婦はさめたおつゆを温めかえして、ようやくおそい夕食をさし向いでとった。お花さんは白い割烹着《かつぽうぎ》をきたまま、黙々として口をうごかしている。平生は人一倍口数の多いにぎやかな女だけに、こうして黙りこんでいると、なにかうす気味がわるかった。万平はおずおずと彼女の顔をながめ、話しかけようとするが、細君はあてにしていた鮎が腐って、てんてこまいをしたものだからまだ機嫌がわるく、滅多なことを訊いて怒鳴られぬともかぎらない。彼は思いなおしたようにお茶をのみ、タクアンを左の奥歯のほうにもっていってぽりぽりと噛んだ。右の臼歯は上下ともそろってぬけ落ちているのだ。  終始この老妻は口をきかなかった。ただときどき上目づかいにぎろりと時計を見る。その目つきが万平には少々気になってならなかった。  お花さんは食事のあとで茶碗をあらいながらも、二、三度時計に視線をなげた。 「どうしたンだ、おめえ? さっきから時計ばかり見とるじゃねえか」  とうとうたまりかねたように訊くと、彼女は肥って丸々とした手をふって、意外にやさしい声で答えた。 「なんでもありゃしないさ」 「なんでもないことアなかンべ?」  虫が知らせたとでもいうのか、万平は執拗にくいさがった。重ねて訊ねられてお花さんは、ようやく話す気になったらしい。 「ある人に会うだよ」 「ある人ってだれだ?」 「ある人っていうのはある人のことさ。名前をいうことはできないよ。うっかり喋っちまってとんだ迷惑を掛けちゃわるいからね。あたしにはどうもはっきりしないことがあるんだよ。お巡りさんに訊こうと思えば忙しいといって耳をかしてはくれないしさ。そうかといってこのままにしとくのは気持がさっぱりしないからね」  彼女はそう語ったきり、あとはなにを訊かれても話そうとはしなかった。人が好いかわりに、強情なところが多分にある。女房のその性格を心得ている万平は、それ以上たずねても無駄なことをよく知っていた。 「それよかお前さん、お風呂に入ったらどうなの? あたしはあとで入るからさ」  亭主の干渉をうるさがって、浴室へ追いやろうとする腹のうちが見すかされるような言い方だった。しかし、万平は多くの善良にして哀れな亭主族がそうであるように、いたずらに女房に逆らわぬことが家庭の平和を維持するための第一条件と承知していたから、すなおにタオルと石けんを持って居間をでたのである。彼にもう少しの気骨と妬心《としん》があって、齢甲斐ないことではあるけれどもこれを女房のあいびきと誤解し、四の五のいわせずに相手の名前を訊きだしておいたならと、後日、係官は切歯扼腕《せつしやくわん》したのだったが、それは彼の身勝手というべきであった。  まるい顔をてかてかに上気させた万平が風呂からでたのは、それから小半刻ほどたったころだった。よごれたシャツを片手にもって居間にもどると、おいと声をかけた。洗ったシャツをだしてもらいたかったし、よい湯加減だからすぐにも女房を入らせたく思ったからである。だが、お花さんの返事はなかった。  部屋に入ってみると女房の姿がない。柱時計のセコンドの音がひどく大きく聞こえるのみである。反射的に彼女がだれかと会うために外出するといっていたことを思い出して、舌打ちをした。ぐずぐずしていると湯がぬるくなってしまうではないか。 「お花、おいお花……」  万平は炊事場をのぞきトイレットをのぞいて、声をかけた。われながら心細げな、腑ぬけのような声だった。 「お花、お花……」  しかし返事はない。万平の心のなかに急にいやな予感が湧き起った。裏口の扉をあけて呼んでみるがやはりなんの応答もなかった。胸のなかの不安はむくむくふくれ上って、もうじっとしてはいられない。彼は闇をすかしてあたりをうかがい、なおも女房の名を呼びつづけた。 「お花、どこにいるんだい、お花……」  降るような星空だった。ちかくの草むらで秋の虫がきそって鳴いている。しかし彼の目には星もうつらないし、虫の声も聞こえない。  ぐるりと浴室の角《かど》をまわって食堂の近くまできたとき、ほの白い窓あかりを浴びた一枚のカードに目がとまった。いかにもそれは夜風に吹き飛ばされたような恰好で、かたわらの月見草の根元にひっそりと横たわっていた。眸をこらすまでもなくトランプカードである。  彼は顔色をかえ、あわててそれを手にとった。万平は、スペードがどんな形をしているか、ハートがどんな印であるか、そうした知識はまったくない。しかし、いままで三回も発生したいまわしい事件のそのたびごとに、犯人がカードを残していくことはよく知っていた。万平は絶望的な気持にかられて立ち上ると、更に細君の名を呼んだ。カードにしるされた4という算用数字が四番目の変事を意味していることは間違いないのである。女房はどこにいるのか。  いまや万平はすっかり度を失っていた。彼はただめくら滅法にお花と名を呼んで歩いた。そして内玄関の前をとおりすぎようとして、ぐんにゃりとしたものにつまずくと、思わずよろめいた。ぎょっとして顔を近づけた万平は、それがわが女房の屍体であることを知った。万平はぎくぎくとその場に坐りこんでしまった。涙もでない。声もでない。ぐんにゃりしたお花さんの体はまだ暖かかった。  にぎりしめていたスペードの4が、万平の手から暗い土の上にはらりとおちた。  七 謎の数字     一  食事をすませたリリスは自分の部屋にひっ込むと、ワンピースを着たまま、寝台の上にどさりと身を横たえた。今日一日の出来事に、身も心もくたくたになっていたのである。牧が話にきたいといったけれども、それさえ断ってしまった。見栄も外聞もない。ただ安らかな休息のみがほしく、大の字になってそっと目をとじた。  なるべく事件のことを考えずに、気をまぎらせようとつとめた。教室のこと、レッスンのこと、はては好きな映画のことなどを思いうかべてみるが、ちょっとでも手綱《たづな》がゆるむと、脳裡のスクリーンには事件の印象が投写されるのだ。視力を失って、泳ぐような恰好でくずれる紗絽女。ペンダントをひきちぎり、体を弓なりにそらせて悶絶する紗絽女。そして意識を失って昏々《こんこん》とねむりつづける紗絽女……。どの場面も強烈な生々しい感情をともなって、リリスの胸をはげしくゆすぶるのだった。  紗絽女のすがたが消えると、かわって獅子ケ岩の場面がうかんでくる。突如として水の音が耳を圧するような伴奏音楽として聞こえはじめ、リリスはもはや気をそらすことを忘れて、そのなかに没入していた。  にぎりしめた掌に、いつかじっとりと汗がにじみ出ている。休息をとるどころか、彼女の神経は逆にずたずたに切りさいなまれるようだった。  どれほどの時間がたっただろうか、やがてドアを叩く音にはっと起き上り、あわてて身じまいをした。 「尼ちゃん、警部が訊問するから来てくれっていってるよ」  彼女はいそいでドアをあけた。牧が、緊張した顔にさり気ない微笑をうかべて立っている。 「あなたすんで?」 「まださ、きみと一緒に来てくれというんだ」 「ほかの人は?」 「安孫子も行武もすんだよ。なに、そう心配することないさ」 「でも、不愉快ね。入学試験の口頭試問をうけるときみたいな気持だわ。それにあたし、疲れてるの」 「そういや顔色がわるいぜ」  と、牧は光線をすかすようにしてリリスの顔をみた。 「ショッキングな事件の連続だったからね。無理もない。さ、行こう……」 「待って、カーディガン着ていくわ」  二人はひっそりした廊下を歩き、階段をおりて応接間の扉をたたいた。室内には例の大兵《だいひよう》肥満の警部と由木刑事のほかに、陽やけした顔の、ずんぐりと頑丈な体躯のわかい男がおり、牧とリリスが入っていくと立ち上って一礼した。 「お晩です」 「今晩は。ああ、あなたでしたか。背広なんか着てるもんだから、すっかり見違えてしまった」 「あら、似合うじゃないの。なかなか素敵だわ。センスがいいのね」  リリスも明るい声になった。その男は、今日の午後、吊り橋の下で話をかわした青年農夫だったのである。牧たちのアリバイを確認する目的で呼びよせてあったにちがいなく、彼は一張羅《いつちようら》を着こんで、いささか窮屈そうに、しかし若干得意そうでもあった。ポマードの香りが部屋中にひろがっていた。  係官たちは三人の様子をはなれたところでじっと観察していたが、若者たちのうちとけた話ぶりをみているうちに、それまで抱いていた疑念も次第に溶解していったようであった。 「立っていては何もできん。みなさん。坐って頂きましょう。さ、牧君もどうぞ……」  由木刑事は牧たちにイスをすすめて、着席するのをまち、結論を予期した調子で農夫に問いかけた。 「……で、このかたがたに相違ないですな?」  すると彼は体全体で肯定するように大きなゼスチュアで、「違いねえですとも、絶対に!」ときっぱり断言した。事件の内容をどれほど知らされてあったのだろうか、ともかくその返事に好意のこもっているのを感じた牧は、謝意をさりげない微笑に托して、そっと彼を見やった。 「よろしい、ご苦労さんでした。せっかくの食後の団欒《だんらん》を呼びだしてわるかったですな」  由木は、ねぎらいの言葉とともに農夫を送りだしたあと、ふたたびテーブルに向って腰をおろした。農夫の証言で疑惑がすっきりしたせいか、リリスたちに対する態度もていねいだった。 「行武君や安孫子君からもいろいろとお聞きしたんですけどね。なにか参考になることがあるだろうと思って期待していたんですが、両君からは一向に得るものはない。じつはそれで少なからずがっかりしとるんですよ」  彼はざっくばらんにいうと、吸いさしに火をつけて、タバコをふかしはじめた。牧は黙って刑事の鼻からふきでる灰色の煙をみていたが、端麗な横顔に話そうか話すまいかとしばらくためらいのいろをみせたのち、思い切ったように唇をなめると、思いもかけぬことをいい出した。 「……ぼくはですね、松平さんをやったのは橘じゃないかと思うんですが……」 「橘君? あのピアニスト志望の? ほう、そりゃまたなぜ?」  と、刑事は短くなったすいがらを灰皿にすてて牧の顔をみた。  牧数人は胆汁質というのだろうか落着いた性格の持主らしく、奇矯な振舞いの多い他の連中に比べると、その態度も万事が中庸を得ているように思われる。いや体つきまでがかどのとれた中肉中背で、色こそすき透るほどに白いが、丸々と肥ったリリスとならぶと釣り合いがとれない。驕慢《きようまん》なリリスがひたすらした手にでて、牧に嫌われまいとつとめているのも無理もないことであった。 「このことは他の友人はだれも知らずにいますから、そのつもりで聞いていただきたいんですが、橘は松平さんの素行についてある疑問を持っていたらしいのです」  と、彼は昨夜の橘の話をかいつまんで語ってきかせた。その話はリリスも初めて耳にすることである。彼女もまた係官とおなじく、目を丸くして身じろぎもせずに聞いていた。 「……しかし、それは少々妙じゃないですか。女の操行になやむくらいならば、婚約するはずがないでしょう?」 「ですからね、婚約を発表したあとで松平さんが過失を告白したんじゃないですか。大体が橘はスタイリストだから、婚約を公にした以上、それをとり消して人々の憫笑《びんしよう》のまとになることは耐えられないはずなんです」 「橘さんの気質は多分にそうだわね。だから紗絽女ちゃんも安心して告白する気になったのじゃないかしら」  にわかにリリスは積極的な態度になって発言した。 「なるほどね、わからぬこともないですな」 「松平さんは、それほど大きな打撃をあたえるとは思わなかったらしい。ところが、橘のうけたショックは彼女が予想したよりはるかに深刻なものだったんです。実際ぼくもそうと知らされて驚きましたよ、彼女に限ってそんなことをすまいと思っていましたからね。そこで、なにはともあれ橘を元気づけなくちゃならんと思った。なんとか慰めて彼を帰してやったんです」 「ほほう、どんなぐあいに?」  由木は世俗的な興味にかられた表情をした。 「すべからく過失は許すべし、とですね」 「なるほど、あんたはなかなか度量が大きいですな」 「いえ、なに……」  と牧は苦笑して、つづけた。 「火の粉が自分にふりかかれば誰だってあわてますが、他人事となると、偉そうなことをいうもんですよ。ともかく、あのときはああいう他はなかったですし、またそれでよかったと思うんです。少なくとも一時は、橘も気持がおちついたらしかった。松平さんを許してやろうという気になったようです。そうとしか考えられないように自然にふるまっていたので、ぼくはすっかり安心していました。ところが、いざ今日のような事件が起きてみると、やはり彼は胸中ひそかに自分をあざむいた松平さんを憎んでいて、ココアか砂糖に毒物を混入しておいて彼女の毒殺を企てる一方、自分は自殺を覚悟して釣りにいったのじゃないかと思うんです」 「でも、紗絽女ちゃんの毒殺がうまくいったからいいようなものの、仮りにそれが失敗していたら、つまりこのあたしが毒殺されたとしたら、橘さんは無駄な自殺をしたことになるじゃないの」  牧は反問するリリスの肥った顔をやさしく見つめた。 「だからさ、行武か安孫子がやってくる姿を待ちうけていたのかもしれないのさ。そのただごとならぬ表情をそっと覗けば、毒殺の成功したことはぴんと感じるだろうよ」 「賭《かけ》の殺人というわけですか、なかなか面白い見方ですな。しかしね、橘君の死は自殺じゃないんです。なぜかというと、自分で自分の延髄にナイフをつき立てることがまず不可能なのです。一歩ゆずって死ねたとしても、なぜこんな奇妙な手段をえらんだか、その説明がつきません。まさか、自殺史に名をのこそうとしたわけでもないでしょう」 「そうですな」  と、牧は端整な顔を苦笑させた。 「それからね、牧さん。あなたはもっと大切なことを無視しておいでだ」 「無視……ですって?」 「そう。橘君が竿をかついで出ていったのは、チェスのトーナメントが始まるずっと以前のことなのですよ」  相手の発言の真意が、牧にはまだ理解できかねるふうである。 「この応接間で毒にやられた松平さんがひっくり返る、ポケットからナイフがころがり出る。仮りに橘君の死が自殺であったとすると、このナイフを、離れた獅子ケ岩にいる橘君がどうやって手に入れたというのですか。ナイフがなくては延髄を刺すことはできないのですよ」 「ああ、そうか」  と、牧はまた苦笑した。論理的に考えるのは得手ではない。 「だけど動機としては強力だな。非常に……」  由木はノートする手に力が入りすぎて、ぽきんと鉛筆の芯《しん》をおってしまった。舌打ちをしてポケットをさぐっていたが、「はてな、ナイフを忘れて来たぞ」と呟くのを聞くと、リリスはカーディガンのポケットからナイフをとりだした。 「あの、切れませんけど、よろしかったら……」 「すみません、ちょっと拝借」  うけとって、灰皿の上で鉛筆をけずり、芯をとがらせていた刑事は、ふとなにかに気づいたように手の動きをとめて、ナイフをしげしげと見つめていた。 「……おや、どこかで見たようなやつだと思ったら、あれによく似ているじゃないですか」  橘の屍体に突き刺さっていたナイフは参考品として厳重に保管してあるから、刑事は、まだその兇器を手にとってとっくり眺めていなかったのである。彼は当然のことながら、リリスのペンナイフに大きな興味を感じた。 「ええ、そりゃ似ているはずですわ、紗絽女ちゃんと一緒に買ったんですもの」  由木はだまってうなずくと鉛筆をテーブルにおいて、ナイフの刃を一つ一つひろげはじめた。ペンナイフ本来の目的は鵞《が》ペンをけずるためのものだが、このペンナイフはもっぱら装飾用となって、非実用的な超小型の耳かきや千枚通しや、のこぎり、ハサミなどの七つ道具がついている。単に兇器としてばかりでなくその構造がなかなか面白くて、由木は掌の上にころがして飽きずに見入っていた。プラスチックの柄《え》はクリームと紫のあざやかな雲形模様で、その一端にちかく、尼リリスの頭文字と思われるAがくっきりと刻みつけられてある。 「なかなかよく出来てるじゃないですか」 「南部のある鉄瓶工場が余技につくったんだそうです。ぼくも持っていますがね」  横あいから牧が口をだした。 「ほう、あなたも? どこでお買いになりました? なかなか可愛らしいナイフじゃないですか」 「むかし橘たちと四人で蔵王にスキーに行きまして、その帰りに盛岡へ廻ったんです。そこで見つけまして、記念に買ったんです。サービスにイニシャルを彫ってくれまして。ぼくのはグリーンで橘のは黒ですがね。つい先日まで持っていたんだけど……。どこでおとしたのかな」 「あのときはひどい雪だったのね。吹雪にふきこめられてとうとう一度もすべらずに、もっぱら宿屋で納豆汁をたべさせられたわ」 「蔵王というと、あの山形の……?」 「ええ。硫黄くさい温泉です」 「そうですか。わたしはスキーに興味がないもんだから行ったことがない」  刑事はそんなことをいいながら本題に入っていった。どの質問もいままでの復習のようなことばかりで、格別あたらしい発言もなく、係官の役に立つものはなかったとみえ、十五分のちに男女は自室へ帰ることを許されたのである。  牧もリリスもほっとした面持ちで廊下へ出た。     二  男女が出て行ったあと、警部はのっそり立ち上がって、胸に手をくむと、テーブルの周囲を重たい足取りで歩きはじめた。由木はあたらしいタバコに火をつけると深くそのけむりを吸いこんで、警部の動きをじっと見つめていた。  剣持は壁ぎわでくるりとこちらを向くと、なおも歩きつづけながら、ひくい声でつづけた。 「きみ、牧数人と尼リリスのいったことは本当だったね。あの農夫と会話していた以上、橘を殺しに行く余裕はないからな」  いかにも彼のいうとおり、牧にしろリリスにしろ、兇行現場まで往復することは不可能であった。その点、由木にも異存はない。 「両名のアリバイが成立すると、問題はあとの二人ということになりますな」 「そう、行武か安孫子の犯行だ」 「動機をしらべるために、東京へいかなくてはなりませんな。過去にさかのぼって調査をしないと——」 「いや、それは松平紗絽女殺しのときの話だよ。橘を殺したのは、発作的犯行であってもいいと思う」 「行武に、橘を発作的におそうわけがあるのですか」  肥満した警部は、ふたたび壁ぎわで向きをかえた。 「その前に、行武が紗絽女を殺せたかどうかをもう少し徹底的に検討してみよう。まだ毒の正体がはっきりしとらんのだし、ココアなり砂糖なりに毒が入れてあったかどうかも判っていないのだから、これを論じるのは少々早すぎるわけだ。だが、仮りに行武が犯人だとしてみると、投毒のチャンスは非常に限定されてくる。紗絽女が自分で調理したココアを飲むまでのあいだ、肝心の行武はそれに一指もふれておらんのだから、こいつに毒を入れるということは不可能だ」 「その通りです」 「すると調理される以前の砂糖もしくは粉末ココアにあらかじめ投毒しておいたということになるだろう。あるいはもう一歩すすめて、紗絽女の飲むカップに前もって毒をぬっておいたとも考えられるけれど、仮りにそうだとしてもだな、五つのカップはどれもおなじ形をしているんだから区別がつかない。そのカップが果して目ざす紗絽女のところに行くかどうか、確率は五分の一という小さなものなんだ、行武がそれに期待をかけていたとは思われん」  刑事はうなずいてみせた。 「かといってだね、粉末ココアか砂糖に毒物を混入しておいたとするならば、おなじ材料を用いてこしらえた飲料をのまされた尼リリスも当然やられなくちゃならんわけだ。しかるに、リリスがあのとおりけろりとしているのをみると、材料に毒が入れてあったとみる考え方は否定されざるを得ない。つまるところ行武は犯人ではないということになるんだ」 「そういうことになりますね」  合槌《あいづち》はうったものの、由木は簡単に行武犯人説を捨てる気にはなれなかった。蒼白く、神経質らしく見えながら存外に小意地のわるいこの髪のながい男に、最初から彼は好感がもてなかったのである。 「どうもこの尼リリスという名前は悪ふざけだね、口にするたびに馬鹿にされたみたいで不快な気持になるよ」  大柄の警部は顔をしかめて由木の横を歩きながら、相手の発言を押えていった。 「こうした点から考えても、行武犯人説は困難を感じるね。しかるに安孫子となると紗絽女にココア茶碗をとってやったのだから、その際にすばやく投毒することもできるんだ。前にもいったようにスポイトかなにかを利用してね」  剣持警部は百キロちかい巨体をもてあましたように、どさりと由木の前に腰をおろすと、タバコにマッチで点火して、火のついた軸木をじっと見つめていた。 「そんなわけで犯行の機会のない行武はオミットされる。したがって、つづいて起った第三の事件の犯人もまた、安孫子だということになるのだ。ところでこの橘秋夫という男は、安孫子の目の前で油揚をさらっていった。松平紗絽女という油揚をね。だから安孫子にとって橘はにくむべきライバルなんだよ。世の中に喰い物と恋の恨みほど強烈なものはないからね」  しかし由木は小首をかしげて、すぐに納得しない。 「そりゃね、わたしも安孫子をあやしいと思います。しかし屍体があった地点はあけっぴろげに対岸からよく見える場所なんですよ。安孫子が兇行している時分に、向かい側の崖の上には橘の姿をさがして行武が目を皿のようにしてうろついているんです。そうした、これ見よがしの場所で殺人をやるとは考えられんですな。それにひきかえ行武がやったとなると、条件はぐっとよくなります。いまの場合とちがって、兇行場所は崖の真下です、いわば死角になって安孫子の目にふれずにすむから、悠々と仕事ができたにちがいないんです。川を越すにしても、三段跳の要領でいけばいいんですからね。あの飛び石がなければともかく、ああした岩が存在する以上、彼の容疑は動かせませんよ」 「だがね由木君、安孫子だって犯行は可能なんだよ。彼の兇行が対岸の行武から目撃されるという心配もあるけれど、やり方によっては行武の目にふれずにすむことだってある」 「といわれますと?」 「具体的に述べるとこうだ。橘の姿をみつけた安孫子はだね、崖をおりると冗談かなにかをいいながらその背後にちかづく。そして相手を油断させておいて、いきなり後頭部を撲《なぐ》るんだ。頭のうしろに打撲傷のあったことは医者が指摘しただろう?」 「ええ」 「昏倒《こんとう》するのを見すましてあわてて崖をのぼって姿をかくすと、気絶した橘の姿を、行武が発見してくれるのを待っていたんだ。最初は行武も見おとして通りすぎたが、二度目にはうまく見つけてくれた。だからあのときの橘は、まだ生きていたのさ、単に気絶していたにすぎん。犯人である安孫子は、行武をりら荘へ報告に走らせたあとで、悠然とぬすんできたナイフで延髄を刺したんだ。狙いを充分さだめておいてね。ペンナイフを持っていたから延髄を刺したのか、延髄を刺すためにペンナイフを持っていたのか、その点は本人に訊いてみなくてはわからんが、それにしても、ペンナイフで延髄を刺すというのはあまり例がないな」 「そう、たしかに変った殺し方ですな。しかしわたしが疑問に思うのは殺害手段が奇妙だということよりもです、再三いうように、犯人が殺人のたびにカードを遺留していく理由ですね」  剣持は「そうだな」といったきり、黙ってピースをホルダーにさし込んでいた。 「……犯人がだれであるにせよ、こいつはちょっと説明をつけるのに困難な問題だな。だが疑問はまだほかにもある。なぜ兇器としてペンナイフをえらんだかということだ。これが拳銃だとかドスというものならば、そうした疑念はおこらんのだがね」 「ですが剣持さん、相手は犯罪常習者じゃないんです。素人なんですよ。だからドスやパチンコを持っているはずはないでしょう。手近にあった刃物を、つまりこのテーブルの上にのせ忘れてあったペンナイフを利用する気になったのは、べつになんのふしぎもないと思いますね」  由木はテーブルを手でたたいていった。しかし剣持は強情にくびを振った。 「そうは考えられん。兇器はなにもペンナイフだけじゃないんだ。台所へゆけば出刃庖丁だってある。また、延髄を刺さなくとも、ほかにいくらも方法はあるはずだ。橘をころす際に、犯人が後頭部を一撃したのち、昏倒したすきに延髄を刺した点を思いだしてみたまえ。なにも、わざわざペンナイフを使わなくともだね、も少し力をこめてなぐれば撲殺できたんだよ。気絶しているやつを扼殺することだってできる。ナイフを用いる必要は少しもない。それなのになぜわざわざペンナイフを用いたんだい? 変だと思わないかい?」  いわれてみると尤もなことなので、由木は反論することができずに黙っていた。警部はなおもつづけた。 「そこで話は、スペードのカードをなぜ残していくかということになるんだけれど、これまた犯人の見栄なんぞじゃなくて、なにかわれわれに計り知れない、そうせざるを得ぬぎりぎりの理由があるんじゃなかろうかという気がするんだ。ペンナイフを兇器として用いたと同様の、われわれには想像もつかぬ理由がね」  テラスの網戸にとまった二匹の蛾が、しきりにはばたいて鱗粉をとびちらせるのを見つめながら、由木は重々しくうなずいた。二人の会話がとぎれると、りら荘全体が沈黙のそこに沈んでしまう。階上にひきとっている学生たちは精神的な打撃が大きかったためか、ひっそりとしていた。  刑事はあたらしいタバコをとりだすと、火をつけるでもなく指にはさんでしばらくもてあそんでいたが、語調を変えて語りだした。 「……なにもあなたの安孫子犯人説に反対するわけじゃありませんけどね、一歩ゆずって彼が犯人だとすると、少々納得ゆかぬ点があるんですよ。紗絽女がやられたときのことを思いだしてみて下さい。あの安孫子という男は、炭焼きを殺した犯人が紗絽女であり得るという見解を極力主張していたでしょう」 「そう、覚えているよ」  と、彼は大きな頭をふってうなずいた。  安孫子が述べた説はこうだった。霧のなかを紗絽女と橘とがつれだって散歩に出かける。その途中でレインコートをかぶった炭焼きを目撃した彼女は、てっきり尼リリスが歩いていくものと思い違いをして、これをつき落したというのである。そして、絞首台のまぼろしに怯えて自殺した……。 「第一、第二の事件を通じてきわめて不利な地位に立たされていた安孫子としてはですね、紗絽女を犯人にしてしまうと非常に好都合なわけですから、彼のいうこともあながち筋のとおらぬものでもなかったんです」  剣持は黙ったまま話の先をうながした。由木刑事は相手に納得させるようにゆっくりとつづけた。 「安孫子は、紗絽女の死が自殺なのだと主張していましたね。事実、自殺説を否定する材料はない。ですから、第二の事件の段階では安孫子の立場は有利となっているはずですよ。ところが、松平紗絽女はすでに死んでいるにもかかわらず、続いて第三の殺人がおきた。となると、この連続殺人犯人は紗絽女ではあり得なくなる。いいかえれば、第一の事件の犯人も紗絽女ではなかったということになります。紗絽女を犯人だと主張している安孫子の立場は、ここでぐらついてしまうんです。わたしがいいたいのはこの点ですよ。紗絽女犯人説を唱えて自分が潔白であることの依り所としていた安孫子ですよ、彼女を殺すわけがないではないですか。求めて自らを危地にさらすようなまねをするとは考えられないからです」 「……常識の逆をつくというやり方もある」  ややあって剣持がいった。なるほどそうした考え方もあるわいと由木刑事は思いながらも、警部の返答になにか負け惜しみに似た調子のあることに気づいた。だから彼は、ますます行武犯人説に固執《こしつ》したくなった。 「……しかしわたしが思うに……」  といいかけたとき扉がはげしくたたかれて、返事をするひまもなく乱暴に押しあけられた。剣持はいつもの鈍い表情にかえり、由木がきっとした視線を闖入者《ちんにゆうしや》の上にあびせかけた。  万平が入浴したばかりであることは、体から発散する石鹸のにおいでわかった。しかし彼の剃刀《かみそり》をあてた頬は血の気をうしなって、まるで寒風にふきさらされたように蒼白だった。 「き、きみ、どうしたんだ、おや、そのカードは?」  由木は思わず声を高めて、ひったくるように万平の手からカードを取った。 「おっ。こりゃスペードの4じゃないか。どうしたというんだ、え?」  彼は噛みつかんばかりの剣幕でどなり、呆然とつっ立っている万平の両肩に手をかけると、邪慳《じやけん》にこれをゆすぶった。     三  お花さんの頸にはタオルが喰いこみ、うしろで固く結ばれている。懐中電灯の光に照しだされたお花さんは、見るも無残な姿だった。鬱血《うつけつ》してふくれ上った顔に、かっと目を剥《む》き、右の鼻孔から鮮かな赤い血が頬をつたってながれて、小さくあいた口から黒ずんだ舌がのぞいていた。  剣持警部はそれまでかぶっていた鈍重なマスクをかなぐりすてると、てきぱきした口調で裁《た》ち鋏《ばさみ》を持って来させ、タオルを喉のところで切断するとただちに人工呼吸をはじめたが、その試みが効果をあげそうにないことは最初からよくわかっていた。 「園田さん、気をしっかり持つんだ。いいかね、このタオルをよく見て。だれの品かおぼえはないかね?」  由木は屍体の頸からはずしたタオルを万平の鼻先につきつけた。だが彼は魂がぬけたようにぼんやりして、聞こえるのか聞こえないのか返事をしない。ガラスのように固い光りをたたえた目玉は、まばたきすることも忘れ、ただうつろにお花さんの屍体を眺めていた。  やがて万平のひからびた唇がかすかに動きはじめた。由木刑事は耳をつきだしてどなった。 「え? もっと大きな声で! なに? 手洗いのタオルだって? トイレットのタオルだというんだね?」  一声うなると建物のなかに駆けこんだ。  ふだん万平夫婦は裏口から出入りしていたが、学生たちが滞在するときには東の本玄関とともに、北向の内玄関も開放してある。本玄関にくらべると内玄関は間口も奥行もせまいのは当然だが、それだけ格式ぶらない点が若いものには気に入って、いまもサンダルが五、六足ならべてある。先日、リリスのレインコートを盗んだ炭焼きもこの内玄関からなかに忍びこんだものと考えられていたのだが、それはともかく、こうした建物の構造を考えてみると、階段をおりてきた犯人は途中トイレットに寄ってタオルをはずして手にもち、内玄関をでたところでお花さんを絞殺したことが想像できるのだ。  由木はトイレットの厚い扉を押して、なかに入った。天井の高い、白タイルばりの清潔な感じの化粧室で、左手に冷水と温水の蛇口がならんだ手洗いがあり、その右壁にタオルかけの金属棒がとりつけてあった。  いままでの例をみてもわかるが、この犯人はなかなか頭のいいやつに違いない、と由木は思う。タオルを用いれば指紋のつく心配はないし、音もたたなければ血も流れない。まことに恰好の兇器といえるのだった。  北の窓には金網がはめてあり、お花さんの屍体はその下のあたりに横たわっているわけだ。窓をとおして剣持警部が哀れな亭主をなぐさめ、なだめ、そして辛抱づよい質問をくり返している声が聞こえてくる。  由木はもう一度内部をぐるりと一瞥《いちべつ》したのち、外にでた。 「……きみ、われわれはお花さんの仇をとってやろうというんだ。ぼくの質問にしっかり答えてくれなくちゃいかんよ」  剣持は万平の肩をたたきながら、なんとか返答をひきだそうとしていた。 「では、お花さんが会うといっていた相手はだれだね?」 「——知らねえ……」  と、万平はぽつりと呟いた。 「知らないじゃ困るな。なんの用件で会うといっていたかね?」 「——おら、知らねえ……。訊いても返事をしなかっただから……」  なおも剣持が叱ったり励ましたりした結果、万平もようやく落着きをとりもどしたらしく、当時、夫婦のあいだでとり交わされた会話を思いだして、ぽつりぽつりと語りはじめた。 「……弱ったね、どうも」  と、剣持は腕をくんでため息をもらしていたが、刑事の姿に気がついたようにそちらを見た。 「由木君、さっきお花さんがわれわれになにか話しかけたいそぶりだったろう? あれを聞いといてやりゃよかったんだよ。忙しかったもんだから、ぼくもきみも耳をかたむけなかった。だからお花さんは、直接相手と対決してその疑問を解こうとしたんだ」 「しかし無謀ですな、殺人犯と対決するなんて……」 「いや、彼女はその相手を犯人とまで見抜いていなかったのかもしれん。ともかくお花さんが不審を感じていたものがなんであるか、それがわかってくれると助かるんだがね」  すると係官の話をきいていた万平が急になにかを思いついたとみえ、屍体の横にひざまずくと、お花さんの簡単服のポケットをさぐりはじめた。 「思いだしたぞ……、お花のやつが大切そうに持っていた紙切れのことを……」 「なに、紙切れ?」 「インクで書いた小さな紙切れだ……」  万平の骨太の指が憑《つ》かれたように、ポケットのなかをさぐった。刑事の懐中電灯が指先を照射する。だが出てきたものはチリ紙と広告マッチだけで、求める紙片はなかった。 「……おかしいぞ、どうしただかな。ポケットから大事そうにとりだして眺めとったけんどなあ……」  万平は小首をかしげていった。由木の懐中電灯が屍体の周囲のくさむらを照射したが、紙片らしいものはどこにもおちていない。  となると犯人が奪って逃げたとしか考えられないのである。剣持警部も由木刑事も、そのメモらしきものに大きな興味を感じぬわけにはゆかなかった。 「なにが書いてあった?」 「……おら知らねえです。お花がまるで証文みたいに大切そうにしているのを見ただけだ」  暗い闇のなかで剣持は顔をしかめ舌打ちをした。肝心《かんじん》のことになると、こののろまな亭主はなんの役にも立たないのである。 「由木君。きみ、派出所までひと走りして本署に連絡をとってくれ。ぼくは屍体を監視している」  りら荘の電話は故障したまま放置されているから、不便きわまりない。警部にはそれも癪《しやく》のたねだった。  十五分ほどして、由木が駐在巡査をともなって帰ってくると、意外にも警部はにこにこして立っている。そして屍体の監視を巡査にまかせると由木をよんで、耳に口をよせた。なまぬるい息が顔をなで、由木はちょっと不快な感じがした。 「おい、メモが見つかったぞ」 「万平がさがしていた紙片のことですか」 「そう。ひょっとするとお花さんがどこかにしまっておいたかもしれないと思って、机のひきだしやなにかを調べてもらったのさ。そしたら箪笥のなかから見つけだしてくれたよ。そら、これだ」  剣持は手にもった紙片を、懐中電灯のあかりで照してみせた。メモ帳からひきちぎった一枚の紙に、お花さんの筆蹟と思われる稚拙《ちせつ》なペンで六桁《けた》の数字がならべられてある。 「たしかにこの紙片なんですか」 「そう、緑色のインクで書いてあるから見覚えがあるというんだ。万平のところにはブルーブラックのインクしかないからね。259789…… なんだろう。この数字は?」  剣持はわけがわからなそうだ。この変哲もない数字から、お花さんはいかなる秘密をつかんだのであろうか。  だがそのメモをちらっと見た瞬間に、由木刑事は思わずどもって叫んだのである。 「け、警部さん、あなたはご存じないかも知れないけど、わたしには思い当ることがあるんです!」 「なに?」  と警部の声も興奮したように高くなった。  八 暑い街で     一  緑色のインクを使うものはめったにない。だから由木もよく記憶していたのだった。 「あの尼リリスという女性が持っている万年筆、そいつが緑のインクなんです」  例の炭焼きの屍体のかたわらに、彼女のレインコートがおちていた。そのコートのポケットに万年筆が入っており、それを由木は、回数券の綴りや紙幣とともに彼女に還《かえ》してやったことがあるのだ。だが、当時まだ事件にタッチしていなかった剣持警部は、そうしたことを知るはずがないのであった。 「するとこのメモの字は、尼リリスのペンで書いたというんだね? それじゃ早速彼女にあってみる必要がある」  彼らは肩をならべて、内玄関からトイレの前をとおって二階に上った。廊下の両側に胡桃色《くるみいろ》のドアがピタリととじられていて、なんの話声も物音ももれてくることなく、しずまりかえっている。  右手、つまり北側の扉のそばには手前から、松平紗絽女、尼リリス、日高鉄子の順に名札がはってあり、紗絽女が殺され鉄子が不在ないま、尼リリスは左右を空部屋にはさまれている形であった。そのリリスのドアを由木の拳が軽くノックする。  ことりと音がしてリリスの怯えた顔がのぞいた。 「お邪魔します。あなたにちょっと見て頂きたいものがありましてね」  尼は由木の言葉をうわのそらで聞きながして返事もせずに、ふるえる声でべつのことを訊ねた。 「また何かあったのじゃありません?」 「ええ、ちょっと面倒なことがね」  と由木は、このおどおどした肥った女の大きく盛り上った胸のあたりに視線をくれながら答えた。部屋の窓は金網がはってあるだけだから、すぐその外側の地上で騒いでいた警察官の声は、リリスの耳に筒抜けに聞こえるはずであった。 「……だれか……殺されましたの?」 「ええ、そのことについて至急伺いたいことがありましてね」  彼女は身をよけて両名をなかにとおすと、そっと扉をしめ、それを背中にして立ちつくしていた。 「恐しいことばかり起りますわ。あたし今夜にも家に帰ってしまいたい……」  床の上になげていた視線を由木にむけると、質問をうながした。 「で、お話とおっしゃるのは?」 「あなたは緑色のインクの万年筆をお持ちでしたね」 「ええ」 「この寮のなかで、あなたのほかに緑インクを使っておいでの人はいませんか」  尼リリスは、なぜインクのことを訊ねられるのか納得ゆきかねるといった面持ちで首をふった。 「あたしだけだと思いますわ。そのインクがどうかしましたの?」  由木はその質問には答えずに、例のメモをとりだして見せた。 「この文字に覚えはありませんかね?」 「さあ、知りませんわ」 「あなたの万年筆で書いたものだと思いますがね」 「でもこれ、あたくしの字じゃありませんわよ!」  おびえてはいるけれども、自尊心を傷つけられるときっとなるだけの余裕はあるらしく、金釘流の文字を自分の筆蹟だと思われるのは心外きわまるといった表情をした。 「いいえ、あなたの字でないことはわかってますがね、だれかにペンを貸した記憶はないですか」  そう訊かれて、はっとなにかを思いだしたらしく、大きな眸が急にかがやいたようだった。 「ああ、お花さんに貸したことがありましたわ。これ、あの人の字じゃありません?」 「そう、万平老人もお花さんの筆蹟《て》であることは認めているんですがね……」 「まあ、やはり……」  と彼女は目を丸くして、ふたたび怯えた表情に返った。 「なにがやはりです?」 「殺されたのはお花さんなのでしょ? みなさんの話し声を聞いて、あの人が殺されたのじゃあるまいかという気がしたんですけど……」  由木はうなずいて、お花さんがなにかの理由でこのメモをひどく重大視していたことを語ってきかせた。 「お花さんの言動から察するところ、これは今度の連続殺人に関係のあるものじゃないかと思うんですよ。いや単に関係があるといった程度のものじゃなくて、事件の謎を解くに足るカギになるのではないか。いいかえれば犯人がだれであるか指摘するほどの重要な意味が、この六桁の数字のなかにひそんでいるのじゃあるまいかと考えているんです」  リリスは黙って耳を傾けている。 「一見他愛のないメモですけれどもね。だから、われわれとしてはお花さんがどういう事情のもとにこの数字を筆記する必要があったのか、それを知りたいと思うんです。数字の意味そのものがずばりと判ればそれにこしたことはありませんがね」  彼の気負った話をいちいちうなずいて聞いていたリリスは、自分もまたひどく興奮した表情で息をはずませた。 「あのときのこと、思い出しましたわ」 「話して下さい、なるべく詳しく!」 「そうね。あたしたちがここに着いた晩のことだから、二十日の十時ごろじゃなかったかしら、亡くなった橘さんと紗絽女ちゃんの婚約を発表して、みなさんが騒いだのちのことですわ」  両人の婚約が発表されたあと、安孫子宏と日高鉄子はしばらくその場にいたが、やがて自室に上ってしまい、行武は夜の庭を散歩するといって、外にでた。それから一時間ちかく紗絽女たちは笑いさざめいたのち、それぞれ寝室に入って、食堂には尼リリス一人がのこっていた。酒宴のあと始末をするためである。彼女はワイングラスを洗い水気をきると酒瓶ともども棚の上にのせた。  すると食卓を片づけていたお花さんが、なにかを思いだしたとみえ、だしぬけに「お嬢さん、ペンをお持ちじゃございませんか?」と訊いたというのだ。 「あるかもしれないわ、ちょっと待っててね」  尼リリスは服のポケットをさぐるとペンをだしてお花さんにわたした。お花さんは礼を述べ、そのペンでポケットからとりだしたメモになにかしたためて、すぐに返してよこした。 「あら、もういいの?」 「はい、ほんの心覚えですから。こうしておかないとすぐ忘れるんですよ」  お花さんはそういってメモを割烹着のポケットにおしこんだあと、なにかを思いついたという表情をまるい顔にうかべ、こう訊いたという。 「ねえお嬢さん、二五という局番はどこでしたでしょう」  前にも述べたとおり彼女は以前東京にいたことがあるから東京弁を上手に喋るし、東京の電話がどのようなものであるか知っていたわけである。しかし、なにぶん急に訊ねられたために、リリスは即座に返事ができなかった。 「局番って、電話の?」 「はあ、さようでございますよ」  しかしこの辺の局番をリリスが知るはずもないから、お花さんが訊ねているのは東京の電話のことであろうと気がついた。 「お花さんがいってるのは、東京の局番のこと?」 「ええ、そうなんですの。あたしせっかちなもんですから、この調子でいつも独り合点なことをいって主人を困らせるんですわ」  お花さんはそう笑ったのち、二五という局番がどこであるかと、改めてもう一度たずねた。しかしリリスにしても、東京の数十局ある電話局の番号を記憶しているわけもないから、即答しかねた。 「ちょっと待っててね。玉川じゃないし、青山じゃないし……」  玉川は学校のあるところだし、青山には自宅があるから、この二つは知っているわけだ。 「ええと……、日本橋じゃないし和田倉でもない……。あ、思い出したわ、二五番は神田局よ。お友達のお家があるんですもの、間違いないわ」 「まあ、神田局ですの、まあ……」  お花さんはひどく意外そうな表情で壁を見つめていたが、やがて番茶茶碗とどびんをのせた盆を持つと、礼を述べて炊事場へさがっていったという……。 「神田局……?」  尼リリスの話がおわると、由木は思わずそうつぶやいてメモを見た。なるほど259789としてある。するとこの六桁の数字は電話番号で、神田の九七八九番ということになるのだ。謎の数字の正体が電話番号だと判明したとたん、由木も、そして剣持警部も拍子ぬけのしたような、ばかばかしい気持になった。こうした問題は緒《いとぐち》さえつかめれば、あとは比較的楽にすらすらとほどけるはずである。だから由木もほっとした口調になった。 「や、お蔭さまではっきりしました。ではおやすみになって下さい」 「あのう」  と彼女は追いかぶせるように、肥った頸をかしげて嘆願した。 「あたし、お家へ帰ってはいけないでしょうか」 「いや、そいつは少々我慢して頂きたいですな。あなたは事件の重要な参考人ですからね、ここにみなさんご一緒に滞在していて頂くと、われわれとしても非常に便利なわけですよ」 「そりゃそうでしょうけど、りら荘にいるかぎり、いつ命を狙われるかわかりませんわ」 「大丈夫、これ以上殺人は起させませんよ。ことに今度はこうした重要な手がかりをつかんでいるんですからね、明日になれば事件も解決するはずです」  リリスはなおもおびえた表情のままでいる。 「いや大丈夫。これ以上事件が発展することはありません。しかしドアの鍵だけはかけておいて下さいよ」  なおも心配そうな表情のリリスをのこして剣持と由木は廊下にでると、階段をおりて食堂の前をとおり、管理人の居間をおとずれた。六畳の部屋のまんなかに丸い卓をおいて、その向うで万平がぼんやり頬杖をついていた。お花さんのメモを探すときに引きぬかれた箪笥のひきだしが、そのままたたみの上に放りだされてある。後かたづけする気も起きないらしい。 「万平さん」 「……へえ」  といったきり顔を上げようともしない。 「先刻のメモに書いてある数字だが、あれが電話番号だということがわかったんだ。東京の神田局九七八九番というんだがね、あんたそれについて心当りないかな?」 「知らねえです」 「きみ、こいつは重大な問題なんだよ。お花さんがあれほど興味をもって、そのため命を失ったくらいの重大な問題なんだ。興味をもったといってはまずいが、つまりその、犯人の正体を暴露するための重要な手がかりなんだからね。じっくり考えてもらいたいのだ」  由木刑事から説きつけられて、万平もその気になったのか顔を上げると、節くれだった手をのばして紙片をうけとり、しばらく数字をながめていた。だが、やがて首をふると、溜息をついた。 「わからねえ。知らねえです……」 「お花さんは東京へ電話をかけることがあったかね?」 「たまにはあったです。藤沢の旦那が生きておいでの時分にゃ藤沢の旦那と、旦那が亡くなってからはこの家の持主の学校の事務所と、ときどき電話で話をすることがあったです。わたしは言葉がこんなだから他人と話をするのは面倒くせえ。だけど、お花は喋ることが好きだったから、電話はいつもあれがかけた……」  管理人の細君だから持主としばしば電話で話をし、いろいろな指図をうけたり報告をしたりすることは当然あったわけである。電話をかけ慣れている彼女のことだから、あの番号をメモしておいたのも、後日ひまをみてダイヤルを廻すつもりだったかもしれぬ。  だが警部と由木が同時に考えていたことは、お花さんがこの電話番号をどこから入手したのであろうかという点である。メモをしないと忘れるからといって尼リリスのペンを借りたことを思えば、あの電話番号をお花さんが入手したのは——入手したという言葉は訝《おか》しいけれども、見たか聞いたかして知ったものにちがいない——その直前であったろうと考えられる。  では当時彼女の周辺にいたものはだれか。まず尼リリスがいた。その少し前まで牧数人、橘秋夫、松平紗絽女といった仲好しの連中がいた。さらに散歩にでる前の行武栄一がいた。自室に引込む前の安孫子宏もいたし、目下東京に帰っている日高鉄子もいた。ということは、のちに死んだ紗絽女や橘もいたし、亭主である園山万平も台所の近くでまごまごしていたはずだ。お花さんが電話番号を知ったみなもとは、とにかくこの全員のなかにいると思わねばならない。一体、情報源は誰だろうか。 「剣持さん、二階の連中に訊いてみようじゃないですか」 「ああ、それがよかろう。しかし、犯人がすらすら答えるはずもないし、あとの学生も臍の曲った人間ばかりだから、期待はもてんね」   *作者註 東京都の局番は一九六〇年二月以降三桁になった。二五番は二五一番に変更されたのである。したがってこの事件は、それ以前の出来事だということになる。     二  翌る八月二十三日、由木刑事は浦和の地方検事局からやって来た検事の一行でごった返すりら荘をあとにして、東上線の急行で池袋にむかった。三ヵ月ぶりの出京だが、その度に、よくもまあこれだけの人間がいるものだと感心するのである。感心するよりも呆れる。ふしぎな気がする。これだけいるのを見ると住宅不足も当然だし、就職口がないのも当り前のような気がする。政治の貧困さをつくよりも、だれが政権をとってみたところでとうてい満足すべき解決をつけることは不可能だというデスパレートな暗い気持になってくるのだった。だが一人一人の顔を見廻してみると、どれもこれものんびりしていて、絶望的な表情のものは一向に存在しない。都会人はおそらく不感症になっているに違いなく、するとやはりおれは田舎者なのだわいと、つまらぬことに感心した。  省線電車を神田で降りて、司町《つかさちよう》の神田電話局をたずね、まず九七八九番に加入しているものがだれであるかを調べてもらう予定だった。局のカードを見れば簡単にわかることであるけれども、電話番号の加入者がだれであるかを洩らすことは法律で禁じられており、実際は決して安直にわかることはない。素人が知ろうとするならば、まずあの部厚い電話帳を第一頁の第一行第一段からチェックしていくより他に方法のないことである。  由木が身分証明書を提示して、正当な手続をふんだのち知らされた加入者は、神田練塀町一六〇番地、若尾ビル内の鋼鉄商『テン商事』という会社であった。彼はいささか意外な感じにうたれながらエレベーターで地上におり、電車道路へでた。鋼鉄商というなにか硬い感じの会社と、りら荘のなかでなにくわぬ顔で仮面をかぶりつづけている犯人とのあいだに、一体どのような結びつきがあるのか、想像するに困難だったからである。  昨夜、あれから牧数人たち三人の大学生を訪ねて例の数字について訊いてみたが、予期したとおりだれもかれも判でおしたように知らぬ存ぜぬの返事をした。だから由木は、直接電話加入者にあたってことをはっきりさせたく思って上京したのであった。  電車通りにでた由木は、ふと迷った表情になった。省線と都電と地下鉄とバスとがならんで走っているが、どれに乗っても二停留所の行程である。結局ぶらりと歩くことにして、二十分のちに練塀町についた。そこはそのむかし、歌舞伎狂言で知られた河内山宗俊という悪党坊主が住んでいたところなのだ。  若尾ビルは大通りから少し入ったところにあって青灰色の壁が美しく、右手二階のあけはなたれた窓ガラスに大きな金文字で『テン商事』と書かれてあった。  五分の後、由木は客間に集まった十八名の社員と社長を前にして、事件のあらましを説明し、協力を要請していた。執務時間の最中なので、できるだけ簡潔に要領よくやらなくてはならない。 「わたしのお訊きすることに対してイエスかノーだけお答え願います。時間を節約するためにそうしたほうがよろしいでしょう」  興味と期待のいりまじった視線の集中するなかで、由木ははっきりした口調で訊ねはじめた。 「まず、園田花さんという女性についてお訊きします。この婦人はりら荘の管理人の細君ですが、ご存じのかたはありませんか。べつに親しくなくともよいのですよ、顔を見たことがある程度でも結構です。ありませんな? ではつぎ……」  彼はこうしたやり方で、用意してきた大学生たちのスナップを一同の前に見せながら、一同のなかに彼らを知っているものはないかと質問してみた。だがまるで反応がない。これには由木も失望したし、一方また集まってきた社員たちも、小説でも読むようなスリリングな場面を期待していたとみえ、明らかにがっかりした顔を見せるのだった。  つづいて三つ四つするどい質問を追加したのち、すべての努力がむだに終ったことがわかると、いさぎよく礼を述べて社員に引きとってもらった。 「せっかくお出でになったのにお気の毒でしたな」  と、白髪頭を丸く刈り込んだ社長がめがねの奥の柔和な眸で笑いかけた。 「いいえ、捜査というのはこうしたことが多いものですよ。足を棒にしてあちらこちらを歩いても、滅多に収穫はありませんからね」  由木はそう答えてタバコに火をつけた。事実そのとおりにちがいなかったが、今度の場合は大きな希望を抱いていただけに落胆もひどく、だからこの返答は負け惜しみでもあったのである。  だが考えてみるとふしぎでならない。由木は神田の電話局で、この加入者が過去七年間おなじ番号を使っていることを確かめた。だからお花さんがメモした場合の相手はこの『テン商事』以外にあると思われないのだ。あのメモに記された二五の九七八九という番号はお花さんにどんな秘密を囁いたのであろうか。そしてそれが犯人にとってどのようなわけで致命的な意味をもっていたのであろうか。由木は専門家である。素人のお花さんが気づくことのできた秘密ならば、彼にも見抜けなければならぬはずだ。しかも彼は出京して当の加入者に会っていながら、その謎にふれることができないのだ。 『テン商事』をでるとふたたび電話局にもどり、『テン商事』の以前にその番号を使っていた加入者をしらべてもらって、念のためにそこも当ってみた。それはニコライ堂の下にある耳鼻科の医院で、老院長は細い毛筆でドイツ語をカルテに書きこみながら、『テン商事』とまったく同じような返答をするのであった。  街路樹が濃い葉の影をおとしているペーヴメントを、由木は扇子を片手にしょんぼり御茶ノ水の駅の方向に歩いた。りら荘とちがって東京は焙《あ》ぶられるようにあつく、その暑さは調査に失敗した由木にはひとしおきびしく感じられるようであった。喫茶店の前をとおるときアイスクリームをなめたい誘惑をおぼえたが、辛うじて我慢した。調査がうまくいっていたら大ジョッキの生ビールでひとり祝盃を上げるつもりで出かけてきたのだし、『テン商事』をたずねるまでは呑めるものと信じて疑わなかったのだ。だがすべてが徒労に終ったいまは、クリーム一杯なめることすらしたくなかった。見えざる犯人に対して、由木には由木なりの意地がある。事件を解決するまではクリームもビールも手にとるまい。彼はそう誓うことによって自らを元気づけるのだった。  近くの郵便局に行って秩父署に電話をかけ、待っている署長に結果を報告した。署長はがっかりしながらも彼の労をねぎらってくれ、由木はそれで多少気が軽くなった。そして御茶ノ水から中央線にのるとふたたび池袋へ向ったのである。すずしい埼玉県に帰れるのがうれしかった。朝のうちはそれほどでもなかったけれど、日中のこの暑い東京はもう真っ平だった。  りら荘に帰りついたのは夕刻である。明日の晴天を約束するようにりら荘は茜《あかね》色にそめられて、連続殺人が起った不吉な場所とは思われぬ荘重な建物に見えた。しかし門の前にならんで停車している警察の車をみると、たちまち陰惨な空気が身にしみ、門を入ってりら荘に近づくにつれ、その空気はますます濃くなるように感じた。  剣持警部は玄関まででてきて労苦を謝してくれた。  二人はそろって応接間に入り、向い合って腰をおろした。 「話は署長から聞いたよ。電話が通じたからね」 「そうですか、それなら直接こちらにかけるんでしたよ」 「電話局にいって急いでやってもらったんだ」  わずか十時間たらず留守にしただけなのに、由木はなんだか長い旅でもして帰ってきたような気がする。 「ずいぶん変った出来事があったよ。つい先程までいた検事の一行が徹底的な調査をやった。炭焼きがつきおとされた崖を検証したり、獅子ケ岩まで出かけたりね。そうかと思うと、一方では解剖の結果が報告されるし、屍体も帰ってくる。お花さんをふくめて三体だからね、こちらはてんてこまいさ。いまドライアイスをつめてそれぞれの場所に安置してあるが、通夜をして明日は火葬場に送るんだ。橘、松平の両名にしても、こうした田舎の火葬場で焼かれるとは思わなかったろう。彼らもし語るを得れば、どんな感慨をもらすことだろうな」  と、剣持警部はいかつい顔に似ずに、感傷的なことをいった。 「わたしはそれよりも、犯人がだれであるか語ってもらいたいですな」 「きみはリアリストだ」 「暑い東京でへこたれてきたんですから、仕方ないですよ」 「はは、無理もない。ところでね、新顔のお客さんが来ているよ。一人は絵具を買いに帰っていたという画学生の日高鉄子だ」 「戻ってきましたか」 「ああ、だがこれもひと癖ありそうな女だね。さいわい事件が発生しているときは留守だったからよかったようなものの、ここにいたらだ、われわれとしても面倒な思いをしなくてはならなかったろうよ。女傑だし、また動機もあるんだからね」 「女傑ってどういう意味です?」  と由木は反問した。彼もまだ日高には会ったことがない。 「会えばわかるさ。それから連れの客というのがまた妙なやつだ」 「ははあ、そんなに不美人ですか」 「女じゃないよ、男なんだ。芸術大学がまだ統合する前に洋画科を卒業したとかいっておったから、りら荘に遊びにくる資格は十分あるわけさ。はるばる東京から来たものをすげなく追いかえすわけにもいかんし、仕方がないから、捜査の邪魔をしないことを条件にして滞在することを大目にみたんだが、やっこさんパリに留学したことが自慢でね、モンマルトルがどうの凱旋門《がいせんもん》がどうのと、うるさくて仕様がない。好かんね、ああしたタイプの男は」 「ほう、よほど変物とみえますな」 「いやな性格だね。ああしたいやな性格でいて、よく自分で自分がいやにならんものだと感心してるんだよ」 「そりゃそうでしょうよ。わたしは毛虫嫌いなんですが、われわれから見ると醜悪きわまる毛虫だって、当人同士は結構満足しているんじゃないですか。そして、だれさんがあたしにウインクしたわ、なんて騒いでいるのかもしれませんぜ」 「しかしね、毛虫は美しい蝶になるからまだいい。例えるならばまあムカデかゲジゲジだね。ぼくはゲジゲジを見るたびに、こいつに美的感覚があるならばさぞ自分がいやになることだろうと思って、妙な気持になるんだよ。しかし恐らくそうした神経は持っていまい。だから彼らのあいだには恋もあるし卵も生れる、というわけだ。あの男も、この意味でゲジゲジとおなじかもしれん」  あんまり人を批判したことのない剣持がそういうのだから、よほど虫の好かぬ人物だとみえる。 「そうそう、忘れていたが解剖の報告をみせよう。お花さんはタオルで絞殺されただけで問題はない。橘は後頭部をなぐられているが、あれはやはり気絶する程度のもので、致命傷はもちろん延髄をさされたことだ。死亡時刻はあのとき警察医がいったとおり、なかなか正確な数字がでない」  警部は、鞄からとりだした報告書のページをくりながら、つづけた。 「きみに聞かせたいのはこれだよ。松平紗絽女がのまされた毒は、砒素《ひそ》化合物なんだ」 「ははあ、やはり医者のいったとおりでしたな」 「それから、ココアのなかからもまた砂糖のなかからも砒素を分析することはできなかった。砒素ばかりでなく、他の毒物も混入されておらん」 「なるほど。すると紗絽女のカップに投毒したということになるですな」 「そう、あのカップについていたココアの残滓《かす》からも、おなじ砒素化合物がでたんだ」  紗絽女の胃のなかにあった毒物と、彼女がのんだカップの澱《おり》から分析された毒物とがおなじ砒素化合物だということが判明すると、彼女を毒殺した犯人がだれかといった問題にもおのずと解答がでることになる。  紗絽女のカップに手をふれた男は、ただ一人しかいない。 「剣持さん、やはり、あなたの推理があたっていましたね」  由木刑事は昨夜この客間で交した会話を思いだしていった。だが、由木がそれで事件の解決をみたと思ったならば、とんでもない誤りといわねばなるまい。なおも続発する殺人の犠牲者は一人に止まらなかったからである。  九 スペードの5     一  通夜は応接間でいとなまれることになった。大テーブルやイスなどを持ち出したあとの絨毯の上にざぶとんをおき、各自が思い思いの席に坐って、悲しくもしめっぽい行事がはじめられた。三つならべられた棺は左からお花さん、橘秋夫、そして松平紗絽女の順であるが、紗絽女の棺のみ少しはなれて安置されているわけは、彼女がクリスチャンであったからである。木魚のぽくぽく……というリズムを伴奏として、顔色の生っ白い、いかにも生臭然としたわかい僧侶の、その顔に似合わぬだみ声の読経がつづいていた。異教徒の紗絽女としては、こうしたお経など一向にありがたくなかったであろうが、そうかといって、独りさびしく階上の部屋においておくのも可哀想である。  僧のとなりには大男の万平が窮屈そうな形ですわり、ときどき、腰にはさんだうす汚れた手ぬぐいで汗をふくふりをして涙をぬぐっていた。橘と紗絽女の棺の前には、東京からかけつけた年老いた両親がそれぞれ首をたれて、息子や娘の死をふかく悼《いた》んでいる。彼らが途中で購《あがな》ってきた弔花が大きな花瓶にいけられて、その香りが線香のにおいにまじり合い、広い洋間のなかにたゆとうていた。  読経はいつ終るともしれない。ふだんは仲がわるい行武栄一と尼リリスとがおとなしく並んで、やはり頭をたれている。肥えたリリスは坐ることが苦痛らしく、スカートの下の脚をやや横になげだしたところが、いかさまわがまま娘のすることらしく思われるのだった。行武は思いだしたように大きな切れながの目でぎろりと白木の棺をながめると、それが癖の片手で髪をかき上げるようにして、また目を伏せる。九州男児でありながら、一見神経質にみえる男だけあって、白いうなじと青いえりあしがいやに目立つのである。  牧数人は行武とともにリリスをはさんだ位置にすわり、単調な木魚のリズムに合わせて無意識に首で拍子をとっている。タバコが吸いたいとみえてポケットからとり出したシガレットケースを掌でもてあそんでいるけれど、さすがに火をつけることはしない。  一座のなかには、付近に住む農夫たちの姿も少なくなかった。昨晩、牧とリリスのアリバイを立証してくれたあの青年農夫もまじって、ありがたそうにお経を聞いている。陽焼けしたごつごつした感じの彼らとわかい学生たちとが一室に坐った姿は、どう見ても水と油のように調和がとれないものがあった。  そうした有様を、由木と剣持はうしろのほうでじっと観察していた。尼リリスたちの一群からずっとはなれた反対側の壁ぎわに、安孫子宏のすわっているのが見える。髭のそりあとの濃い、それでいて、頬の赤い少年のような顔を心持ち緊張させ、相かわらず上体をそらせて駄々っ子じみたポーズである。  安孫子のすぐうしろに、黒いふとぶちの眼鏡をかけたショートカットの女がいる。ほほう、これが日高鉄子だな、と由木はすぐ気づいた。背後から見ただけでは容貌のほどもわからないけれど、無造作な身だしなみがいかにも画学生らしく見えるのである。  僧侶の読経はなおも単調につづいていた。線香のけむりは鉄子のまわりで渦をまき、テラスの金網扉に吸いこまれて暗い庭にながれてゆく。そのスクリーンドアの前にイスをもち出して、暑いのにきちんと蝶ネクタイをむすんだ男が腰をおろしている。イスにかけているのは彼ひとりだから、いやでも目につく存在であった。剣持警部をへきえきさせたいやな男というのは、これにちがいない。 「あの気取った男、なんというのですか」  と、彼は袖をひいて訊いた。 「二条義房《にじようよしふさ》さ。ちょっと子爵のおとしだねみたいな名前じゃないか」 「日高鉄子の知り合いとみえますな」 「そう、日高ばかりじゃなくて、この連中みなと顔見知りのようだ」  彼はそう答えると片手をズボンのポケットに入れてしきりにもぞもぞやっていたが、やがてひとつまみのゴミをとりだすと、唾をつけてひたいにはりつけた。しびれがきれたらしく、そのおまじないである。  橘の両親は息子の死を悲しむあまり、お経料をうんとはずんだに相違ない。それにこたえてお坊さんの読経は延々と三時間におよび、十一時をすぎたころようやく終った。僧侶を送りだした遺族たちはふたたび応接間にもどると通夜をつづける。しかしわかい学生たちはさすがに疲れて、食堂にひきさがると、夜食をとって寛《くつろ》ごうということになった。  剣持の横をぞろぞろと出てゆく学生たちのなかから、尼リリスがひょいと立ち止って、声をかけた。 「警部さんたちもいらっしゃいません?」 「なんです?」 「お通夜が陰気になってはいけませんもの。お酒と、それからサンドイッチを用意してありますのよ」 「そう、じゃご馳走になるかな」  剣持も由木も、これ以上正座をつづけることはたまらなかった。べつに意地がきたないわけでもないが、しかしアルコールにちょいと魅力も感じて、すぐ立った。だが警部の脚はすっかり痺《しび》れて感覚がなく、よろめいたかと思うとその場に転んでしまった。 「あらまあ」 「あちちち……」  と、彼は情けなさそうに顔をしかめた。肥った人間にとって、長時間の正座は想像以上にこたえるものである。 「由木君、きみは、先に、行ってくれんか。ぼくは、もう少し、この脚が、なおってから……あちちち」  警部は由木とリリスを去らせると、ズボンの上から脚をさすっていた。  棺の前では遺族たちがひそひそと囁き合っている。婦人はハンカチで目頭をおさえ、その合間にちんと鼻をかみ、そしてまたひたいを寄せると万平老人をまじえて声をひくめて語る。単なる病死でも事故死でもなく、殺害されたのであるから、彼らが悲嘆にくれるばかりでなく、犯人に対して激しい怒りを感じていることは当然であった。しかもその犯人が、なにくわぬ表情で通夜の席にまじっていることを思うと、怒りは倍加されるはずである。そして、あふれでた悲憤のなみだは、しとどにハンカチをぬらすのだった。  そうした情景をながめながら脚をさすっていた警部は、ようやく痺れがなおるとやっこらさと立ち、二、三度足ならしをしてふらふらと廊下にでた。こうしたしめっぽい場所はもう沢山という気持である。食堂に入ると、安孫子と由木がはなればなれに席についていて、たがいにのんびりした表情でタバコをふかしていた。  尼リリスと日高鉄子は忙しそうだ。食堂にサンドイッチや茶碗をはこんだり、応接間に紅茶をはこんだり、おおわらわである。万平たち遺族のほかに農夫が十名あまりもいるから、なかなか手数がかかるわけだ。それでも十分ほどすると食堂にもどってきて、鉄子が剣持警部の前にサンドイッチの小皿をすすめてくれた。 「お花さんがあんなふうになったもんですから、なにからなにまであたくしたちがしなくてはなりませんの」  リリスは警部にそう声をかけて、手をのばすと、棚の上の洋酒のセットをとった。昨夜はひどくおびえていたけれども、同性が一人ふえたので心づよくなったのか、通夜で人間が多数集まったため気が張っているのか、それとも昨夜のおびえは単なるヒステリーの発作にすぎなかったのか、ともかくいまは元気をとりもどしている。  これにひきかえ、日高鉄子のほうはじかに殺人の恐怖にぶつからなかったせいでもあろうか、どことなく動作がおちついて見える。いままで発生した連続殺人を、対岸の火災視するようなところがあるのだった。  リリスはセットのふたをあけると洋酒の瓶をとり出したが、どうしたわけか、とたんに妙な表情をうかべて、さらにもう一本の瓶を手にとった。そしてちょうどそこに入ってきた牧の顔をみると、とがった声をかけた。 「変だわ」 「なにが?」 「お酒が減ってるのよ。あなたが呑んだの?」 「どれ、見せてごらん。ほう?」  手ぢかの瓶を一、二本すかしてみて、たちまち彼も不審そうな顔になった。 「変だぞ。だれかが呑んだな。本来なら、まだうんと残っているはずだからな」 「最後に呑んだのはいつ?」 「ぼくらがここに着いた晩さ。ほら、橘たちの婚約発表があったときだよ」  あの夜みんなで祝盃をあげて以来、続発する事件のため、ついぞグラスを手にする機会はなかったはずである。それが知らぬあいだに減ったとすると、やはりだれかが失敬したに違いない。辛口のドライジンやフレンチベルモット、甘口のキュラソー、マンダリン、イタリアンベルモットなどは一滴もなく、半分ほど残されているのはただ一瓶だけであった。 「あら、それペパーミントね」  緑色の洋酒といえばペパーミントにきまっている。 「でも、だれかしら。いやな人ね。欲しけりゃ欲しいといったらいいじゃないの。こっそり呑むなんて根性がいやしいわ。そんなやつあたし大嫌い!」  リリスは当てこするように大きな声でいうと、頬をふくらませた。だが、彼女に嫌われようとべつにだれも痛痒《つうよう》を感じるはずがないのだ。こうしたいかにもわがまま娘らしい言い方をすることによって、かえって自分が嫌われる結果となるのを、リリスはとんと気づかぬようである。ペパーミント一本をテーブルの上にのこして、手荒くあき瓶を棚の上にもどした。  安孫子は、おのれが当てこすられたことをすぐに悟った。なにかというとふんぞり返ってお高くとまりたがる男だけに、こうしたことにはすこぶる敏感なたちだった。たちまち顔が紅潮した。 「尼君、きみはおれのことをいったのか」 「まあ失礼ね、いつあんたが呑んだといって?」 「呑んだとはいわないけどよ」 「そんなら黙ってるものよ。言いがかりをつけるなんてヨタモノみたいだわ。紳士のすることじゃなくてよ」  高っ飛車に逆襲されてへどもどすると、たちまち沈黙してしまった。うわぜいのある六十五キロのリリスが、腰に手をあてて仁王立ちになって鼻の孔をひろげた恰好は、それだけで相手を威圧するに充分である。四十七キロの小柄な安孫子がイスの上で小さくなると、まるで女教師に叱られた小学生といった図を思わせるのだった。  安孫子が口をつぐんでしまったのは、剣持や由木という第三者の前で内輪のもめごとを見せまいとする考慮もあったに違いなく、つとめて感情を抑制している様子がはっきりうかがえた。そこに二階からおりた行武と二条が入って来たため、この小さな衝突もそのまま消えてしまったのである。 「ではどうぞ、まずいものですけれど召し上がれ」  肥った女はそうすすめたあと、自分も真先にサンドイッチをつまんだ。一方、きざな手つきでシェーカーを振っていた牧は、一同のグラスにあわい緑色のフィーズをついでまわった。最後に行武の横に立つと、二条義房と夢中になって論じているバス歌手の行武に、「きみも呑むだろう?」と声をかけた。禁酒しているこの男にうっかりすすめると、先夜のように怒りだすおそれがある。 「ああ」  行武は見むきもしないで、なにか音楽のことを声高に語っていた。以前、洋画科にいたころ、その豊富な色彩感覚を教授にほめられたこともある行武だけに、おなじ洋画科を卒業した二条義房とは話も合うし、親近感もいだけるらしい。 「きみはそういうけどさ、フリュートゥとアルプのためのコンセールが有名なのは、ライネッケのカデンツァのためではありませんですよ。ほかにもそういう人はいるけれどもさ、ありゃア逆説だな。カデンツァなんてどうだっていい、あの華麗きわまる本体そのものをほめなくちゃ。やはりモザーは偉いですよ」  みてくれの多いいや味な調子に、なるほどこれはいけ好かない男だなと、由木ははじめて気がついた。日本語で話をするのだからなにもそうする必要はないはずなのに、フランス語を発音するときはわざわざ鼻の奥にひびかせて、いかにもパリ帰りでございというような顔をしている。やせた面長の顔に天平《てんぴよう》時代の仏像を連想させる柿のタネのような目がついて、その腫れぼったい目が、近眼鏡のレンズのなかで、ねむそうにまたたいている。それはどう見てもパリ向きの顔ではなかった。  牧がペパーミントフィーズをつごうとすると、気取ったゼスチュアで手をふった。 「ぼかぁビエールがいいんだけどな、ないのかね?」 「さあ、買ってあるかどうかな。ビールが呑みたきゃ、あんた台所に行ってみて来たらどうです」  いつもに似ず、貴公子の牧は木で鼻をくくった返事であった。その言葉のひびきに尼リリスが気づかぬはずはない。二条義房が立ち上って調理室へ出ていくのを待って、小声で訊ねた。 「どうしたのよ、牧さん」 「べつにどうもしないけどね、二条先生はぼくを嫌いらしい。だからぼくも先生に好意を感じられないんだよ」 「あら、どうして?」  すると牧はなにを思いだしたかくすくす笑った。 「先生なかなかフランス語が得意らしいが、ありゃ見かけ倒しなんだぜ」 「まあ、なぜ?」 「せんだって学校でシャンソンの好きな連中が集まってね、ジョルジュ・ブラッサンスの『ゴリラ』 ってのを聴いていたんだ。そこにやっこさんがご入来あそばすとね、例によってとうとうとシャンソンのうんちくを傾けてさ、ルシェンヌ・ボワイエが転んだの、イヴ・モンタンがすべったの、ラケール・メルがバルセロナで死んだけど、ぶくぶくに肥っちまって往時の面影がなかったのと知ったかぶりを披露したあげくがさ、『ゴリラ』のレコードを聞いて、ブラッサンス自作の歌詞がエレガンだ、なんてほめて大いにパリ帰りらしき一席をぶったんだ。ところがこの『ゴリラ』ってシャンソンはさ」  と、牧は話を切ると調理室へ通じる扉をちらと見た。 「エレガンだなんてとんでもない、パリの国立放送局からしめだしをくった唄なんだ」  ブラッサンスの多分に哲学的だと評されるシャンソンは、そのほとんどが自作の詞にかぎられており、ほかの歌手の、例えばボワイエの『愛の言葉を』であるとか、ジャクリーヌ・フランソワの『ポルトガルの洗濯女』だとか、あるいはイヴェット・ジローの『小さな靴屋』のようにメロディそのものからしてだれにでも受ける唄とはちがって、フランス語ができるものでないと面白さが理解されないといわれている。ブラッサンスの名を日本でほとんど知るものがない理由は、その辺にありそうであった。 「あらまあ、どんな歌詞なの?」  マドロスパイプをふかしながら、その合間にフィーズをなめていた日高鉄子が、興味を感じたように体をのりだした。 「ぼくはフランス語は得意じゃないから日本語の訳詞を読んだんだけどね、檻《おり》のなかにゴリラがいて、わかい娘たちがこの類人猿のある部分を恍惚とながめるという文句で始まるんだ」 「あらいやだ」  柄にもなく日高鉄子は真赤になって下を向いてしまった。 「止せばよかったんだが、彼のパリ通が鼻についてむかむかしてたもんだから、この歌詞のどこがエレガンなのか説明してくれといっちまったんだよ」 「あら」 「やっこさん、途端にふくれちゃってね。以来、小生にはお冠《かんむり》というわけなんだ」 「いいわよ、そのくらいの恥はかかせてやったほうが。あたしもあんな気障なひと大嫌い。宣言しとくわ」  尼リリスは女性特有の勘のするどさから、由木や剣持をふくむ一座のほとんどすべてのものが二条義房に好意をいだいていないことを察しているらしく、大胆にいってのけた。 「まったくだね。なにもモーツァルトのことをモザーとフランス語読みにしなくたってよさそうなもんだ。例えばさ、イギリス人にしたって、ベートーヴェンやショパンのことをビーソーヴェンだとかチョピンと呼びやしない。ソヴェートにしても、ビゼーのことはロシヤ文字でちゃんと発音どおりビゼーと書く。ビゼットなんて書きはしないんだ。それなのにさ、なにもモザーといわなくてもいいじゃないか」 「そうよ、そうだわよ。ビールのことをビエールだなんて、フランスかぶれも甚だしくてよ」  二人に思うさまこきおろされているところに、それとは知らぬ本人が、いささか不満そうな面持ちでもどってきた。 「ビエールはないね」  だれにともなくいってサンドイッチをつまんだ。尼は始まったというふうに牧と顔を見合わせた。 「あらそう、お気の毒ね」  それまで頬杖をついて目の前のグラスをながめていた行武は、手をのばして、薄荷《はつか》の味のする緑の酒をひと口呑んだかと思うと、すぐテーブルにおいた。 「おや、これペパーミントじゃないか。なにかほかの酒ないのかい? おれ薄荷は嫌いなんだよ」 「残念だがほかの酒はないんだ。だれかが呑んじゃって、どの瓶もからなんだよ」 「呑まれたって? だれにだい?」  二条との議論に熱中していた彼は、酒盗っ人の件は聞こえなかったのである。 「わかってたらどやしつけてやるよ」 「ふん、ひでえやつだな」  行武はあきれたように口をあけて天井の灯りをながめている。二条はなにを考えているのか、正面の壁をじっと見つめていた。     二  逮捕状はすでに請求してあるが、なにぶん不便な場所のこととてそれが届くのは翌日になるものときめて、剣持たちは遠くから容疑者の様子をそっと見まもることにしていたのである。  夜食に一時間ほどついやしたのち、一同はふたたび応接間にとってかえすと、通夜の席に加わった。農夫たちは義理固いのか、それとも義理を欠いたといわれるのがいやなのか、通夜を早目にきり上げて帰るものは一人もいない。みなぴたりと坐ったまま膝をくずすものもなく、お花さんの死を悼んでいるようであった。  若者たちが着座するあいだざわついていた空気もすぐにしずまって、中断されたお通夜はまた続行された。二人の係官は以前とおなじ場所に坐り、ひそかに獲物を監視することをはじめた。  僧侶が経をあげたときとはちがって、通夜の人々は三々五々小さな声で雑談をしていた。しかしその声も十二時をすぎるとぐんと減ってしまう。なかには睡魔とたたかうものもいたし、すでに正座したままこくりこくりとやっているものもあった。畑仕事でつかれぬいた農夫たちには、それも無理もないことである。  先程のんだ紅茶も、その量が少ないせいか眠けざましにはならぬとみえて、行武もはや舟をこぎはじめている。上体をゆすぶり、あわや均衡《きんこう》を失ってひっくり返りそうになるとはっと目をさまして、思わずぎょろっと周囲を見廻す。この寝惚けた横顔がなんとも間がぬけて滑稽で、由木は思わず失笑した。  しかし他人を笑っているうちはまだよかった。二時、三時と夜がふけるにしたがって剣持も由木も襲いかかる睡魔には耐えきれなくなり、つい、とろとろとまどろみはじめる。こりゃいかんと、強いて目をあけ抵抗してみたものの、やがてどうにも我慢ができずに眠ってしまった……。 「旦那、もし、旦那……」  どこかで呼びかける声がしたと思うと肩をはげしくゆすぶられて、由木ははっとして目をさました。眼前に、黒々と陽に焼けたしわづらに白い不精髭《ぶしようひげ》をはやした老農夫の顔がある。 「……なにか用か?」 「ちょっくら来て下せえ」  そのただならぬ表情が寝惚けまなこの由木にもぴんときて、すぐ腰をあげた。老人は先にたって廊下を歩き、階段の下をとおってトイレットの扉をおしあける。なかをのぞいた由木は、声をあげて思わずその場に立ちすくんだ。  りら荘の手洗いの位置については前にもふれたと思うが扉の正面にスツールがある。そのスツールのすぐ下の白いタイルをはりつめた床の上に、浴衣《ゆかた》の男が顔を向うにむけ、うつ伏せに倒れているのだった。  わかい学生たちのなかで浴衣を着ているものは一人しかいない。だから由木は、倒れているのがだれであるかすぐにわかった。浴衣のすそが乱れて二本の毛ずねがぬうとあらわれている。倒れた拍子にはねとばされたとみえ、一足の革のスリッパが北窓の下に転っていた。 「旦那、ありゃなんのまじないだべえ?」  と、農夫はさすがにうわずった声になった。彼がいうのは、浴衣の背中にのせてある一枚のカードのことであった。由木はようやくわれに返ると大またでなかに入り、慣れた視線をすばやく周囲になげた。窓の金網戸には異常がない。つぎに死者の背中のカードを手にとってスペードの5であることをたしかめると、自分の胸のシャツのポケットにすべり込ませた。  被害者は髪を長くのばしているためわからなかったけれど、そっと手をあててみると、後頭部にひどい裂傷がある。念のためライターを鏡がわりに鼻孔に近づけてみたが、とうに息たえていた。  刑事の胸のうちには死者を悼む気持は少しも起らない。彼の鼻の先でこのような不敵なふるまいをした犯人に対する怒りで胸がみたされ、他のことを考える余裕はまったくなかった。刑事たちがりら荘に滞在したのは容疑者を監視するためであるが、あからさまにそういうわけにもゆかぬので、続発する事件を未然に防ぐための警戒であると称していたのだった。  しかし由木刑事にしても剣持警部にしても、これ以上事件が発生すると信じていたわけではなくて、お花さんの死をもって終結をつげたものと考えていたのである。だから第五番目の犠牲者がでたことは由木をすこぶる驚倒させ、同時に彼らの警戒下にこうした事件が発生したことは、由木たちを窮地に追い込んだことになるのだった。まさしくこれは由木と剣持の失態であり、学生たちの軽蔑と憫笑《びんしよう》をかうのはわかりきっていた。  由木はにがい顔をしてふり返った。 「きみ、すまんですが剣持警部を呼んでくれんですか。そう、わたしの隣りにいためがねをかけた肥った人……」  ドアのところに立っている老農夫に、胸中の驚きを悟らせまいとしてつとめて冷静にいった。  剣持はすぐにやって来て、トイレのなかをのぞくとみるみる顔を紅潮させ、吐き捨てるようにつぶやいた。 「なめた真似をしやがる」  そして行武の屍体に手をふれてから、「あんたが見つけたの?」と噛みつくような調子でたずねた。 「へえ」  老農夫は警部の剣幕におそれをなしたのかうつろな返事をして、用をたしにトイレットの扉をあけたところ、そこに行武の倒れているのを発見し、おどろいて由木に知らせたのだとつけ加えた。 「てっきりてんかん持ちだと思って魂消《たまげ》やした、へえ」  剣持はぶすっとした顔つきで屍体の位置をながめていたが、しばらくすると由木をかえりみた。 「行武はスツールの前に立っているところを、うしろからなぐり殺されたんだな」 「そうですな。ちょうど用をすませた瞬間をねらってふりおろしたんでしょう」 「出血は少ないが、骨がわれてるようだ。兇器はなんだろう?」  その兇器は、すぐ近くの内玄関のたたきに放りだしてあった。平素は風呂場のたき口のところにおいてある、カギ形をした鉄の火掻棒である。犯人はとがったほうを上に向け、あたかも刀で峰打ちをするような恰好でふりおろしたものだろう。そのことは、まだぬるぬるとぬれている傷口の状態からも推測できるのであった。 「だが、うまいときを狙ったものじゃないか。男が用を足しているところを襲われると、ちょっと防ぎようがないからな。ぼくはすぐ本署に連絡をとる。きみはあいつを監視していてくれ。それからおじさん」  と、剣持は廊下の老農夫に声をかけた。 「ぼくが電話をかけ終るまで、ここで張り番をしていてくれんかね。だれが来ても入れちゃいかんよ」  迷惑そうな相手の表情を無視して、うむをいわせず、無理強いにたのんだ。  由木はさりげない顔をして応接間にもどった。棺の前の遺族をのぞいては、だれも彼れも眠りこけて、異変に気づいたものはなさそうだ。  廊下から、剣持警部が本署をよびだす声が聞こえてくる。怒りと困却と狼狽のまじった奇妙な調子であった。警部が声を殺して語るため、なかなか先方に通じないようである。  電話が終って五分ほどすると、一人の女がむっくり立って人々のあいだを縫うようにして来た。鉄子であった。 「あ、どこへいらっしゃいます」  由木はあわてて声をかけた。 「お手洗いですわ」 「弱ったな。ちょっと我慢していただきたいですがね」  そう押し止めたものの、朝になるまで屍体を動かすことはできないし、それまで全員に禁足をくわせるわけにはゆかない。 「日高さん、とおっしゃいましたね。あのトイレはしばらく使用できないんですよ。しかしべつに、管理人専用のものがあるんじゃないですか」 「ええ、万平さんの居間のそばにあるようですわ」 「ではそこに行っていただきたいですな」 「まあ、なぜ?」  いぶかるような表情を浮べて、眼鏡の位置をなおした。 「理由はあとでお解りになりますがね、ともかく、そちらにいらして下さい」 「あのう……」  と彼女はためらうように立ちつづけていたが、つよく首をふった。 「いやですわ」 「どうして?」 「だってこんな、お通夜の晩に、遠くのお手洗いにいくの、こわいんですもの」  ふだんは男みたいに振舞っているくせに、やはり女であった。 「一緒に行って下さいません?」 「と、と、とんでもない」  由木は泡をくって吃ると、ハンカチで鼻の頭をこすった。 「そうだ、尼さんを誘ったらどうです?」 「そうね。じゃそうしますわ。だけど、何かありましたの?」 「いや、べつに何も。ただちょっとばかり……」  あいまいな返事に彼女はそれ以上たずねることをあきらめたとみえ、ふたたび人々のあいだをかきわけて尼リリスのわきに立つと、これをゆり起こしてトイレを誘っている様子だった。リリスは行きたくないのであろうか、初めはかぶりを振っていたが、やがて説得されたとみえ、立ち上った。だれかが歯ぎしりをしていて短い寝言をいい、そしてすぐしずかになった。  十 二条の自信     一  五人目の犠牲者がでたということを、しかし容易にかくしおおせるものではなかった。夏の夜のことだからトイレに行くものの数はそれほど多くはなかったけれど、由木刑事から管理人専用の手洗いを使うよう指示された連中はいずれもいぶかしげな面持ちになり、自席にもどってくると隣りの人間の肩をこづいて、ひそひそと囁き合うのであった。由木刑事が真相を秘めるべくつとめていても、その深刻な表情から尋常でない出来事の発生が想像された。  時間がたつにつれ夜明けが近づくにつれて、彼らのあいだのひそひそ話は次第に周囲にひろがり、その声もだんだんと大きくなってくる。やがてそれは、徹夜につかれはてた遺族のあいだにも波及したようであった。遺族は遺族同士で、農夫は農夫同士で、そして学生は学生たちの仲間でこの異様な空気を論じていた。  籐イスからおりて小腰をかがめ、安孫子や日高女史となにやら語り合っていた二条義房は、そのうちしきりに腕時計を見ては入り口をふり返るようになった。行武の不在がようやく気になりかけたらしいのである。  彼らと離れた場所にいる牧とリリスのグループにも、やはり落着きを欠いたそぶりが見えはじめた。リリスの隣りの行武の座ぶとんは、先刻から主のないまま虚《むな》しく空いている。 「ねえリリちゃん、きみがトイレットに立ったのは何時ごろだい?」 「さあ、二時ごろじゃなかったかしら。はっきりおぼえてないけど……」 「それ以後ずうっと戻ってこないのかい?」 「さあ、あたしすぐ眠っちゃったから、あとのことは知らないわ」  そうした牧と尼との対話が由木の耳に聞えてきた。牧は立ち上るとズボンのしわをなおして、人々のあいだをわけながら由木のほうに近づいた。 「何かあったんじゃありませんか」 「なにがです」  と、刑事はとぼけてみせた。 「隠さないで下さい、行武の姿が見えないじゃありませんか」 「行武君? はてな、手洗いじゃないですかね」  牧は友の身を案じるように眉をひそめると、喰いつくように詰めよった。 「からかうのは止して頂きたいですな。ぼくは真剣なんですよ」  由木が答えようとするところに、二条義房も顔をだした。彼も深刻な面持ちであった。 「行武がやられた。そうでしょう、え?」  上から押しつけるような言い方をする。 「はっきり知りたいです。ぼかぁ、行武が犯人から狙われとることは知っていた。夜が明けたら注意してやろうと思っとったです。そして犯人の仮面をとってやろうと考えていたです。だがこう早くやられるとは思わなかった。ね、由木刑事。彼はやられたのでしょう? 違うですか」 「…………」 「わかっとる、ぼくにはわかっとるです。いままで四人を殺した犯人のことだ、やりそこなうようなヘマな真似はすまいと思うのですが。助かりますか、行武君は? それとも……?」  由木はだまって首を横にふった。 「そうか、やはり……」  二条はしわがれた声で呟くと、ひとしきりまばたきをして、さらに執拗にくいさがった。 「だれの犯行だかわかっとるですか」 「そりゃ、とうのむかしにわかってますとも」  相手の言葉にどこか警察の能力を疑問視したひびきが感じられたので、由木はそれをはね返すようにつよい調子で答えた。 「じゃ、なぜ逮捕しないですか」 「残念ながら、いままで証拠がなかったんです。しかしいまやそれを掴むことができた。だから逮捕も時間の問題です」 「時間の問題ね。もう少してきぱきとやって頂きたかったですな。そうすれば行武君も殺されずにすんだはずだ」  歯に衣《きぬ》をきせぬ相手の言葉が、由木の痛いところを遠慮なくつき刺した。だが犯人の監視を怠って第五の兇行を敢てなさしめたのは由木の手落ちなのだから、反駁《はんばく》することもできない。口惜しくても黙って聞いているよりほかはないのである。  いいたいことをいうと、二条義房はくるりとくびすを返して、自分の席にもどっていった。それを待っていたように、こんどは牧が近づいて来た。 「どこで殺されていたんです。トイレットですか」 「そう」 「どんなふうにやられたんです?」 「火掻棒で頭をわられてね、即死でしょう」 「やはりカードが……?」 「ええ、スペードの5が屍体の上にのせてありました」  牧は目を宙にやると、ほとんど独りごとのような口調になった。 「……わからない、一体だれの仕業なんだろう。ぼくらのなかに殺人鬼がいるなんて、どうしても信じられん」  何やらつぶやいたかと思うと、会釈するのも忘れたように力のない足取りで帰っていった。こうして由木が秘めておいた行武の死は、たちまちのうちに通夜の席につらなる全員の耳に入ったのである。第五の犠牲者の発生は、犯人をのぞいたすべての人を驚倒させるに足るショッキングなニュースであった。  朝の四時すぎに警察の車が到着した。すでに夏の夜は白みかかって、庭の石のたたずまいなどもおぼろ気に見え、金網扉をつうじてしのびこんだ朝の気配で、天井にかがやいていた蛍光灯の光も、いまは薄ぼんやりとして、頼りなげに思われた。  由木はその場を動かずに、剣持警部が玄関まで迎えにでた。警察医と担架をかかえた三人の警官の後に検事がつづいていた。彼が剣持警部の顔を見てかすかにうなずいたのは、いうまでもなく逮捕状を携行したとの意味である。  一行は廊下を吹きぬける嵐のように、無言のまま足音を立てることもなく、警部の案内で手洗いに入った。しかしどれほどしずかに歩いたとしても、通夜の席の人々の耳をごまかすことはできない。行武の死を知った彼らの感覚は驚愕と恐怖のため神経質になり、眠ることはおろか、まるで野生の動物のように敏感になっていたのである。  農夫たちのあいだには、殺人犯に対する恐怖とはべつに、検察官の到着によって、一種の畏怖《いふ》に似たパニックの状態がまき起っていた。彼らは牡蠣《かき》のように口をつぐんだきりなにもいわず、ただ目玉だけを落着きなく動かしていた。そしてときどき盗み見るような視線を牧や安孫子にあびせる。それは、五人の男女を屠《ほふ》った不敵な犯人の正体がだれであるかを知ろうとする好奇心に、若干の憎悪をまじえた眸であった。  見られるほうの身になってみると、決して愉快なものではない。安孫子や牧やリリスはもちろんのこと、事件に関係のないはずの日高女史や二条義房も農夫たちの視線を意識して、おちつかぬ表情をうかべていた。  勝気なリリスはポケットをさぐってチューインガムを取りだすと、ぽいと口にほうりこみ、音をたてて噛みはじめた。牧は知らぬ顔をしているが、安孫子は童顔を赤らめ、しきりにもじもじしていた。二条は傲然《ごうぜん》と天井を眺めるし日高鉄子は反対に下を向くといった、各自の性格に応じたまちまちの反応を呈した。農夫たちは次第に大胆になり無遠慮になり、そしてますます意地わるい眸になった。  剣持警部が見知らぬ男たちをつれて入って来たのは、それまで黒々としていた庭の花壇のカンナの花が、朝日をあびて燃えるような赤に変ってみえるころだった。農夫も遺族も学生たちも、その見知らぬ男がなんの目的でやって来たかを本能的に察知した。だれもものをいうものはなかった。尼リリスさえガムを噛むことを止めた。応接間の空気は痛いほど緊張していた。  三人の検察官はうなずき合うと一様にこちらを見て、ジャングル地帯をすすむ猛獣狩りの一行のように農夫のあいだをわけて入った。彼らの目標は左手の壁際にあるらしく、安孫子と日高鉄子と二条義房は背後をふり向いて黙々と狩人《かりゆうど》たちを迎えた。昨日到着したばかりの日高女史と二条義房が事件に無関係なことは明らかである。だから彼らは狼狽する理由をもたなかった。  安孫子は、彼らがだれを襲うつもりであるか、すぐに悟った。まるい童顔の頬の筋肉が痙攣したかと思うと、醜くゆがんだ。最初は笑っているように見えたが、それも一瞬のことで、たちまちべそをかいた泣き顔になった。  三人の係官は安孫子の前でぴたりと止った。農夫たちは陽焼けした顔に口を大きくあけてこの光景を眺めていた。 「あなたは安孫子宏さんでしょうな」  剣持警部はおごそかな声で訊ねた。 「ぼくが安孫子でなかったら、だれだというんです……」  彼はのこった気力をふるい起して、せいいっぱいの皮肉をいった。 「余計なことはいわんでよろし。あなたを須田佐吉その他の殺人事件の容疑者として逮捕します。これが令状です。なおあなたは自己に不利益な……」  須田というのは例の炭焼きのことである。だが安孫子は半分も聞いていなかった。逮捕令状にはまだ行武の名は記載していないが、あとの四人の犠牲者の氏名がずらりと並べてある。彼はちらと一瞥したものの、読もうとはしなかった。いや読めなかった。大脳は彼の意志をはなれて、視力も理解力も完全にマヒしていた。そのくせ想像力は逆に機能をましたとみえ、うす汚れた客間の壁をキャンバスとして、その上に、まだ見たこともない絞首台の形をくっきりと描きだすことができた。  警部は、安孫子に学生としてのプライドもあるだろうから手錠をかけることは遠慮すると述べ、そのかわりつまらぬ真似はしないようにといって彼の腕をとった。由木刑事が反対側からもう一つの腕をとり、安孫子はまったく自由を失って、なんの反抗もすることなく歩きだした。農夫たちが左右にすさって通路をひらいた。  安孫子は廊下にでたとたん、われをとりもどしたとみえる。 「違うんだ、ぼくは犯人じゃない、ぼくが殺したんじゃない、違う、違うんだ、放せ、放してくれ」  しきりにわめく声が聞こえたが、係官が耳をかすわけがなく、その声も次第に小さくなっていった。  牧たち四人は、扉のところに立って顔を見合わせたきり、しばらくは言葉もなかった。それでも、ややあって尼がふるえるような声をだした。 「……安孫子さんが犯人だったのね。なんだか信じられないみたい……」  とにかく、目の前で殺人犯が逮捕されるということは、だれにとってもショッキングな出来事であった。農夫たちは呆気にとられたきり、だれ一人として口をきくものはいなかった。     二  四人の仲間は、鉄の門の前に立って連行される安孫子を見送った。多くの僚友を殺し、好人物のお花さんを殺した男と思えば憎いわけであるが、彼もまたおなじ釜のめしを喰った仲間の一人なのだ、そ知らぬふりもできなかったであろう。それにまた、行武の屍体も運び去られてゆくのだ。  安孫子は剣持警部と由木にはさまれて大型ジープの後部座席に坐り、先程まで紅潮していた頬もいまはすっかり蒼ざめて、自分の靴の先を見つめたまま顔を上げようともしない。  行武の屍体はうしろの小型トラックに横たえられていた。彼もまた、橘や紗絽女とおなじように解剖に付されるのである。四日前の夕方、嬉々としてりら荘にやってきた七人の男女のうち、三人までが固い解剖台にのせられて冷たいメスで肉をさかれ、そして一人が殺人犯として引かれて行くことを、だれが予想したであろうか。あとにのこった二人の女性と二人の男性は、複雑な思いを面《おもて》にあらわして、声もなくたたずんでいた。  やがて二台の車が前後してスタートし、大通りにでて曲ってしまうと、四人は、だれからともなくりら荘にもどりはじめた。石積柱にからみついた朝顔の花が五、六輪、血で染めたように赤く咲いているのが、事件の直後だけに、ひときわ印象的に見えるのであった。  だれも寝不足で、喰べるよりは自室のベッドで休養をとりたかった。 「どうなさる、お食事?」  とリリスは疲れたつやのない声で訊ねた。 「ぼくは眠たいんだがね、万平さんや遺族の人たちに朝食をださなくちゃわるいだろ?」 「そうね、じゃトーストにハムエッグズかなにかで……」  牧とリリスは朝の食事の献立をきめた。 「あたしお手伝いするわ」  そういう鉄子の声も乾いていた。 「あらそう、じゃお願いするわね。ゆっくりやりましょうよ、八時まで小一時間あるんですもの」  四人が内玄関からなかに入るころ、通夜をすませた農夫たちが寝不足の脂の浮いた顔で出てきて、本玄関から帰っていくところであった。眠そうな顔をしているのは学生たちも同様である。彼らはどちらからともなく声をかけ合い、通夜に列席した労をねぎらった。  階上の自室にもどった牧たちは、いい合わせたように、歯ブラシと洗面具をかかえて洗面所にとびこんだ。口をすすぎ、冷たい水で顔を洗うと、どうやら気持もさっぱりして、人心地をとり返すことができた。  リリスと鉄子が炊事場で仕事をはじめたころ、牧は食堂のイスにかけてラジオのスイッチを入れると、音を小さく絞って朝刊をひろげた。まず社会面をひらく。でている、でている、りら荘の殺人事件がトップにでかでかと報じられてある。牧は昨日の昼検事の一行についてやって来た新聞記者が事件をどのように取り上げたか、興味をもって記事をむさぼるように読みはじめた。  テーブルの向側に坐った二条義房は、棚の上にたたまれた新聞を手にとると、これも異様な熱心さでそれをひろげはじめた。その眸は、なにかに憑《つ》かれたようにひどく真剣であった。競馬場のスタンドに立ち上って、自分が賭けた馬の追いこみを喰い入るように眺めている競馬狂の目、それを思わせる二条の眸だった。 「朝刊はこれですぜ」  牧がもう一種のまだたたんだままのテーブルの上にのせてある朝刊をさしだしてやると、どうしたわけか二条は見向きもしない。 「ぼくのさがしているなあ、二十一日の夕刊だよ」  はね返すようにいって古新聞をあれこれとひろげていたが、やがて求める夕刊を見つけると社会面を開いて、柿のタネのような小さな目をせいいっぱいに丸めて記事を追っていた。が、そのうちに目指すものを発見したとみえてみじかく一声うめくと、それを小脇にかかえて食堂をとびだした。  盆にトーストをのせてきた尼リリスは、あやうく正面衝突するところであった。辛《かろ》うじて体を退くと、その反動で皿のトーストが転げおちそうになる。落すまいと盆で拍子をとって首を上げてみるとすでに二条の姿はそこになくて、階段をかけ上る足音が聞こえるだけだった。 「どうかしたのかしら、あの人?」  盆をテーブルにのせながら、リリスはあえぐように訊いた。 「もう少しでぶつかるところだったわ。喧嘩でもなさったの?」 「喧嘩なんかしないさ。やっこさんどうしたわけだか古新聞をみたとたんに興奮してね、とび出しちまったんだよ」 「妙な人だわね」 「いかれてるんじゃないかな」  二条にああした奇矯《ききよう》な行動をとらせたものがなんであるか、牧にも全然見当がつかない。八月二十一日の夕刊は彼も読んだはずだが、べつに変ったこともないように記憶している。 「すみませんけどあなた、新聞を片づけて下さらない? 橘さんや紗絽女ちゃんのご両親にも、ここでご一緒に召し上っていただくのよ」 「そうか、それじゃぼくも手伝おう」 「そうして下さればありがたいわ。もうそろそろハムエッグズができるころよ、はこんで頂けるかしら」  わがまま娘の尼リリスも、牧に対してはまるで小羊のようにおとなしいのだ。 「ラジオは消しといたほうがいいね。あの人たちのいるあいだは、歌舞音曲《かぶおんぎよく》のたぐいは遠慮すべきだな」  牧は手をのばしてスイッチを切ると、皿をはこぶために立ち上った。  日高鉄子と尼リリスの調理した朝食はかなり上手な出来であったけれど、遺族たちの食欲をふるい立たせることは不可能であった。彼らはほんの少量のパンをたべただけで応接間にもどって行った。万平老はひとり自分の部屋で食事をとったが、これはパン食に慣れていないだけになおさら喉をとおらぬらしく、皿の上にはトーストもハムエッグズもほとんどそっくりそのままのこされてあった。  遺族が同席しているあいだは学生たちも言葉少なだった。橘の両親にしても紗絽女の両親にしても、子供たちと親しく交っていたこれらの学生といろいろ語りたいらしいのだが、まだそうするだけの気力がないとみえて、犯人が捕えられたら仏がうかばれるであろうという意味のことを、みじかい言葉で述べただけだった。  彼らの気持は学生たちにも敏感に反映して、ほとんど口をきくものもない。だから遺族が応接間へ去ってしまうと学生たちは解放されたようにお喋りになり陽気になり、ことに牧と二条はとたんに旺盛な食欲をとりかえし、狐色に焼けたパンを二枚もたべた。 「どうも農家の女って、色の黒いのがそろってるもんだね。ぼくは色の黒い女は大嫌いだからさ、南方のジャングルに迷いこんだみたいで気味がわるいほどだったよ」 「あたし、あのお坊さんのほうがうす気味わるかったわ。夜ふけのお寺の本堂であのお坊さんと二人きりで向い合ってることを想像したら、ぞーっとしてふるえちゃったの」  彼らの陽気な他愛ないお喋りは、いってみれば精神的な安全弁であったのである。りら荘はここ数日来まっくろな雲におおわれている。今朝は一個の屍体と殺人容疑者を送りだし、そして間《ま》もなく三個の棺を火葬場へ送らねばならない。午後になれば行武の解剖屍体が返されるであろうし、また橘たちの遺骨をとりに行かねばならぬ。そして今晩は行武の通夜、明日は野辺の送りといったふうに、スケジュールは陰鬱な行事で息つくひまもないほどぎっしりと詰っているのである。無理にも冗談をいわねば窒息してしまう。彼らがたてる笑い声を、一概に不謹慎だといって責めるわけにはゆかないのだ。  リリスは、自分の髪をいとおしそうに弄《もてあそ》んでいたが、やがてふっと溜息をついた。 「ああ、早くお家へ帰りたいな。安孫子さんが捕まっちゃったから殺される心配はもうなくなったけど、こんな陰気なとこにいると気がくさくさするわ」 「あと、二、三日はだめだね。行武の始末もしなくちゃならんし、警察も証拠固めのためいろいろとぼくらに訊問をしたいだろうし。当分はあきらめるんだな」 「そんなことしたら、二学期が始まっちゃうじゃないの」 「まさか。それまでにゃ帰れるさ」 「行武さんの遺族はすぐにみえるのかしら」 「いや、あいつは地方の人間だからね、早くて明日の午後になるだろう。由木刑事が電報で知らせてくれることになってるんだ」 「それじゃお骨あげに行くのはそのあとね」 「やはり親がくるまで待たなくちゃいかんだろうな。しかし、なにしろ夏だからね」 「ドライアイスをたくさん買っておかなくちゃだめね」  故意に陽気に喋ろうとつとめながらも、舵のとりようを誤ると、話題は暗いものとなり勝ちである。そしてそれに気づくと、あわてて舳先《へさき》をとりなおすのであった。  二条義房はむずかしい顔で紅茶をかきまぜている。先程古新聞をかかえて示した奇妙な振舞いは、とうのむかしに忘れたようであった。牧たちと口をきくのがいやなのかずっと無言である。日高鉄子は紅茶の湯気でくもった男物の眼鏡のレンズをふきながら、ぽつりと一言だけつぶやいた。それは、いまごろ安孫子さんはどうしているかしらというのであった。  十時前に鉄門のところで自動車の警笛がなり、やがて玄関でおとなう声が聞こえた。学生たちは依頼しておいた霊柩車が到着したことを知った。葬儀社の若者は車が二台しかないといい、結局一台の車にお花さんの棺が、もう一台の車に、橘と紗絽女の棺が一緒にのせられることになった。 「秋夫さんとあれほど仲のよかった娘ですもの、ご一緒して頂いて却ってよろこんでいることでございましょう」  紗絽女の母親はそういうと、黒い服の肩をふるわせ、またひとしきり泣いた。 「おい、右が男で左が女だ、焼くとき間違えちゃいけないぜ」  若者は運転手に大きな声でどなると、車の前を廻って助手台にのった。  ハイヤーも一台しかない。火葬場までついていくのは橘、紗絽女の父親と、それに万平老、友人を代表して牧数人ということになった。夏の午前の強烈な日光をあびながら、それは哀しくも寂しい旅立ちであった。     三  りら荘は急にしずかになった。  一同が食堂でぼんやり坐っているところに、睡眠不足の、そのくせ精悍さにあふれた顔をした由木刑事が二人の巡査をつれて現れた。 「駅の一キロばかりこちらでね、霊柩車とすれちがいました。橘君にしろ松平さんにしろ、またお花さんにしろ、親しく口をきいた人たちばかりですからな、心から冥福をいのりましたよ」  彼は食堂の入口に立って二条たちを見ながらいった。肩の重荷をおろしたせいか元気がいい。 「おや、牧さんは?」 「われわれを代表して火葬場まで行きましたわ」  とパイプをくわえた鉄子が答えた。 「安孫子さんどうしてますの?」 「いや、そう急には自白するものじゃないですよ。やはり観念してその気になるまでは、一両日かかるもんです。今度の事件は砒素の入ったココアの茶碗という証拠もありますからな。早ければ明後日あたり検察庁送りになるでしょう。しかしできれば残りのスペードのカードを押収して、ぐうの音もでないようにしたいと思いましてね、それを捜索しにきたんですよ」  由木はそういうと廊下の警官をうながして階段を上って行った。彼は安孫子の部屋に入るとスーツケースをひっくり返して、洗濯物や洗面具をかきまぜ、寝台のふとんをはぎマットをとりはずし、さらに洋服ダンスをのぞいたり床を叩いたり天井裏をさがしたり、昼食もとらずに徹底的な調査をおこなった。それにもかかわらずカードはどこからも発見されなかった。 「畜生、処分しやがったかな。尤もあれを押えられたら最後だから、部屋のなかにおいとくはずもない」  三人がひたいの汗をぬぐっているところにパリ帰りの二条がぶらりとやって来て、入口からなかをのぞいた。 「食堂にめしの仕度がしてあるというんですがね、喰べんですか。もうそろそろ牧君たちも帰ってくるころだ」  そういいながら、ベッドの端に腰をおろした。そして三人にピースをすすめ自分もくわえて、「由木さん、少々伺いたいことがあるのです」と妙に改まった調子になった。剣持警部からああした話を聞かされてたばかりでなく、相手のパリ風を吹かせる態度が気障で、由木はどうもこの男を好きになれない。しかしピースを貰った手前素気なく扱うこともできぬので、当りさわりのない返事をした。 「わたしにわかることならなんでも訊いて下さい」 「ぼくの知りたいのは、尼さんのレインコートが盗難にあったことに最初に気づいたのはだれか、そしてそれはいつごろであるかということです」  だしぬけに思いもよらぬ質問をうけ、由木は相手の顔をびっくりしたように見ていたが、やがてポケットから手帳をとりだした。 「さよう、盗まれたのは二十一日の朝ではなかったかといわれとるのです。あの日、朝食の後で安孫子と尼君とが些細なことから掴み合いの喧嘩をはじめたんですな。居合わせた連中が夢中になってそれを引き分けようとして汗をかいた。そのすきに盗られたらしい。盗む現場を見たものがいないからはっきりしたことは不明ですがね」 「どこにおいてあったですか、そのコートは?」 「トイレの前の壁の凹みに小さなテーブルがおいてありますが、その上にのせといたんですな。汚れがついたんで洗濯する気でいたのを、ついそのまま忘れてしまったというんです。しかし十時ごろ万平さんが雑巾をかけたとき、そこにコートはなかったというから、盗まれたのはやはり朝食のあとになるわけです」 「それに気づいて騒ぎだしたのは、だれで、いつごろです?」 「尼君ですよ。午後カラー写真の撮影から戻ったとき、ふと気がついて小テーブルをのぞいてみるとない。あわてて万平老人にたずねたところが、いまいったように掃除したときすでになかったという返事です。尼君すっかり口惜しがって、夕食のときまでふさいでいたそうです」  二条は満足そうにうなずくと、気取ったそぶりでタバコの灰をおとした。 「もう一つお訊きしたいですがね、橘君が松平さんに不貞を告白されて大いに悩んだという話ですが、彼女のよろめきというのは、具体的にどんなものだったのですか」 「それはわからない。牧君のいうところによると、具体的な内容についてはなにもふれなかったそうです」 「なるほどね。ですが刑事さん、松平君がどのような不貞をはたらいたのか、それをしっかり把握《はあく》しなくては事件の解決はできないんだぜ」  二条はまたあの傲岸な口調《くちよう》にもどると、その顔にかすかな憫笑《びんしよう》をうかべて由木を見返した。 「そんなことはない。安孫子はきっと一両日中に陥落しますよ」 「さあ、どうだか。ぼかあ大きな疑問だと思うな。それじゃ借問するですが、あの電話番号の正体はなんであるか。お花さんが嗅ぎつけた秘密はなんであったか」  由木は眉を上げて、いまいましそうに蝶ネクタイの二条義房をにらみつけた。 「それはまだわからんです。しかしかならず白状させてみせる。その自信はあります」 「自信じゃない、それは己惚《うぬぼ》れだな。錯覚ですよ。だが、ぼかあ解きましたぜ。レントゲン写真にとったように事件の骨格はその大半がすけて見えるです。残りの部分は東京に帰って調べてみなくちゃならない。しかもこれを解く自信はあるのです。本当の自信、己惚れじゃない、錯覚でもない、本当の自信があるです」  なんとも気障で憎々し気で、いやみのある調子だった。けれども、モーツァルトをモザーと発音したときのように浅薄《せんぱく》な感じはまったくない。なにか反撥されるものを意識しながらも、由木はこの男のいうことを無視することはできなかった。 「安孫子君をどれほど責めたところで、失礼ながら、あんたには事件全体の謎が解けるわけがないです。だが、ぼくには解ける。ははは」  無念そうに鼻のあなをひくひくさせている由木の顔をつくづく眺め、二条義房は愉快そうに歯をむきだしにして、笑った。     四  その高慢、傲岸、不遜《ふそん》、由木は相手の鼻っ柱をまっこうから叩きつぶしてやりたいほどのいまいましさを感じた。なるほどいけ好かないやつだ。なるほど非礼なやつだ。剣持警部の表現は、まだなまぬるいくらいである。  だが由木は怒らなかった。否《いな》、怒れなかった。相手の自信ありげな態度の前には、風化作用をうけた岩石のように、怒りの感情も崩れ去ってしまう。早い話が、リリスのレインコートが午前中に盗まれたという事実から、彼はいかなる推理をみちびきだしたのであろうか。残念ながら由木にはまるっきり見当もつかぬのであった。さらにまた、電話の謎がある。自分が酷熱地獄の東京へ出張して、一日がかりで飛びまわったにもかかわらず遂に解けなかった電話番号の秘密を、傲慢なこの男はりら荘から一歩も出ることなく、しかも由木より遥かにおくれてスタートしたというハンディキャップをもちながら、早くも真相に到達したという。いまいましいことであるけれども、心のなかで驚嘆せざるを得なかった。  二人の警官も思いは由木とおなじである。彼らはみじかくなったピースを吸いながら、憤怒と感嘆と猜疑のいりまじった複雑な表情をうかべて蝶ネクタイの男を見つめている。  一座の勝利者となった二条義房はますます得意になって反り返った。そしてレンズの奥のほそい目で、三人のみじめな男たちを軽侮《けいぶ》とあわれみの眸で見おろしていた。 「二条さん……」  由木は若干の躊躇《ちゆうちよ》のいろをみせながら呼びかけた。いうまでもなく彼が示したためらいは、警察官としての自負からきている。 「参考までにうかがっておきたいのだが、あなたの事件の解釈はどういうものです?」 「いまはだめです。それに、条件が一つある」 「どんな条件ですか」 「逮捕された安孫子君をここにつれてきてもらいたいです。同君を加えたすべての関係者の前で、事件の骨格、背景の一部始終を九〇パーセント解いてみせる」 「九〇パーセントというと、まだ解けない問題もあるんですか」 「あるですよ。正直のところ、二度目にハートの3とクラブのジャックが紛失した事件、これがなにを意味するものかぼくにもわからんです。犯人にはこれを盗む必要は全然ないはずだ。にもかかわらず二枚のカードは紛《な》くなっている。わからん。どうしてもわからん。しかしあとのことはほぼ完全に解けています。解けていない点も、これから東京へもどって調査すれば解ける自信がある。二、三日中には帰ってきますが、もしぼくの解決を聞きたいと思うならば、安孫子君を呼びよせてほしいです」  ひょっとするとこの男は頭が少しおかしいのじゃあるまいかと思われるほどに、自信のある調子だった。 「さあ、それはどうですかな。単なる窃盗犯《せつとうはん》ででもあるならば連れてくることも不可能じゃないが、安孫子は殺人容疑ですからな」 「だって、まだ送検したわけじゃないからいいでしょう」 「警察というところはね、手続きがわずらわしいのです。あなたの思うほど簡単なものじゃないのですよ」  二条の自信にあふれた態度が反感をよんでいた際でもあるし、いわせておけばますますつけ上がりやがるといった気持から、安孫子をつれて来ることにおいそれとは賛成できなかった。聞き手の数を一人でも多くしたいというのは、ショウマンシップの露骨なあらわれじゃないか。当局の係官をさしおいて、彼が犯人を前にして事件の成り立ちを説き去り説き来たり、安孫子を恐れ入らそうという魂胆も、いかにも二条らしい見えすいた見栄《みえ》である。彼の解釈も聞きたくはあるが、そこまで当局が下手《したて》にでる必要はない。 「それじゃぼくも解答を示すことはおことわりだ。ただ、いっとくですがね、あんたたちはとんでもないミスをやっとる。あとで悔んだって追いつきませんぜ」  と二条も反感をあらわにした。いったんは近づきかけた双方の距離がふたたびはなれようとしている。 「いいですか由木さん、耳をこちらに向けてよく聞いて下さい。この事件の真相を知ろうとするならば、ぼくがこれからいう疑問を片端から明らかにしていかなくちゃならんです。まず第一に、犯人はなぜ殺人のたびにカードをのこしていくか」 「もちろんその疑問にわれわれも気づいていますよ」 「気づいただけじゃだめです。解答をださなくちゃね」  いとも憎々しげにいって指をおった。 「第二に、行武君はなぜブルーサンセットといわれて怒ったか」  刑事は黙ってうなずいた。 「第三に、橘君はなぜ延髄を刺されねばならなかったか。換言すればです、溺殺《できさつ》するなり、あるいは絞め殺すなり、いくらでも手段があったのに、なぜ刺殺という方法をとったのか。これもきわめて重要な問題ですぜ」  由木は仕方なくうなずいた。 「いや、疑問はまだまだ沢山ある。しかしもっとも新しい謎は、行武君はなぜ殺されねばならなかったかという点です。安孫子君が行武を殺すいかなる動機をもっていたか、これをもっと慎重に考えてもらいたいですな。ここに事件の根本的な秘密がある。ぼくが、犯人は行武君を狙っているといったのはこの意味です」 「なぜ安孫子は行武君を殺さにゃならなかったんです」 「その質問にはこたえるすべがないですな。とにかく由木さんもぼくもおなじものを見ている。だからあんたにだって謎をとくことは可能なはずです。ぼくに訊かずに自分で考えることですな……。尤も、解けるはずはないですがね、ふふふ」  いやなふくみ笑いをして、肩をゆすった。 「ぼかあ、めしを喰べたら東京に帰って来るです」 「東京のどこへ?」 「そうですな、まずジャズかダンス音楽の専門家をたずねてみる」 「ジャズ屋にどんな用があるんです」  思わず訊き返すと、彼はまた笑った。 「『さらば草原よ』というアルゼンチンタンゴがアメリカで『|青い夕焼《ブルーサンセツト》』と呼ばれているのは事実か否か、まずそれから確かめてみるですよ」  ふざけているのかまじめなのかわからない調子である。  十一 解決近し     一  剣持警部も由木刑事もすっかり不機嫌になっていた。カップのなかに砒素化合物の存在が立証されたという事実をつきつけてみせても、安孫子はいささかの動揺もみせず、頑として自白しないのである。 「松平さんが飲んだココアの茶碗に砒素が入っておったことが明らかになっとる。その茶碗に手をふれた人物はあなた一人しかないことも明らかです」 「それはぼくも認めますよ」 「それなら自白したらどうです?」 「やりもせぬことを自白できるわけがないです。そんな無理な注文はせんで下さい」  警部はこの往生ぎわのわるい男に気分をそこなったとみえ、明らかに不快な表情になった。 「いいですか安孫子さん、茶碗のなかから毒物が検出されたとなると、論理的にいってあなた以外に犯人はないということになるんですよ。この論理はどこにだしても立派に通用するものです。まずあの茶碗に毒物をいれることができたのは、ココアを調理した松平さん自身か、さもなくば茶碗に手をふれた唯一人の人物、つまりあなただけということになるのです。いいですか、ここまでは」 「疑問があります。しかしそれについてはあとからいいます。話を聞きましょう」 「よろしい。投毒した人物が二名に限定されたところで、各々の可能性を追求してみます。まず松平さんが投毒したとすると、彼女が毒をのまそうと狙った人間はAとBとの両名のいずれかということになるのです。つまり、あとの人達は珈琲をのむ。ココアを注文した人間は、尼リリスさんと松平さんの二人しかいなかった。ですから毒入りのココアを飲ませようと狙った相手のAとBというのは、尼さんと、松平さん自身との両名であったことになるのです」  警部は論理的に犯人の可能性を消去して、最後にのこった安孫子をのっぴきならぬ袋小路に追いつめようとしているのである。だが安孫子も必死だった。相手の論理にわずかな隙《すき》でもあったら反撃にでようと、油断なく、熱心に耳をかたむけている。 「まず尼さんを殺そうとして、投毒した場合をとり上げてみる——」 「それは先日行武が述べたことです」 「そう、復習してみると、こういうことになる。犯人は松平紗絽女さんであって、かねてから、わがままな尼リリスさんを殺そうとチャンスを狙っていた。たまたま崖の上にたたずむレインコートの人物を尼さんと思ってつきおとしてみると、それは炭焼きの須田佐吉という男だった。そこでふたたび尼さんを殺そうとして毒入りココアをつくったけれど、運命の手違いから、自分が毒入りの茶碗をうけとったという主張でした。しかしその解釈が正しくないことは、いまとなってみると一層はっきりしてくる。というのはです、松平さんが死んだにもかかわらず、第三、第四、第五と殺人が続いておこっているからです。松平さんの死をもって事件がストップしているならばあなたの主張もとおるかも知れないが、いまはまったく成立しない観方ですよ。異議ありますか」  安孫子はだまったまま首をふった。口をきくのが大儀でもあるかのような表情である。 「するとつぎは、これはあなたの説なのだが、松平紗絽女さんがBを殺そうとして毒をいれた場合、つまり衆人の注目をあびながら自殺をはかったという場合です。しかしだれがあんな自殺の方法をとるでしょうか。あの後、わたしが自殺説についての感想を訊いてみると、尼さんが面白いことをいった。松平紗絽女さんは生来のロマンチストで、花のさかりの毛氈《もうせん》花壇にひとり寝て、星空をあおぎながら毒をのんだというならいかにもあの人らしいけれど、人々の前で喉をかきむしって、イスからころげおちて床に頭をごつんとぶっつけるように醜い死に方をするはずがない、というんです。なるほど、いかにもそうかも知れんと思いました。尼さんは女性だから、女性の気持ちが理解できている。たしかに心理的にみて松平さんの死に方は自殺とは考えられない」 「そうですね」 「第二にです。これはわたしの見解なんだが、松平さんが良心にめざめて尼リリスさん殺しを思いとどまったとする。そして炭焼きの須田さん殺しの罪にしても呵責をおぼえて、自分で自分を断罪しようとするんです。つまり自殺ですな。しかしね、松平さんが自殺するつもりで毒入りココアをつくったなら、その茶碗の分配をあなたに委せたはずがない。たとい彼女が、カップに目印をつけておいたにせよ、そんなことを知らぬ他人に茶碗の分配をさせれば、毒のココアが自分にくるか尼さんにいくか、チャンスは五分々々です。そうした無謀でずぼらなことをするとは考えられん」 「でも、こういうこともいえるんです。もし目印のついた毒入りの茶碗が尼さんの前に廻されたら、なんとか口実をもうけてそれをのませないようにするつもりでいた。だが実際には有毒カップがうまく自分の前に置かれたから、そのまま飲んで自殺したんじゃないですか」 「だめですな」  彼はにべもなく首をふった。 「心理的に松平さんがああした方法で自殺するはずのないことは、いまいったとおりです。しかも彼女は橘君との婚約を発表した直後で、幸福の絶頂にあったのですからね。自殺の動機がない」 「そりゃ妙じゃないですか」  と、安孫子はすかさず口をはさんだ。 「松平君は婚約が成立してもう大丈夫と安心したためか、橘にいままでの過失を告白してるんです。そのため橘がひどいショックをうけていたことは、牧がみんなに話したとおりなんです。当然松平さんに対する橘の愛情は動揺したでしょうから、落胆した彼女が自殺することは充分動機がありますよ」 「それが何度もいうけど自殺じゃないんだ。いまわたしがいったのは、あくまで仮定の話なんですよ」  警部は汗であぶらぎった顔をしていた。 「警察というのは、決してあなた方が考えるようにぼやぼやしちゃいないですよ。松平さんがのこした茶碗をしらべるにしても、単に毒物の検出ばかりに注意をむけたわけじゃないのです。その他あらゆる微細なことまで調べたんですよ。ですから、彼女の茶碗になんの目印もついていないことが判明しているんです。尼さんと松平さんの茶碗を識別するようなものは一切ない。まったく同じ茶碗なんです。九谷焼きの湯呑なんかだと、一つ一つ形の違ったところに価値あることもあるんだけれども、洋風の茶碗にはそんな趣向はないから、半ダースのセットが全部おなじ形をしているのは当然なことです。模様のズレもなければ疵もない。ですからどちらの茶碗に毒が入っているのか、本人の松平さんにわかるはずがないです」 「警部さん、なるほど心理的にみてああした自殺の方法をとらぬことはぼくにもわかります。しかしいまの茶碗の説は少々あやしいじゃないですか。カップ自体に目印がつけてなくたって、ココアの量で区別がつくはずですよ。一方に七分目いれて、他方に八分目いれれば、それで識別することは容易です。あなたは論理々々といわれるけれど、どこか抜けてるところがあるようですな」  安孫子は小柄な体を反り返して、その童顔にシニカルなうす笑いをうかべた。 「先刻ぼくが疑問があるといったのは、投毒のチャンスのある人物をぼくと松平君の二人に限定した点ですよ。カップにばかり執着《しゆうじやく》しないで、たとえば粉末ココアとか砂糖とか、そういった材料のなかに毒がまぜてあったと考えてもいいじゃないですか。そうなると、当時あの家の内部にいたすべての人間にチャンスはあるんです」 「いや、いわれるまでもないことだが材料はしらべましたよ。毒の入っていたものは一つもないのです」  警部の言葉を聞くや、彼は嘲笑に似た表情をみせて鼻を鳴らした。 「それで安心されちゃどうかと思いますな。真犯人Xが、仮りに粉末ココアの缶のなかに毒物をいれたとしてもですよ、松平君がやられててんやわんやの騒ぎをしているすきをみて、その粉末毒ココアを捨てて無害のものとすりかえることはいくらでもできるんですからね」 「そうはいうけどもね、一歩ゆずって粉末ココアの缶にあらかじめ毒をまぜておいたとしても、そんなこととは夢にも知らない松平さんは、その粉末ココアを練って、茶碗二杯の砒素入りココアをつくるはずですよ。その一杯をのんで一人が死に、おなじ一杯をのんで尼さんが無事でいられるわけがない。ですから毒の茶碗はただ一つしかなかったということになるんです。そのためには粉末ココアの缶やミルクの瓶や砂糖のつぼや、もっとつっ込んでいえば薬缶《やかん》の湯のなかに前以って毒がまぜてあったという見方は成立しないです。あらゆる材料には最初から一切毒物は混入されてなくて、それらの材料を調合してこしらえた二杯のココアの、一方に毒をいれたという場合しか考えられません。いいですか」  材料に毒が混入されていたのではないかという見解は簡単にやぶられ、この点は安孫子もすなおに認めぬわけにはゆかなかった。だがそうなると、やはり彼の立場が不利になる。だから安孫子は、なんとしても紗絽女自殺説にしがみつかぬわけにはゆかなかった。 「まだそんなことをいう。花はずかしき乙女が、あんなうすみっともない自殺をやるはずはないんです。わからないかなあ」 「わかりませんな。手脚をばらばらにされる鉄道自殺を、みずから求めてやる人もいるじゃないですか。ぼくだって、おそらくあなただってそうでしょう、鉄の車輪で断ち切られて、首と胴体がはなればなれのところに転がっているような無残な死に方はしたくない。また木の枝にぶらさがって、白目をむき鼻から血をたらすような首くくりなどまっぴらだ。上手に調合した睡眠剤をのんで、ねむりながら楽に死んだほうがどれほどいいかしれやしない。にもかかわらずです、鉄道自殺をする人も首つり自殺をする人もあとを絶たない。ということは、自殺者の心理がまちまちだからなんです。あなたがそんな死に方はいやだと思っても、べつの人は安直で手っとり早くて便利だと考えるはずだ。だから、松平紗絽女さんの自殺の手段をあなたの頭で判断したところで、納得できるわけがないんですよ」  彼の反撃は必死である。いざとなってみると、当局側は、紗絽女自殺説を否定するだけの準備のないことに気づかねばならなかった。尼リリスにのませる無毒のココアと自分がのむ有毒のココアとのあいだに、分量の相違による目印がつけてあったならばどうか。安孫子の唯一のよりどころがこの点であった。 「由木君、どうする?」 「弱りましたな……」  由木刑事は腕をくみ渋面をつくりながら、胸のなかで二条義房の言葉を思いうかべていた。 (松平君がどのような不貞をはたらいたのか、それをしっかり把握しなくては事件の解決はできないんだぜ……) (安孫子を一両日中に自白させてみせるって? さあ、どうだか。ぼかあ大きな疑問だと思うな。それじゃ借問するですが、あの電話番号の正体はなんであるか……) (安孫子君をどれほど責めたところで、失礼ながら、あんたには事件全体の謎が解けるわけがないです。だが、ぼくには解ける)  眼鏡ごしに柿のタネのような目で由木刑事を見下す彼の表情が、ありありとうかんでくる。鼓膜の底に二条の嘲笑がはっきりとよみがえってくる。由木の胸は歯噛《はが》みしたいような無念さにゆすぶられる。だが事実は、二条の予言したとおりになったのである。  松平紗絽女がどのような不貞をはたらいたのか、牧や尼リリスや日高鉄子に問い合わせてみたが、だれも知らぬ存ぜぬで明確な返答をしてくれるものはない。電話番号の意味するものは依然として判明しないし、いわんやお花さんがあの数字からどんなふうに謎をといたのか皆目見当がつかない。しかも彼が予言したとおり、事件は壁にゆき当ってしまったのだ。鋼鉄のような頑丈な壁ではなく、それはビニールのような半透明で容易につき破れそうな壁であるけれども、紗絽女がカップに目印をしたか否かというデリケートな点で、安孫子を降《くだ》すことができない。 「剣持さん、残念ですが二条義房に援助をもとめましょうか」  と、由木は無念そうに警部をかえりみた。うす汚れた壁にかこまれた署の一室、歩くたびに床の板が音をたてる。その音がよけいに彼の癇にさわるようであった。おまけに今日は朝から長々と小雨のふる、むし暑くて暗い日でもある。 「馬鹿な! あんな気障《きざ》な男の助けをかりるなんてとんでもない」 「ですがね、日高鉄子に訊いてみますと、なかなか推理の才能にめぐまれた男らしいのです。りら荘にああした事件がおきたのを知って、それを推理解決する目的で彼女と同行してきたのだそうです」  単なる遊びのために泊りにきたものと思いこんでいた剣持警部は、意外そうに眉をうごかした。 「まあ、人間だれにでも欠点はあるんですから、高慢ちきなところは目をつぶってやって、あの男の意見をのべさせてみようじゃないですか」  彼の種々の放言については、警部も由木からくわしく聞いて知っているのだ。 「だがね、ただでさえあのとおり傲岸不遜なやつだ。われわれが協力をもとめたとなると、どれほどつけ上ることか。正直なことをいうと由木君、ぼくはあいつが殺されたらさぞ胸がすうっとするだろうと、そんなけしからんことまで考えるんだぜ」 「わたしと同じですな。しかし憎まれっ子世にはびこるといいますからね、ああしたやつは殺したって死にゃしませんよ」  剣持はにこりともせずに小指のつめを噛んでいた。このままぐずぐずしていれば、勾留満期となって安孫子を釈放せざるを得なくなる。虎を野にはなてば第六の殺人がおこることも考えられ、それを思うと、ここは恥をしのんで二条の知恵を借りるべきであるかもしれなかった。 「由木君。止むを得ないよ、きみのいうとおりにしよう」  警部は腹の虫をむりにおさえつけた口調で同意した。由木もまた、思いは彼と異らないのである。     二  二条義房は二十四日の午後の列車で東京へもどっている。そこでりら荘の牧をたずねて連絡をとってもらうことになり、由木刑事が使者になった。かつては若人の笑声が高らかにもれてきたりら荘も、いまは巨大な墳墓《ふんぼ》のように陰鬱《いんうつ》で重々しい印象をうけるのだ。いまここにいる学生は、牧数人と尼リリスと、それから日高鉄子の三人きりなはずである。 「やあ、その後いかがです?」  玄関にでてきたブラック女史に声をかけると、鉄子は目をふせ、悄然《しようぜん》とした声になった。 「いましがた、行武さんのお骨をかかえて戻ってきたところですわ」 「そうそう、つい忙しいもんで昨夜のお通夜にも参列できなかったですが……」 「淋しいものでしたわ。二条さんはお帰りになったし、あたしどもと万平さんたち四、五人のお通夜でした。おまけに小雨がふるし……」 「あの応接間でですか?」 「ええ、やはりあそこで……」  あの広い部屋に四人きりで通夜をいとなむ。そして外には音もなく陰雨がふり続く。いかにも蕭々《しようしよう》とした情景が目にうかぶようであった。 「行武君ともまんざら縁がないでもありません。お線香を上げたいですが」  由木は辞を低くしていった。 「ありがとう存じます。行武さんのお兄さんが見えていらっしたのですけど、お骨をうけとるとその足で郷里へお帰りになりました。なんですかお勤めのほうがとても忙しいとかで、警察にご挨拶もできませんから由木さんと剣持さんによろしくとおっしゃって……」  由木は、小さな骨箱をもった行武の兄の姿をふっと頭の隅に想いうかべてみた。 「安孫子さん、お元気でしょうか」 「え? ああ、安孫子君? 元気ですよ」 「いまの警察って、むかしみたいに酷《ひど》いことはしないんですか」 「ええ、うちはその点ご心配なく」  この、男みたいなショートカットの女性がなぜ安孫子のことを気にしているのか、由木にはのみ込めない。いや彼女自身にしても、なぜ彼の身が案じられるのか理解できぬかもしれない。ともに失恋して、ねむられぬ夜を送ったその翌朝、洗面所で思いがけなく顔を合わせたときはじめて生じた特異な感情を、鉄子自身も気づかずにいるのかもしれぬ。  牧とリリスは食堂にいた。脂肪過多のリリスの顔が気のせいか少しやつれたように見える。 「あら!」 「またお邪魔に上がりましたよ」 「珍しいですな、もうおいでにならないのかと思いましたよ」  と、牧は陰気な空気を払うような元気な声をだした。  由木と鉄子が腰をおろすと、リリスがいった。 「由木さん、いよいよ明日、ここを発《た》とうと思いますのよ。ほんとにずいぶん思いがけぬことがありましたわ。恐しいことばっかし……」 「そう、帰られたほうがいいですな。しかしあとに残る万平さんが淋しいでしょう」 「それなんです、われわれの気がかりは」  牧が口をはさんだ。 「万平さんは近所の農夫たちに泊ってもらうといっていますがね、こうした大きな邸に人の気がたえてしまうと、淋しさをとおりこして、薄気味わるいでしょうからなあ」  それはそうであろう。空想をたくましゅうするならば、深夜のこの廊下のあたりを、成仏できぬお花さんや橘や紗絽女や行武の亡霊の群れが音もなくさまよっているかもしれないのだ。 「まったくねえ。昨日までは気がはっていたんですが、皆さんがお骨をもって引き上げてしまうと、とたんにがっくりとなって寂寞《せきばく》とした感情が身にしみますな。ねがわくば今夜泊っていただけませんか。このご婦人たちはいまから夜のトイレの心配をしているんです」 「いやだわよ、そんなことまでおっしゃっちゃ」 「だってさ、そういわなくては由木さんが泊って下さらない」  牧は冗談をいっているようだが、女性たちは真剣であった。 「お願いですわ。今晩ひと晩だけ泊って下さいません? こんな人里はなれたところで、あたし眠れやしませんわ」 「ほんとです、由木さん、お願い……」  二人の女性は哀願するようにたのんだ。由木は笑いにはぐらかして牧のほうを向いた。 「ときに牧さん、二条さんに連絡する方法はありませんか」 「ありますよ、電話番号をメモしてゆきましたからね」 「ほう、ちょうどよかった」 「ええ、由木さんか剣持さんが連絡をとりたいと申し出てくるはずだから、そのときは教えてやってくれといいのこしてでてゆきましたよ」 「へぇ!」  と叫んだきり由木は暫《しばら》く口がきけなかった。なんと先のよく見える男だろう。そしてなんと自信のある男だろう。ひょっとすると二条義房は、自分たちとは頭脳の構造が一桁《ひとけた》ちがう男なのかもしれない。 「で、どこに電話するんです?」 「わたしが呼びだしてあげましょう。しかし多分外出してるでしょうし、とすると簡単に連絡はとれないのじゃないかな」  彼はそういって廊下にでていった。  間もなく通話する牧の声が聞こえていたが、やがて受話器をかける音がして食堂にもどってきた。 「二条さんのアパートにダイヤルしたんですがね、やはり外出中なんだそうです。しかし行先がわかっているので、管理人からそっちに知らせてくれるというんです」 「や、ありがとう。……ところで、昨夜の通夜はさびしかったそうですな」  時間のかかることを知った由木は手近のイスをひき寄せて、雑談にもっていった。 「そうですの、行武さんは無宗教でしょ? ですからお坊さんもよばずに、万平さんと行武さんのお兄さんと、それにあたしたちだけ。ほんとうならクラスメートの方たちも来て下さるんですけど、あいにく夏休みで皆さん東京にいらっしゃらないでしょ、ですからとても淋しかったですわ。淋しいというより、みじめといったほうが適切ね」 「そうだな、橘たちの通夜に比べればね。生きてる時分にゃだれかれとよく衝突した男だが、哀れなもんだな、死んでしまうとね」  そうしたしめっぽい話を三十分も交わした頃であろうか、廊下の電話のベルが鳴りひびいた。 「よし、わたしがでる!」  由木は小走りに食堂をでて受話器をはずした。 「ああぼくだ、二条だけど……」  案外にはっきりした声である。 「なにかぼくに用があるとのことですが……」 「例の件です、たのみます」  牧たちに聞かせたくないので、由木はできる限り簡略にいった。二条は得意そうに笑った。 「了解、わかったですよ。そのかわりぼくの条件を聞いてくれるですか」 「安孫子君をつれて来ることね? 承知しました」 「よろしい、ではすぐこっちを出発します。ほとんど完璧に謎をといたです。例えばブルーサンセット。あれにはじつに大きな意味がかくれていたです。行武君が怒るのも当然です」 「それじゃ電話番号の謎も解けましたか」 「そんなものは、そっちにいるときに解いてるですよ」  相変らず高慢ちきな調子だった。 「それから例の不貞の件、あれもすっかり探ったです。ぼくがそっちへ着くのは六時半か七時ごろになるな。待ってて下さいよ」  いうだけのことをいうと、こちらの返事もきかずに切ってしまった。どこまでも無礼で気にさわる男である。  由木はその場で本署をよびだすと、剣持警部に結果を伝え、安孫子をつれてりら荘へ来てくれるようにたのんでおいて、食堂にもどった。六つの眸がいっせいにこちらを見る。 「安孫子君が来るんですか」  通話が聞こえたとみえる。 「ええ」 「釈放されたんですか」  鉄子がはずんだ声をだした。 「いえ、二条さんの注文なんですよ」  一同は彼のいうことがのみこめずに、不審そうな面持ちであった。 「つまりですな、二条さんは今日の夕方ここに帰って来て、安孫子君と対面した上、事件のからくりを一切ばくろするというのです。その、なんというかな、われわれの取調べは手が足りんものですから、いささか不満なところがある。二条さんは東京にいって、その不備な個所をおぎなう調査をしてくれたわけですな」  日高鉄子は明らかに落胆の表情をうかべた。リリスは黙って壁を見つめている。 「いやな話ですな。おなじ学校の先輩が後輩の罪をあばくなんて。まさかわれわれも同席するわけじゃないでしょうな。そんな場面は見たくないね」 「あたしもよ」  と、リリスが壁を見つめたまま同意した。 「ところがね、彼はそうして貰いたいのです。観客と拍手は多いほうがいいと思っているらしい」 「あいつの考えそうなことだ」  牧が吐きすてるようにいった。  由木は壁の時計を見上げた。三時十五分。二条が来るまであと三時間余りある。彼がどのような明快な推理を展開するか、思えば癪《しやく》でいまいましいことであり、それでいて待ち遠しいことであった。  十二 屋根裏にひそむもの     一  四時半を少しすぎた頃、安孫子は剣持警部らに護られてジープでもどって来た。鉄門の前に立ったこの殺人容疑者は、ちょっとのあいだ感慨をこめた眸であたりを見廻していたが、すぐ警部にうながされて歩きはじめた。両手に手錠がはめられているためか、いささか動作が不自由そうである。元来が髭のこい男だから、両のもみあげとあごの辺が墨をぬったように黒々としているものの、さほどやつれては見えない。  三人の男が本玄関に立つとすぐに由木刑事が出迎え、そのあとにつづいて牧とリリスと日高鉄子があらわれた。安孫子はなにかというと顔を紅潮させるたちだから、この場合もたちまち赤くなって、そっぽを向いた。 「あら、案外元気そうじゃないの」  と、リリスがその場の空気にそぐわぬような、はずんだ声をだした。安孫子はますます赤くなると横を向いたきりであった。 「ほんと、よかったわ」  日高女史も言葉少なに同意した。そして彼の手許を見やると、とたんに痛ましそうな表情になった。 「まあ、手錠はめられているのね」 「可哀想じゃないの。由木さん、はずして上げて頂けません?」  リリスはいつになく同情するように、刑事の顔をみた。 「だめですな、重大な殺人の容疑者ですからな」  にべもない返事である。リリスはつんとした表情で警部のほうを向きなおると、はげしく抗議した。 「ねえ、ここにいるあいだだけでも手錠をとってほしいですわ。お友達があんな取扱いされているのとても見ちゃいられませんもの」 「そりゃあなた方の気持はわかりますけどね」  剣持警部はいくらか迷惑そうだった。 「なにしろ重大な容疑者ですからね。そうした無責任なことはできませんよ。逃亡されたら一大事だし——」 「でも警部さん」  とリリスはすばやく口を入れた。 「もう写真も指紋もとってあるんでしょ? それなら逃げたところで逃げおおせるはずもないじゃありませんか。安孫子さんだって、あなた方にご迷惑をおかけするような真似はすまいと思いますわ」  リリスのあとにつづいて日高も熱心に口添えし、それまで黙々としていた牧までが頼んだものだから、つき添ってきた二人の係官もついに譲歩する気になったとみえる。 「それじゃこういうことにしましょう。われわれとしては安孫子君を終始監視下においておくつもりでいたのですが、一歩ゆずって、このりら荘の内部に限定して自由にどこにいってもよろしいということにします」 「まあ、よかった!」 「だが、です」  警部はリリスをじろりと見て、きびしくいいそえた。 「手錠ははずさせませんぞ」 「あら」 「仕方ないでしょう、おたがいに譲歩したんだから」  と、横合いから牧が口をはさんだ。お喋りの女性たちに比べると彼は口数が少ないから、つまらぬことをいっても、女たちが同じことを喋った場合よりもはるかに尤もらしく聞こえる。彼の一言で、ともかく安孫子は手錠をはめたままの制限つきではあるが、りら荘のなかでは自由行動がとれるようになった。 「そのかわりです、われわれも安孫子君が馬鹿な真似はすまいと信じて釈放するんですから、安孫子君もわれわれの信頼にそむくような行動はとって頂きたくない。誓いますね?」 「ええ」  と、安孫子はふてくされた口調で同意した。牧たちが交渉してくれているあいだ、彼はまるで他人事のように無関心な表情で壁のほうを向いたきりだったのである。  三人の男がそろって靴をぬぎはじめると、リリスは気をきかして三足のスリッパをとりだして、赤い絨毯の上にならべた。手錠をはめている安孫子が体の平衡がとれなくてよろけかかる。すると鉄子がすばやく腕をかして支えてやった。牧は一歩しりぞいて壁によりかかったまま、べつに何をするでもないけれど、この殺人容疑者を見る眸は決して冷たいものではなかった。  安孫子は、彼らが自分を敵視することを予期していたのであろう。案に相違して暖かい、いたわりの腕をさしのべてくれたのだから、普通ならば感謝してよいはずのところだが、元来が人を見下したがるこの男の性格として、素直にそれをうけ入れることができない。この男は、ことごとくひねくれた反応を示すのであった。  一方、牧たちが彼を憎悪しないのも、世間によくある殺人事件の犯人とはちがって、安孫子はおなじ釜のめしを喰った友人であるからなのだろう。安孫子を憎んで迎えにもでぬのは、細君を殺された万平老人だけだった。尤も彼は、今朝から持病のリューマチスが悪化して起き上ることもできないのである。 「ねえ日高さん、今夜のごはん何にしたらいいかしら?」  リリスは早速料理の相談をはじめた。 「そうね、皆さんがお見えになったんだし、あたしたちの最後の晩餐《ばんさん》なんですもの、なにかご馳走しましょう。それにお風呂もたてて……」 「いいお肉は売ってないし……、やっぱりお魚ってことになるわね」 「そう、早くしなくちゃ間《ま》に合わないわ」 「いいわよ、牧さんにお願いして、自転車で駅前まで行ってきて頂くわ」  そういう会話を通りすがりに聞いた安孫子は、ぴくりと眉をうごかすと、振り返りざま顔色を変えた。 「最後の晩餐てなんだい?」  自分を諷《ふう》されたと思ったらしい。 「あら、あんたのことじゃないわ。あたしたち、明日ここを発って、東京に帰るのよ。事件は終ったし、いつまでいても仕様がないじゃないの」  安孫子はいましがたの怒気はどこへやら、肩をおとすとしょんぼりした表情になって、「そうか」と呟くようにいった。決して気の合った友人ではなくて、ことごとにいがみ合った同僚ではあったけれども、いざ全員が東京に引き揚げてしまうとなると、独り残されるものの淋しさが急にこみあげてきたとみえる。 「おれは部屋で休んでくる」  だれにともなくそういうと、重たい足取りで階段を上がっていった。警部はその小柄な後ろ姿を見上げていたが、やがて由木をかえりみた。 「きみ、窓から逃げることはできまいね?」 「大丈夫ですよ。手錠をかけてあれば絶対に逃げられはしませんよ。それよりも自殺の心配は——」 「ないさ。例の、茶碗の目印のことでやっこさんわれわれを論破した気で得々としているんだからね。むしろ注意せにゃならんのは、二条義房が彼の犯行を完膚《かんぷ》なきまでにあばいたのちのことだ。そうなりゃ絶望のあまり、何をやらかすかわからんからな」  剣持の自信にみちた口吻《くちぶり》が刑事の抱いた一抹の不安をふきとばしてしまったとみえ、由木は安心した面持ちになると、先に立って客間に入っていった。すでに通夜の席はきれいに片づけられて、部屋の中央には、以前のようにあつい布をかけた大きな丸テーブルと、麻のカバーをはめた安楽椅子がおいてある。ふっくらとした感じを味わうかのように剣持はふかぶかと腰をかけて、タバコをとりだしておもむろに火をつけ、旨そうに一服した。  炊事場では二人の女性が野菜の皮をむきはじめた。牧は買い物をたのまれて駅前の魚屋まででかけていった。  りら荘はしずけさのなかにとけ込んだようであった。炊事場から、断続してかすかにまな板の音が聞こえてくるばかりである。警部は幾本目かのタバコを灰皿の上でねじり消すと、そのしずけさにはばかるような小声で、「安孫子もおとなしいね。眠ってるのかな」と呟いてから腕時計に視線をおとした。 「そろそろ二条が帰って来るころじゃないか」 「いえ、まだでしょう。駅につくのが六時半といってましたからね」 「そうか、それじゃまだ一時間ほどあるね。きみの話では彼ひどく自信ありそうだということだが、一体どんなふうに謎をといたのかな。ああした男に推理の才があるとは、まったく人間て見かけによらぬものだ」  それからしばらく、二人のあいだには二条の話が交わされていた。  牧は魚を買ってもどり、間もなく炊事場からは揚げ物をする音とともに香ばしいにおいが客間のなかにまで漂ってきて、そろそろ空腹になりかけた係官たちの胃袋に郷愁を感じさせたりした。 「お食事どうなさいます? 二条さんがお帰りになるまでお待ちになりますか、それともお先に……」  入口で顔をのぞかせた日高鉄子がちょっと切り口上で訊いた。 「いや、われわれのことはお構いなく。しかしご馳走して下さるなら、二条君の帰りを待ってからにしたらどうです? もうそろそろ戻ってくるころだ」  由木は手頸の時計をみた。二条の高慢ちきな顔を前にすれば食事は旨かろうはずがない。だが、まさか先に喰いたいともいえぬではないか。  鉄子がひっこむと、食堂で皿をならべる音がしていたが、それもすぐにしずまった。 「……遅いねえ」  剣持がじりじりしだしたのは、六時四十分をすぎたころである。二条の帰りが待たれるのは事件の真相が解明されるからではなくて、食事にありつけるという現実的な欲求にもとづくものであった。 「たしかに遅いですな」  と合槌をうちかけた由木は、言葉の途中で鼻の孔《あな》をひろげると、いぶかしげな表情をうかべた。 「おや、なにかがくすぶっている」  いわれて警部も大きな鼻孔をひくひくさせた。いかにも燃えさしの薪がいぶっているような臭いがする。 「炊事場のほうじゃないですか。小火《ぼや》でもだしたら大変だ。だれもいないのかな?」  由木は入口に立って廊下の奥をうかがっていたが、気になるらしく出ていった。空腹の極に達した剣持は立ち上がるのはもちろん口をきくのも億劫《おつくう》になり、肥った体を大儀そうにイスによりかからせて、暮れかけた庭の花壇の黒ずんだカンナを眺めている。  間もなくもどってきた由木はいったん部屋に入りかけて立ち止ると、壁のスイッチを押して天井の灯りをつけた。 「どうだった?」 「大したことじゃありませんよ。風呂のたき口で燃えかけていた薪が転げおちていたんですよ。コンクリートの床だから火事になるはずはなかったんですがね。それにしても二条はなにをぐずぐずしてるのかな。腹が減ってたまらん」 「列車の延着じゃないかね?」 「そうですな、ちょっと駅に訊いてみますか」  彼は肥っていないから動作が軽い。すぐ立って廊下で電話をかけていたが、ぶつぶつとこぼしながら戻ってきた。 「列車は定時に到着したそうですよ。あの列車に乗っていたとすれば、とうにここに帰っていなくちゃならぬはずです」 「つぎの汽車は?」 「二十一時十分ですから、まだまだですな。東京を発つのが遅れるなら、その旨を電話で知らせてくれればいいじゃないですか。おかげでわれわれまで、餓え死にをしなくちゃならん」  と由木は口をとがらせた。  二階の連中も二条の帰りが遅いので業《ごう》をにやしたらしい。彼を待たずに先に夕食をはじめたいがどうであろうか、とリリスが応接間をのぞいて訊ねた。剣持も由木も異論のあるわけがない。 「それじゃすぐ仕度をはじめますわ。五分ばかりお待ちになって……」  そういってリリスが食堂に入っていったかと思うと、料理を温めなおす香りが漂ってきた。とたんに係官たちは、蘇生した面持ちになってため息をついた。ディナーチャイムが鳴らされたのは、それからかっきり五分のちのことであった。  食堂では手錠をはずされた安孫子をはさんで、その左右に三人の捜査官が坐り、この四人と向き合ってリリスと牧と日高鉄子が腰をおろした。安孫子が妙な真似をすればただちに剣持たちの責任問題となる。だから彼らは片目で料理の皿をながめ、片目で安孫子の動きを監視するという芸当をやらねばならなかった。しかし当の安孫子は係官の気持などてんから忖度《そんたく》しない。両手が自由になったことを喜ぶように、ナイフとフォークをいそがしく動かし、うまそうに舌鼓をうっていた。  彼らと向い合った三人の男女の胸中を去来するのは、そもなんであろうか。いよいよ明日りら荘をあとにするとなると、この一週間が不快でおそろしい日々の連続であったにしても、それなりにさまざまな思い出があるはずだ。舌で料理を味わいながら、同時に心でその思い出をかみしめているのかもしれなかった。  それでも、食事がすむとどうやら人々の話もはずむようになった。芸術のげの字も理解しそうにない警察官たちと共通した話題をもとめようとすれば、座談の内容もおのずから限定されてくるのは止むを得ないであろうし、また、自由を剥奪《はくだつ》された安孫子を前にしては、以前のような奔放《ほんぽう》な会話も遠慮しなければなるまい。だから彼らのあいだにかわされた話は、あたりさわりのない、それだけに一向に面白味のないものばかりであった。  一同のなかで鉄子のみが沈黙して、しきりに何かを書きしるしている。 「なんですか」  由木がのぞき込むように訊ね、鉄子はあわててメモをかくそうとした。 「あら」 「ほう、こりゃ面白い」  そういってしまってから、刑事は失言に気づいてあわてて口をつぐんだ。鉄子がメモを書きつづっていたのは、炭焼きから行武にいたる犠牲者たちの名前であったからだ。 「あたしが気づいたのは、この犯人がヴァラエティに富んだ殺し方をすることなの。崖からつき落して墜死させるかと思うと、絞め殺したり刺し殺したり毒をのませたり……。一つとして同じやり方をしていないじゃありませんか」 「どれどれ……」  と由木は紙片を手にとった。 「……炭焼きはつき落されて殺され、紗絽女さんは毒をのまされて殺された。橘君が刺し殺されてお花さんが絞め殺され、そのつぎの行武君は撲殺されたと……。なるほど、一つとしておなじ手段を反復したケースはないですな」 「犯人の見栄なのよ、きっと。愚劣だわ」  と、リリスが横から鼻にかかった声で軽蔑するようにいった。この肥ったわがまま娘は、こういう発言をするときがいちばん板についているな、と由木は思う。 「あなたの説がただしいとするとですよ、犯人は当分のあいだますます多忙となるですな。射殺、溺殺……、まだいろんな方法がのこっていますよ」  刑事として穏当を欠いた言葉だったと非難されても仕方はないが、由木の真意はそうではなく、鉄子の見解に対して婉曲に批判をこころみたかったのである。犯人は洒落や冗談でこんなことをやっているのではあるまい。そこには、そうしなくてはならぬような、ぎりぎりの切羽つまったなにかがあるのではないか。 「批評家にマナリズムだといわれるのがいやだったんだな。やつらはすぐこの言葉を使いたがるからな」  批評家に対して早くも敵意をもっているような牧がいうと、バスの安孫子は不愉快そうにそっぽを向いた。 「もうこれで決着がついたからいいようなものの、あたし心配で気が狂いそうだったのよ。今度はだれが殺される番かと思って。だってそうでしょ、この殺人事件には動機なんて無視されているんですもの」  このリリスの発言は明らかに当てこすりだった。安孫子はさらに眉をよせ、頬をふくらませて顔をそむけた。 「そうだ、まだ夕刊がきてないな」  突然に牧がそういったのは、二人の争いに嫌気がさしたせいかもしれなかった。立ち上ると鉄門の新聞受けをのぞくべく、食堂をでていった。 「ほんとに二条さんどうしたのかしら?」  と、思いだしたように鉄子がいい、リリスが「そうねえ」と応じた。安孫子はそっぽを向いて牧からもらった煙草をふかしている。  由木刑事は機械的に腕時計に目をおとした。八時半をすぎようとしていた。二十一時十分の列車で来るとすれば、ここに帰り着くのは十時頃となるわけだ。彼も内心では二条義房の帰りがおそいことにいらいらしていた。はやく疑問点を解決してすっきりした気持になりたいと思う。 「警部さん、ちょっと署のほうに連絡をとっておきます」  由木がそうことわって、電話をかけようと腰をあげたときである。暗い庭のほうから牧のひどく狼狽した声が聞えた。由木はすかさず窓にとびついて金網戸をおしひらき、首をつきだして裏庭をすかし見た。 「おい、どうした。どうしたんだ?」 「大変だ、二条君がやられてる。来て下さい。早く、早く」 「よし、手をふれちゃいかんぞ」  牧のただならぬあわて方から異変を察した剣持警部は、早くも食堂をとびだしていた。肥ってはいるが、いざとなるとさすがに敏捷《びんしよう》である。 「きみ、手をだしたまえ」  乱暴に、有無をいわせず安孫子に手錠をかけるや、由木も食堂をあとにした。内玄関でサンダルをつっかけて走りだすと、表門と本玄関をむすぶうす暗い路の上に、警部がひざまずいている。  剣持は、足音を聞くとふりかえってズボンの膝をはたいて立ち上がりながら、無念さをむきだしにして、怒った口調で告げた。 「だめだよ、とうに冷たくなっている」  牧が急になにかを思いだしたように本玄関にかけこんだかと思うと、ポーチの電灯をつけてくれたので、その光で由木は倒れている二条の姿をよく見ることができた。高慢ちきなこの男は、死んでもなお由木を嘲笑するかのように小鼻にしわをよせ、歯をむき出し、顔をポーチのほうにねじむけていた。両手と両足を蟹のように折りまげたところがひどく不自然だが、死因がなんであるか咄嗟《とつさ》に判断がつかない。 「由木君」  警部の声はくやしさにふるえているようだ。 「ここを見たまえ」  指さされた屍体の暗いかげに、なにやら細長い矢のようなものがおちている。剣持は注意ぶかくそれをひろって灯りにかざしてみせた。普通の弓の矢とはちがって、矢羽根にあたるところが円錐形《えんすいけい》をしているのだ。 「吹き矢……じゃないですか」  由木はテレビかなにかで原住民の吹き矢を見た記憶があった。それとこれとは円錐形の部分や全体の長さにかなりの相違はあったけれど、吹き矢に共通した特徴をもっている。 「そうさ、吹き矢だよ。きみがいったことが早くも実現したのだ。というよりも、犯人はきみよりも一歩先をいっているんだ。吹き矢を用いても、射殺であることに間違いはないのだからな」  明らかに興奮をおさえきれない口調だった。暗いからわからないが、由木の目にも狼狽のいろがあった。 「驚きました。わたしは銃器による射殺のことを考えていたのです。犯人が拳銃を所持していたなら、とうにそれを使用したに違いないと思うのです。なんといっても便利ですから。それを使わなかったのは、銃砲火器類を携帯していないためだと、そう解釈したのです。だから、射殺なんてことは起るまいと思って、ああした発言をしたのですよ」  弁解口調になったのがわれながらいまいましかった。剣持は黙ってうなずくと、矢を持ちなおしてその先端を目に近づけた。ちょうど三ツ目|錐《きり》を大きくしたような恰好をしており、赤黒く変色したものがついているのは血に違いなかった。 「二条はこれでやられたんだ」 「そうですな。つき立っていたやつが倒れる拍子にぬけおちたんでしょう」 「毒矢だね。そうなると、毒物はなんだろう」 「クラーレかもしれませんよ」 「そうだな、戦前は滅多になかったが、戦後はそれほど珍しいもんでもあるまい」  そういいながら剣持は吹き矢片手に、うす暗い光をすかして何物かを探すようにしていた。彼の求めるものがなんであるか、由木もすぐ悟《さと》ったとみえて、小腰をかがめておなじようにあたりを探しはじめた。 「あった、あった」  剣持の叫び声を聞いて由木がふり向くと、警部は本玄関の横手にあるライラックの植え込みのなかに手をのばして、一枚のカードをひろいあげていた。そしてポーチの灯りの真下に立って仔細にながめていたが、由木をかえりみると、早口でいった。 「スペードの6だ。いよいよもってなめた真似をするじゃないか」  光線が充分でないからはっきりとはわからないけれども、その口調から察すると、彼の頬はいきどおりのために真赤になり、ひくひくとふるえているに相違なかった。由木と牧は同時に警部のカードをのぞきこんだ。まぎれもなく盗まれたスペードの第六枚目のふだである。 「……それにしても、屍体とカードが落ちていた位置とが少々はなれすぎていますな」  剣持はみじかく頷いたが、そこでなにを思ったのかポーチを降りて、二、三歩いったところでふり返ると建物を仰いだ。 「由木君、犯人はあの窓から狙い射ちにしたのじゃないか。被害者を倒したのちカードをなげすてれば、おそらくこんな結果になろうじゃないか。犯人は須田殺しのときも、やはり崖の上からカードを投げ下ろしていたからな」 「なるほど」  と由木もポーチをおりると、肩をならべるようにして上を見た。前にも述べたように、りら荘はマンサード風な建物であるから、二階の上にさらに屋根裏部屋があった。いま見上げているのがそれで、本玄関の上の壁に二つの窓がついている。 「そうですな、あの窓で見張っていて、彼が帰ってくるところを一発のもとに射殺したと考えてもいいですね」 「ぼくはここに番をしている、きみは駐在所に電話をして巡査を呼んでくれ。いうまでもないが本署にもすぐ連絡をとってもらおう」  さすがの剣持もすっかり落着きを失って、そわそわした口調で命令した。     二  牧たち四人を食堂に缶づめにすると、駆けつけた駐在巡査に屍体の張り番をさせて、剣持と由木は屋根裏を調べることにした。  りら荘内部の間取りには、前にもちょっとふれたと思うけれど、玄関のすぐ右隣に階段があって一階から二階へ、さらに屋根裏部屋へとつうじているのである。二階の階段を上りつめた屋根裏部屋の入口は、玄関の真上にあたっていた。  ふたりの捜査官はその扉をあけ、スイッチを入れて電灯をつけた。そこは部屋という観念からはほどとおく、階下の洒落《しやれ》た雰囲気とはまるで異ったがらんどうであった。離れた二本の梁《はり》にそれぞれ電灯がさがっているけれども、それだけでは充分な照明にはならずに、あちらこちらに光の死角が隈《くま》をつくっていた。  本玄関の真上にあたる観音開きの窓を押しあけてみると、ななめ下の地上に二条の屍体と、張り番をしている駐在巡査の姿が見おろせた。 「ちょうどいい角度じゃないか。吹き矢というやつは真下にくると狙いをつけるのがむずかしいというからな。ここで二条の帰って来るのを待ちうけて、射程距離に入ったところをやっつけたんだな。それにしてもよく当ったもんだよ、文明人は滅多に吹き矢なんていじることはないんだものね」  窓をとじると陳列ケースのところにもどった。以前、藤沢勘太郎氏がここを別荘として使っていたころは、机やイスなども持ちこんで結構な書斎の形をなしていたのだろうが、いまはそうした調度はほとんど運びだされてしまい、当時のままの状態でのこされているのは三つの陳列ケースと、ぐるりの壁にかけられた二百個ちかいお面だけである。そのお面も、おかめヒョットコからはじまって、鬼の面に狐の面に天狗の面、中国の古代劇の人物を模した泥の面から南方の原住民の面、現代のメキシコのどぎつい原色の面もあれば、ギリシャの古い悲劇の面まで蒐集《しゆうしゆう》してあるのだった。  藤沢氏が拳銃自殺をとげたあと、亡夫の蒐集を散逸させまいとした未亡人は、芸術大学の学生のなんらかの参考になれば幸いだといって、お面をそっくりそのまま寄贈してくれたのである。あるいは怒りあるいは泣き、道化たり笑ったりしている無数のお面にかこまれていると、いまにも彼らのつぶやく声が聞えてくるような思いがして、迷信や俗信にはとんちゃくのない由木や剣持も、ふと妙な気持になるのだった。 「こんな面にとりかこまれて悦に入っていたなんて、藤沢勘太郎という人も、変った趣味をもっていたもんですな」 「よほど細君がまずいつらしてたんだろうよ。おかめの面を見て気をまぎらしていたのじゃないかね」  と、剣持はようやく冗談を口にするゆとりができたらしかった。余裕が生じたというよりも、軽口でもたたかなくてはこの奇妙なぞくぞくするようなアトモスフェアに圧倒されてしまいそうなのだ。  二人は陳列ケースの前に立った。原住民のお面を蒐集するついでに入手したものであろうか、南方出来らしい頸飾りだとか骨製のナイフだとか弓矢だとか、さては笛だとかタムタムだとかいったものが、三つのケースに並べられてある。どれもこれも手垢でよごれたうすぎたないものだが、かえってそこに、原住民の生活のいろがにじみでているように思われた。  剣持たちの注目をあつめたのは、それらのあいだにはさまった一つの空白である。 「由木君、吹き矢はここに飾ってあったのじゃないかね」 「そうですね、しかし吹く筒も矢もないじゃありませんか。どこかそのへんに転がっていやせんですかね?」  由木は小腰をかがめて床の隅を探し求めた。 「指紋をのこすようなヘマはしまいが、筒の吹き口に唾液《だえき》がついていれば犯人を示す重要な証拠品になる。だが待てよ、あいつがそんな間抜けなまねをするだろうか。由木君、あの利巧な犯人がそんな……」  いいかけた言葉を中途でのみこんでしまったのは、由木が奇妙な表情をうかべて壁のお面をにらんでいるのを見たからである。 「どうした由木君、その面に——」 「そうじゃないんです。わたしがとんでもない馬鹿なまねをしたことに気づいたんです」 「馬鹿なまねって、なんのことだい?」 「先刻ふろのたき口から薪が転げおちていたといったでしょう? その薪というのが木をくりぬいた見なれぬ筒の形をしていたんです。うっかりしていたんですが、いま考えるとそいつが吹き矢の筒なんですよ。知らぬもんだから、その重要な証拠品をわざわざわたしが親切に押し込んで燃やしてやったんです」  口惜しさと可笑しさと自嘲とがいりまじってゆがんだ由木の顔の半分を、梁の影が黒くそめている。もし犯人がこのことを知ったならば、刑事の間抜けな行動に、さぞかし腹をかかえて笑うことであろう。 「犯人は首尾よく二条を射とめるとそっと一階におりて、証拠を堙滅《いんめつ》するために、燃えている風呂場のたき口に兇器をつっこんで逃げたんだ。だがきみ、そう残念がることはない。二条を殺したのがだれであるか、われわれにはよく判っているじゃないか。二条を生かしておいて都合のわるい人間はただ一人しかいない」  剣持は力づけるようにいうと、かたわらの陳列ケースのふたをあけた。 「見たまえ、ここに弓が三種類ある。吹き矢なんてしろものよりこっちのほうがずっと使い易い。にもかかわらず彼が吹き矢をえらんだのは、犯人が両方の腕をこうして開くわけにはゆかなかったことを意味してるのじゃないかね」  そういうと弓を手にとり、矢をつがえることなしに弦《つる》をきりきりとよっぴいて、天狗の面に狙いをつけて、ひょうと射た。弓弦《ゆづる》のはじける音が、ほこりくさい屋根裏の空気をかき乱した。 「にもかかわらず吹き矢を使ったというのは、つまり犯人の両手が——」  そこで剣持はおや? というふうに聞き耳をたてた。 「自動車じゃないか……?」 「さあ……」  由木も耳を立てて窓のほうを向いた。今度はあきらかに警察ジープのクラクションがきこえ、それにつづいて砂利を噛むタイヤの音と駐在巡査の声がした。 「きみ、沢村さんが来たようだ。ここの調査はあとにしよう」  沢村というのは例の警察医のことである。二人は屋根裏部屋を出ると階段をおりはじめた。  十三 トリカブト     一  お花さんが殺されたときはたびかさなる事件に動転していた沢村嘱託医《さわむらしよくたくい》も、いまはすっかり慣れたとみえ、まず白麻のズボンの膝をたくし上げておいてから、膝まずいて、おちついた態度で屍体を調べていた。あの高慢ちきで気取り屋の二条義房が、あさましい恰好で砂利道の上にころがり、瞼をあけて瞳孔をしらべられたり、口中をのぞかれたりしているのをみると、どれほど気取ってみても威張ってみても、死んでしまえば万事おしまいであるといった感慨が、由木刑事の脳裡をちらとかすめた。  屍体には特別な所見もないらしくて、解剖と、矢毒がなんであるかをつきとめるための科学検査をいそぐこととなった。 「最初わたしはクラーレ中毒じゃないかと思うておったのですがね、しかしこの吹き矢は、アイヌの使っとるものによう似とるのです。学校が北海道でしたから、ときどき見たことがある。そうすると矢毒はクラーレなんぞではなくて、トリカブトじゃないかと考えられるのです。ご存じかもしれんですが、この毒草は北海道ばかりでなくて、本州にも野生しとりますからな」  警部と由木はだまったままこっくりした。両人ともトリカブトという植物は話に聞いている。草丈が三尺あまりに伸びて、秋になると紫色の穂状《すいじよう》の花が咲く。猛毒をもっているにもかかわらず花が美しいために、切り花にされることもあるのだ。 「だいぶ以前の話ですが、ある博士が強精剤としての用量を誤って、毒死したことがありました」  と剣持警部がいった。 「そうそう、わたし晩年のあの博士を知っていますよ。まかりまちがうと大変なことになりますが、強壮剤としては霊験あらたかなものでしてね、博士も青年のように色艶のいい方だったですが……」  医師は往時をしのぶような声音《こわね》になった。 「恐しいもんですよ、ああした専門の方さえ中毒死されるんですからね」 「致死量はどのくらいです?」 「乾燥根ならば〇・五グラムから一グラムですな。トリカブトの毒はアコニチンというやつでして、これの純度の高いものだと〇・三グラムで充分ひとを殺せます。分量が多いと、ショック死に似た状態できゅっと参ってしまうんです。多分この被害者も声をあげることすらできなかったのじゃないかと思いますね」  医師はそう語りながら、先が赤黒く汚れた兇器を、職業的興味にかられたのであろうか、熱心にながめていた。 「……アイヌ人でもない犯人が、使いなれない吹き矢を用いて、ただの一発で的中できたとは思えないな」  由木はそうつぶやきながらあたりをすかして見ていたが、果して少しはなれた砂利道の上にヒッソリと横たわっているもう一本の吹き矢を発見した。 「思ったとおりだ。犯人は何本か発射したのです。そのなかの一本が命中したわけですよ。夜があけてからよく探せば、はずれた矢がまだ一、二本は転がってるかもしれんです」  警部は手渡された矢をじっくり見ていたが、やがて由木をかえりみた。 「ねえきみ、藤沢氏がこうした武器を蒐集した際に、危険をふせぐために矢毒を洗いおとしたことも考えられるじゃないか。周到な犯人は、これを兇器として用いる前にそのことを考えなくちゃならんはずだな。仮りに毒が洗いおとされてあったなら、二条はかすり傷をうけただけでけろりとしていたわけだし、すぐ屋根裏の窓に気づいて犯人の存在を知ってしまう。だから犯人は、使用する前にあらかじめ毒物がぬってあることをなにかで験《ため》してみて、確信をもっていたと考えなくちゃなるまい」 「動物実験ですか」 「多分ね。そんな気配はないようだったが、のら猫でも呼び入れてやってみたかも知れぬ。あとで駐在巡査と手分けして、屋根裏部屋や邸のまわりを調べたほうがいいだろう」  警部がそういったとき、それまで黙っていた医師が口をはさんだ。 「ちょっと。トリカブト毒だとするとわかる方法があるんです。その吹き矢を拝借」  手にとると慎重な態度で先端をなめて、すぐに唾をはいた。 「アコニチンは、なめてみると舌にびりびりとくるんで、すぐに見当がつくんです。やはりこれはトリカブトらしいですな」 「なるほど。その鑑別法は一般化しているものですか」 「いや、それはね……」  と医師は否定的な口吻《くちぶり》だった。 「植物学とか毒物学に知識もあるものでなくては知りますまいな」 「安孫子にゃ、植物学の知識も毒物学の知識もなさそうだね」  と、剣持は由木刑事をかえりみた。 「やはりのら猫を探してもらおう」 「はあ」 「猫とばかりは限らんが……。おや、どうかしましたか」  剣持は医師の態度に不審なものを感じたらしい。 「いえ、ただね、この吹き矢は相当古いものだが、そのわりに矢毒があたらしいような気がするんですよ。舌がまだひりっとしている。これで射られればひとたまりもないですな」  彼はそう答えると、屍体を運ぶため手ぢかの警官に声をかけた。そして五分ののち、医師と二条をのせた警察ジープは闇のかなたに消えていったのである。それを見送る剣持たちは、二条が解き明かそうとした連続殺人の謎がふたたび秘密のとばりにおおわれてしまったことを、しきりに残念に思っていた。  二人は、裏玄関から建物のなかに入った。騒ぎにかまけていままですっかり忘れていたが、剣持も由木もサンダルをはいたままであり、とくに警部は男物と女物とをあべこべにはいていることに気づいた始末だった。苦笑しながらスリッパにはきかえる。  食堂の前にわかい警官がどっかとイスに坐って監視をつづけていたが、両人の姿を見ると立ち上って敬礼をし、異状のないことを告げた。  警部がのっそり食堂に入ると、安孫子を除いた三人の男女がいっせいに不安な眸でこちらを見た。平生はおちついている牧数人も、うちつづく異変に冷静を失って、かなり神経質になっているようだった。そして警部の説明を、男女は息をつめて聞いた。安孫子だけは他人ごとのような顔をして相変らずそっぽを向いている。 「駅からここまで歩いて二十分の距離ですからね、犯人はちゃんと時刻を計って待ち伏せしていたに相違ないんです。二条君はまったく気の毒なことをしました。われわれは盲点をつかれたわけですが、同君に対してはまことに申しわけないと思っています。ところで皆さん……」  警部は一同を見廻した。他の連中はすでに食事をすませたとみえて、汚れた食器がべつの小テーブルの上に重ねてあり、剣持と由木の席にのみ、スープ皿とパンがおかれてあった。 「二条君が殺されたころ、あなたがたはいずれも二階の部屋におられたわけです。そこで遠慮なくいってもらいたいのだが、犯人が部屋をでていく姿に気づかれたかたはありませんか」 「わかりませんわ。あたしたち女はずっとお部屋にいたわけじゃなくて、ときどきおたがいに炊事場に降りたり、お風呂の加減をみたりしてたんですもの」  と、日高鉄子が安孫子の顔を見ないよう視線を横にそらせて答えた。 「牧さんはいかがです?」 「安孫子君のことですか。廊下をとおるところを見ましたね。トイレットに行ったのかと思ってべつに気にもかけなかったのですが」  尼リリスは首をふって、鉄子とおなじことを簡単に述べた。しかし、たとい安孫子が三階に上っていく姿を目撃したものがなくとも、これ以上この男を娑婆《しやば》の風にあてておくわけにはゆかない。ほどなく童顔のバス歌手は、警部と、廊下で監視役をつとめたわかい巡査に護られてつれ去られた。  独り由木がのこったのは、もう一度安孫子の部屋を捜査して、スペードのカードを見つけるためである。刑事は食堂にとってかえすと、リリスがみたび温めかえしてくれた料理を、ただもう我武者羅《がむしやら》に喰った。 「また東京に帰れなくなったわね。明日が二条さんのお通夜、そして明後日がお葬式で、そのつぎの日がお骨あげよ。その日までここにいなくちゃ……」  リリスが感情のない声で牧に話しかけていた。 「そういうことになるな。今日は二十五日だから、二十八日にならなくちゃ出発できまい。こんな場所に長居は無用だ。骨ひろいがすんだら遺族と一緒に帰ろう」  牧も、心のなかでべつのことを考えているような虚ろな声であった。あの皮肉屋で傲慢で虫の好かない男があっさり目と鼻の先でやられてしまったことは、悲しみとか同情ということはべつとして、各人にいろいろな感慨をいだかしめた様子だった。 「牧さん」  と、刑事は食塩のびんをテーブルにおきながら声をかけた。 「安孫子が毒物学か植物学に興味を持っていたかどうか、知りませんか」 「さあ……」  牧はふしぎそうな表情をうかべて由木を見返した。 「知りませんな」 「あなたはいかがですか?」 「全然知りませんわ。日高さんはどう?」  とリリスは風呂の湯加減をみてもどった鉄子をかえりみた。鉄子はタオルでぬれた二の腕をふきながら、首をふった。 「あたしも知らないわ」 「ではね、猫の啼《な》くのを聞きませんでしたか。あるいは野良犬でもいいです」  刑事のいうことがのみこめぬとみえて、三人はいずれもとまどい気味の表情をうかべた。 「さあ、野良犬ねえ、いつ、どこでですか」 「このりら荘に来てからです。場所はりら荘、もしくはその近辺です」  安孫子が吹き矢を兇器に用いるべく思い立ったのは、なにも今日と限ったものでもあるまい。だとすると、矢毒についての実験はずっと以前にすませておいたとも考えられるのである。  それでも男女は顔を見合わせるばかりで、明快な返事をしようとはしない。 「……夜中に野良犬の遠吠えする声は一、二度聞きましたが、りら荘の近くじゃそうした経験はないですな。猫にしても同じことです」  由木はむずかしい顔をして顎をつまんだ。だが考えてみれば、安孫子が実験動物に啼き声をたてさせるような不細工なまねをしたとは思われないのである。 「由木さん、お風呂がさっきから沸いているんです。こんなごたごたがあったために、まだだれも入ってないんですけど、よろしかったらお入りになりません?」 「いえ結構です。わたしはこれでも公務中ですからね。どうぞわたしには構わずに……」  彼は微笑を返しながら、剣持警部はこの日高という女は女傑だなんていっていたが、そうした徴候はみえんじゃないかと思った。 「牧さんいかが?」 「そうね、ブラック女史が先に入んなさいよ」  そうした会話をあとにして、由木は階段をのぼった。大きな邸宅だけに、二階に上ると下の話し声は少しも聞こえず、胡桃色《くるみいろ》の扉がならんだ廊下はしんとしずまりかえっていた。由木は、安孫子宏の名札のでた扉をあけて電灯をつけると、室内をじろりと一瞥《いちべつ》して、先日にもました入念さをもって捜査をはじめた。毛布、布団、マットを徹底的にしらべる。依然として一片のカードもでてこない。つぎに机とイスをしらべる。やはりカードは見つからないのだ。  由木はいつしかひたいに玉の汗をうかべて、安孫子のトランクだの洋服ダンスだのをかきまわしていた。カードは身ぢかに隠してあるのにちがいないのだが、どうしても発見することができないのである。  室内にないことが明らかになると、捜査の手を室外にものばさなくてはならぬ。しかしこれは大変な暇と労力を要する仕事だから、今夜は着手できない。彼は窓ぎわのイスに腰をおろして汗をふきながら、洋服ダンスの下からつまみだした妙なものを眺めていた。 「見つかりました?」  声がするので顔を上げてみると、風呂から上った鉄子だった。湯上り姿の美人は艶《つや》っぽいものだけれども、この女はなにをやっても映えない。尼リリスも美人と称するにははるかに遠い女だが、これがともかく十人並の器量に見えるのは、かたわらに鉄子という女がいるからであろう。美人でなく生れていたがため、いついかなる場合にも同性の引き立て役をやらされる日高鉄子の宿命に、由木は同情せざるを得なかった。これほど不運であるからには、女傑になろうがひねくれようがむりのないことだと思う。 「あら、何でしょうか」  鉄子は刑事が手にしたものに気づいて訊ねた。 「さあね、洋服ダンスの下からでてきたんですが、妙なものだと思って眺めていたとこですよ」 「なにかの根じゃありません?」  鉄子がいうとおり、植物の根であることに間違いはない。黒い土が乾いて、いじるたびに砂が落ちた。だが根自体は、まだ水分をふくんでしんなりとしている。ナイフかなにかで切られたらしく、断面がうすく黄色に見えていた。  由木は指の爪をたててみたり鼻の先にちかづけて匂いをかいでみたりしていたが、ふと、それがトリカブトではあるまいかという考えが頭にひらめいた。そこで一端の皮をけずり、おそるおそる舌にふれてみると、ぴりりと辛い。あわててハンカチで舌の先をふいて、なおも草の根をひっくり返して、と見こう見しながら鉄子に話しかけた。 「ひょっとするとこれはトリカブトかもしれんですよ。舌にひりりときますからね」 「トリカブトって吹き矢の先にぬってあった毒でしたわね、そうじゃなくて?」 「ええ、あの矢にぬってあったのが果してトリカブトであったかないかは分析してみなくちゃわからんですが、目下のとこはその疑いが大きいというわけですよ。さっきいったとおりね」 「…………」  返事がない。どうしたのかと思って頭をあげてみると、彼女は顔を紅潮させ息をつめて刑事をにらんでいる。いままでに見せたことのない奇妙な表情だった。 「……どうしました?」 「あたし、ちょっと失礼します!」  叩きつけるようにいいすてて、足音高くでていった。鉄子の剣幕に気をのまれた由木は、声をかけることも忘れて、ただ唖然としてうしろ姿を見送っていたが、彼女の部屋のドアが音をたてて閉められたのと同時に、はっとわれに還《かえ》った。そして、はて、なにか気にさわることを喋ったかしらと考えてみた。だが一向に思い当るものがない。どうも女はにがてだわいと苦笑しながら、ふたたび手にした草根に目をとおした。刃物ですぱりと切られているのは、そこからにじみでる液汁を、矢の先にぬったからに相違あるまいと思う。  なおもひねくりまわして眺めているうちに、由木は、これがトリカブトであるかどうかを早急にたしかめてみたくなった。草や木の名などは得てして老人がよく知っているものである。ひょっとすると万平老もそうした知識を持っているかもしれない。そう思いつくとじっとして坐っていることができなくて、あたふたと部屋をとびだした。  持病のリューマチスにやられた万平は、自分の居間に床をしいて横になっていた。りら荘のなかで日本風の部屋はここだけである。老人の枕もとにはお花さんの遺骨が安置してあって、骨箱をつつんだまあたらしい布の白さが由木の目にしみた。細君の死が持病を誘発したわけでもあるまいが、万平は泣きつらに蜂といったしょんぼりした顔で、天井の電灯を見つめていた。  由木は容態をたずねたあと、手にした根をさしだしてその名称を訊いた。逆光線のためよく見えぬらしく、万平はそれを掌にのせると腕をのばして老眼鏡をかけた。 「……葉っぱがついてりゃわかるけどよ、根だけじゃ見当がつかねえ。だけんど、カブト菊によく似てるようだな」 「カブト菊というのは?」 「ああ、花がまるくて兜《かぶと》みてえな形してるから、そんな名がついたんだべ。もうひと月ばかりたつと紫色の花が咲いてよ、そりゃきれいなもんだ」  兜みたいな紫色の花といえばトリカブトに相違ない。 「どこかこの近所の山に咲くのかい」  野生の植物だから山に行けば生えているだろう。しかしりら荘から一歩も外にでなかった今日の安孫子が、いかにして新鮮な根を手に入れることができたろうか。  だがそうした由木の疑問も、万平老人の返答ですぐ解けた。 「たんとは生えてねえが、探せばねえこともねえ、だけどよ、この庭にも植えてあるだ」 「なんだって? 庭のどこだい?」 「あっちこっちに植えてあるよ。花壇のそばにも、裏庭にも——」  せわしげに由木は立ち上った。これ以上|漫々的《マンマンデー》な彼の話に耳をかたむけていることはできない。庭の諸所にトリカブトが植えてあるとすれば、監視の目をぬすんで安孫子が手に入れることも容易なはずである。由木はすぐにも庭を調査したかったのだが、気がついてみると外は暗闇だ。夜があけるまで待つほかはあるまいと思い、はやる心をむりやりおさえて万平の居間をでた。彼の万平訪問が予期せぬ収穫をもたらしたことに、由木は大きな満足を感じていた。  食堂の前をとおりすぎようとした刑事は、リリスの鼻にかかった黄色い声に呼びとめられた。 「なにかご用ですか」 「ええ、ちょっと……」  彼女は廊下に顔をだすと、哀願するようなまなざしで刑事を見上げた。 「お願いですわ、今夜ここにお泊りになって下さいません? それでなくてもこわかったのに、また二条さんが殺されてしまったんですもの。眠ることもできませんわ。ねえ、お泊りになって……」 「ですが、もう心配することはないじゃありませんか。安孫子は留置場につないであるんですからね」 「いいえ、そうした実質的な恐しさじゃないんですのよ。あたしのいうのは心理的なこわさなんですわ。殺された方たちの幽霊でもでやしまいかと思って……」  リリスは自分の表現に相手を納得させる力が欠けていると思ったのか、なおも懸命になって説きふせようとした。 「いいえ、いまの世にお化けなんかでるはずはないと自分で自分にいい聞かせるんですけど、でもこれは理屈じゃどうにもなりませんわ。ただ無性におそろしくて、心細くて、気が狂いそう……」  恐怖と悶《もだ》えとがいりまじったような表情で哀れみを乞われてみると、むげに笑殺してしまうわけにもゆかなかった。加うるに由木には、明朝、庭にでてトリカブトを調べるという仕事もある。自宅に帰って寝るよりも、ここに一泊して、夜明けとともに庭にとびだして調査をしたかった。そうするためにも、リリスの願いを容れてやったほうが都合がいい。  そう考えた彼は、だがそのような胸算用はおくびにもださずに、ただただリリスに同情したようにみせかけて泊ることに同意した。 「わあ、心づよいわ、日高さんもよろこびますわよ、きっと。あたしのお隣りのお部屋に泊っていただくの。ね、いいでしょ? いまからお掃除してくるわ」  眸をかがやかせてまるで女学生のようにはしゃぐと、由木を食堂にまたせておいて、自分は廊下の押入れをあけてホウキをとりだし、それをもって階段を上っていった。 「とうとう陥落させられましたな」  牧は上目づかいに彼をみて声もなく笑った。どこかほっとしたような顔つきである。 「わたしからもお礼を申しますよ。女たち二人とも怯えきっていましたからね」     二  翌る二十六日、由木は洗面もそこそこに庭にとびでた。が、渦巻く濃霧のため一メートルはなれるともうなにも見えない。いまいましそうに舌打ちをして食堂に入った。  女性たちは炊事場で朝食の仕度の最中であった。牧数人ひとりがテーブルに向って新聞を読んでいたが、由木の足音を聞いて顔をあげた。 「あ、お早うございます。ひどい霧ですな」  ひと晩寝たせいか顔色もいいし、元気もでたようだ。 「朝刊いかがです、わたしは読みましたから」  と、あいそがよかった。  朝の食事は、つつましくもまた落着いた雰囲気のもとでとられた。今日は解剖をすませた二条の屍体がもどってくる日だから、通夜が行われる予定になっている。けれども、牧にしてもリリスにしても、一日おきに通夜をくり返していると気分的に慣れを生じて、一種のゆとりができてくるのであろうか、食卓では軽い冗談もでた。遺族にはすでに連絡がとられてあり、細君と、二条の友人たちがやって来ることになっている。  霧がはれるのはたいてい十時頃だ。由木はサンダルをはいて花壇の前に立った。中央に紅いカンナが女王のごとくほこらしげに咲き、その周囲にはジンジャーだとかグラジオラスだとか、大小各種のダリアや夏菊のたぐいが植えられて、いろとりどりの花の咲くなかを、黄色く花粉にそまった虻《あぶ》が、羽音せわしく飛び交うていた。じっと見とれていると眠くなりそうな平和な眺めである。  由木は小腰をかがめてトリカブトを探しもとめたが、やがてその一隅に、かたい穂状のつぼみをもった植物を発見した。彼は植物にことさら興味をいだいているわけではない。しかしつぼみの形と細長い葉とによって、これがあの毒草であることを思いだした。あと、一、二ヵ月すればつぼみはさらに成長して、兜状の花がうつくしくも毒々しく咲くはずである。  トリカブトの数は七、八本あった。だが周囲の土は平らにならされていて、最近ひきぬかれた様子は少しもみえない。そこで由木は花壇の前をはなれると、べつの場所をもとめて庭を彷徨《ほうこう》した。万平老が元気ならば案内してもらうのだが、事情にうとい由木が一人で広い庭内を探しまわるのは、容易なことではない。  四個所のトリカブトを見つけるのに二十分ほどかかった。が、そのいずれの畑にも、ひき抜いたと思われる痕跡がない。いささかがっかりして内玄関から入ろうとしたとき、由木の視線はひょいとその左手の植えこみにひきつけられた。トイレットの北窓の真下、そこはお花さんがくびられて倒れていた場所のすぐそばであるが、煉瓦でふちをとったきわめて小さな花畑がつくられていて、月下香またの名をチューベローズという、夜間にのみ開くかおりのよい花が植えられている。そのチューベローズの横に四、五本群生しているのがトリカブトであることは、すでにこの毒草を数十本となく見慣れた由木の目にはすぐわかった。だが彼の注意をひいたのは、そのかたわらに掘りおこされた小さな穴である。  息をつめてながめていた由木は、ついサンダルをスリッパにはきかえると廊下を走ってトイレットにとびこみ、北側のギロチン窓をおし上げて身をのりだした。あるかなしの微風をうけて、毒草のつぼみの穂がすぐ目と鼻の先にゆれている。手をのばして穂をつかみ、手心を加えながらそっとひっぱってみると、若干の抵抗を感じるとともに簡単にぬけた。邸内から一歩も外にでなかった安孫子がどうしてトリカブトを入手したかという疑問は、その瞬間にかき消えてしまったのである。     三  正午すぎに、解剖に付された二条の屍体は、剣持警部とわかい警官につきそわれてもどって来た。門の石積柱にからみついた朝顔のしぼんだ花が、いかにも彼の死をいたんでいるように見えた。  棺を客間に安置すると警官は帰ってゆき、由木は警部を扉のところによんで、ポケットから毒草の根をとりだして見せた。そして発見したいきさつをざっと説明したのち、裏玄関のわきのチューベローズの畑に案内した。 「なるほどな、ここからひっこ抜いたというわけか。ああいう悪知恵の発達した男にとってはみるものすべて兇器として利用できるんだから敵《かな》わないよ」  警部は満足そうであった。今日は午前中に行われた取調べで、安孫子はべつに犯行を否定するでもなく、といってもちろん肯定するでもなく、なにを訊いてもそっぽを向いたきり、無言のままでいる。その強情な抵抗には剣持もいささか根負けしていたのである。 「矢毒の分析はまだですか」 「いや、すんだ。埼玉大学に無理をいってたのんだんだ。やはりアコニチンが検出されてね、トリカブトを使ったことに間違いないという報告だったよ。通夜がすんだらば警官を五、六名つれてきて、草の根をわけてもカードを探しだしてやろう。ああいうしぶといやつには、証拠をそろえて恐れ入らせるほかに方法はない」  二人がなおも語っているところに、葬儀屋の若者が供花をかついで鉄門を入ってきた。彼らにとってはりら荘ほど上|顧客《とくい》はないはずであるのに、続発する殺人事件にたまげたとみえて、品物を内玄関におろすとぺこりとお辞儀をしたきり、あたふたと帰ってしまった。 「牧さん、牧さん、葬儀社から花がとどきましたよ……」  由木が廊下のおくに声をかけてやると、リリスが返事をして現われた。 「あらすみません。そろそろ二条さんの奥さんやお友達のかたが見えられるころなんですの。早く客間に並べておかなくちゃ」 「われわれも列席させて頂きますが、お客さんは何名ぐらいみえるんですか」 「奥さんのお話ですと、絵かきの方が六、七名おいでになるとか……。でもあたしたちのグループと違ってずっと以前に美術学校をでられたかたばかりですから、顔も知らなければ名前も知らない人たちですわ」  リリスはそういうと、忙しそうに供花を持って客間に入って行った。だれかが仏前に坐っているとみえて、かすかに線香のにおいが流れてくる。しかしリリスにしても他の男女にしても、二条の突然の死に衝撃こそうけたようだが、なにぶんああしたくせのある男であったから同情の念もわかぬらしくて、どこかさばさばした様子がみえた。  二条の細君と七名の画家たちは、三時五分の列車でやってきた。細君は三十を一つ二つ越した齢頃の顔色のわるい女で、あまり美人とはいえない。服装も物腰も垢ぬけせず、気障で気取り屋でお洒落でめかし屋の二条とは、なにからなにまで反対であった。画家たちは小学生の遠足のようにがやがやとよく喋り、その合間に、未亡人になぐさめの言葉をかけていた。リリスと鉄子は、橘や紗絽女たちの通夜の経験をいかして、てきぱきと夕食の仕度をととのえ、早目に客に供した。  食事がすむといよいよ通夜がはじまる。剣持と由木は二条の死に責任こそ感じているが、直接にはなんの関係もないものだから、遠慮して後方に坐った。気がついてみると、それはお花さんたちの通夜のときとほぼおなじ位置なのであった。あの通夜の席で、二条が蝶ネクタイをしめてイスにかけていた後ろ姿を、由木は瞼をとじるとはっきりと思いうかべることができる。彼は決して感傷的な男ではない。だが、わずか数日後に当のその男が線香を立てられる側にたったことを思うと、感慨なきを得ぬのであった。  残暑のきびしい東京のことを思えば、ここで通夜をいとなむほうが楽でもある。画家たちは、故人がにぎやかなことを好むたちだったから陽気にやろうというわけで、彼の思い出話をさかなに、持参のウイスキーをちびりちびりやりはじめた。警部たちにも一瓶贈られたが、こちらは職業がら赤い顔をするわけにもゆかぬし、わかい未亡人を前にしては遠慮するのが礼儀であろう。両名とも酒は好きだから、ウイスキーを辞退するのはまさに断腸の思いであった。  時計の針が十二時をさすと、前もって打ち合わせができていたとみえて、牧たちはいっせいに席を立った。 「わたしたち疲れてますもんで、これで失礼させて頂きます」  これ以上二条義房に義理をたてる必要はあるまい、といった気持がどこかに表われているような口吻であった。 「ああ、ご苦労さま、どうぞ」  と挨拶をかえしたものの、一方のグループはウイスキーを呑み、他方のグループはベッドに身を横たえることを思うと、羨《うらや》ましい気がせぬでもない。  その気持をリリスはいち早く察したらしかった。 「寝る前に食堂でジュースを飲もうと思いますのよ、ご一緒にいかが? それにぬるいお風呂も沸かせます。行水《ぎようずい》のつもりでお入りになったら?」  と誘ってくれた。体は汗でべっとりしている。風呂は大きな魅力だったが、呑気なことをやっている場合ではない。 「そうですな、ではジュースのほうだけ相伴《しようばん》させていただきますか」  そういって、剣持たちもあとにつづいて応接間をでた。  冷蔵庫の氷片をうかべてつくられたジュースは、そろそろ秋の気配が感じられそうなこのあたりの夜の飲み物としては、少しばかり涼しすぎた。 「洋酒があるとよかったんです、あいにく、どの瓶もからっぽで……」  牧が申しわけなさそうにいった。 「そうね。あなたのお酒をこっそり呑んだひと、一体だれでしょ?」  リリスは想いだしたように憤りを新しくした。 「まあいいさ、どうせ大したことじゃない」  男であるだけに牧はさっぱりしている。どこかで鈴虫がなきだした。  コップがからっぽになると、学生をのこして剣持たちは応接間にもどった。ちょっと席をはずしたあいだに、通夜の席は酒がまわったとみえてすこぶる陽気になっていた。しかしこの明るさは決して単にアルコールのせいばかりでなく、犯人の正体が明らかにされているためなのだと由木は考えた。これにひきかえ橘たちの通夜が陰気だったのは、当時まだ犯人がだれであるかわからなくて、それが各人の心を鬱々《うつうつ》たらしめていたからである。  だがこの陽気な席も、夜がふけるにしたがって話声もしだいにとだえ、ベレ帽の芸術家たちはしきりにあくびを噛み殺して、なかには居眠りをはじめるものもでてきた。つられたように剣持警部も舟をこいでいた。  いつか霧がでて、室内にもひんやりとしめった空気が忍びこんだ。由木はそっと立ってテラスのガラス扉をとじた。目をさましているのは彼自身と、そして死者の枕頭にすわる未亡人だけのようだ。  そうしているうちに、由木も我慢のならぬ眠気におそわれて上体をゆすぶりはじめた。あのいたましい事件が起きたのはそれから間もなくのことである。  十四 薔薇の寝床     一  通夜は乳色の霧のなかで明けた。不自由な姿勢でねむっていた芸術家たちがおいおいに目をさまして、ただ一人で端然と坐っている未亡人を見るとさすがに具合わるそうに、そそくさと立って手洗いに行く。人いきれと線香のけむり、タバコのけむりで、室内の空気はかなり濁っているようだった。 「ひどい霧じゃないか。なにも見えやしない」 「油絵じゃ霧の面白さはだせんな。墨絵でぼかすより手がないぜ」  起きぬけのタバコに火をつけて一服やりながら、二、三人のベレがテラスの外をながめてささやいている。だれの目も寝不足ではれぼったく、顔にはぎったり脂がういてみえた。  由木もそのころ目をあけた。いつになく頭がぼうっとしているので、換気しようとしてテラスのガラス扉をちょっとすかせたが、霧が入りかかったので、あわてて閉じた。腕時計の針は六時半を少しすぎている。二階の連中はまだ眠っているとみえてしずかだった。  画家たちは洗面をすませると、昨夜のウイスキーの瓶やコップをとりかたづけ、一人が盆にのせて炊事場にさげていった。彼らの大部分は二条のなきがらを見送って、今日の午後東京に帰る。未亡人と二、三の親友だけが、火葬場までついて行くということであった。  やがて時刻は八時になろうとしていた。外は依然としてふかい霧がたれこめている。二階の学生たちはまだ起きてこない。疲れているから無理もないことだが、大勢の客に朝食をださねばならぬはずだ。女たちはなにをしているのだろう。じつは由木も少々空腹を感じていたものだから、モーニングカップ一杯の珈琲を早く馳走になりたかったのである。おまけに昨夜からタバコのケースをどこかにおきわすれて、あちこち心当りを探してみたが見つからない。といって剣持に無心するのもいやだし、空腹をまぎらわすすべがないのだ。  ——そろそろ九時になる。由木は幾たびとなく階段の下に立って二階の様子をうかがっていたが、いつまでたっても起きてこないので、とうとうしびれを切らして自分から上っていった。まさか女の部屋をたずねるわけにゆかない。そこで牧の扉をノックした。 「牧さん。……牧さん」  次第に声を大きくして呼んでみるが応答がない。牧がどれほど眠りの深いたちであるか知らないけれど、これだけ声をかければ大抵目ざめそうなものではないか。 「……牧さん、まだ眠っているんですか」  もう一度声をかけてみた。しかし依然として返事はなかった。  由木は、かつてリリスが睡眠剤をのむところを見たことがある。ひょっとしたら牧もそれをのんで熟睡しているかも知れぬ。ああした薬品による睡眠を中途で妨害すると、目覚めてから頭がすっきりしなくて、一日中気分がわるいものだ。そう考えた由木は扉をノックすることは止めて階下におり、剣持をさそって食堂に入ると、朝刊を読みながら、リリスたちの起きてくるのを待つことにした。 「……どうです。わたしが珈琲でも沸かしてみましょうか。トースト用のパンはちゃんと用意してあるそうですが、それは日高さんたちにやってもらうことにして、とりあえず珈琲だけをこしらえようじゃないですか」  読んでいた新聞をテーブルの上になげすてて、由木は警部の意見をもとめた。空腹のあまり、おなじ記事を何度くりかえして読んでも一向に理解できないのである。 「そうだな」 「通夜のお客さんを干ぼしにするわけにもゆかんでしょうしね」 「それにしても、二階の連中はいつまで眠っているんだろう?」 「あの年ごろは眠いさかりですからな、とにかく珈琲はわたしが沸かします」  由木は勇んで食堂をでた。  珈琲のかおりが炊事場いっぱいにひろがるころに、窓ガラスをとおして見える乳色のヴェールがゆらめきだしたかと思うと、室内がかすかに明るくなった。霧があがる前ぶれである。由木は一ダースちかいカップに濃い珈琲をつぎ、砂糖つぼとミルク、スプーンを盆にのせると客間にもっていった。 「や、こりゃすんませんな」  と手ぢかのベレ帽が恐縮した。由木は武骨な手で不器用に盆をさしだしながら、出来のわるい珈琲の味を気にして、言いわけをした。 「二階のご婦人がまだ起きてきませんのでね、とりあえず珈琲だけつくってみました。こう人数が多いと分量をどれほど加減すればよいのか見当がつかんですからな。旨くできませんでしたよ」 「なに、これで結構ですよ。われわれの仲間でパリに行ってきたのは二条だけでしてね、あとの連中は味覚なんておよそ鈍感なやつばかりですから、珈琲の旨いまずいがわかるわけないですよ」  彼は気さくな調子でいうとカップの分配をとなりの顎鬚にまかせて、話好きらしく身をのりだした。 「そろそろ明るくなってきましたね」 「そう、たいてい十時前後には晴れるんです。ところが上がりそこなうと、一日中停滞していて、しめっぽい不愉快な日になりますよ」  灰色の微細な水滴の群れが、大気の動きにのって庭の上をゆるやかにさまよっていた。見様によってはなにかの妖精が芝生の上でバレエをおどっているようにも思え、都会の人間には珍しい眺めであった。 「東京では霧が滅多にありませんな。冬になると都心に煙霧《スモツグ》というやつがでますけどね。あれは名前からして不健康なやつなんでして、とうていこちらのような趣きはないです」 「ここの霧は、荒川から蒸発する水蒸気が夜明けの温度に冷やされて発生するんです」  と刑事は説明の要を感じた。  画家はなおも庭に視線をなげながらうなずくと、なにかいおうとして口を開けかけたが、どうしたわけか急に息をつめて牝鶏《めんどり》のような声をだした。寝不足の目をしきりにしばたたいて、なにかを見極めようとしている様子である。 「刑事さん、このテラスに立っていた塑像《そぞう》は、たしか白色セメントじゃなかったですか」  視線を前方にあげたまま早口で訊いた。  南に面したガラス扉の前にテラスがあって、その片隅に白色セメントの像が立っていることはすでに述べた。外側をむいて鼎立《ていりつ》する三人の裸の童子が両手を上にのばし、その六本の腕によって一個の器がささえられている。その器の形は口がひろくて底があさいから、作者は壺を造ったつもりかも知れないけれども、非芸術的に表現するならば、壺というよりも洗面器もしくは大きなスープ皿といったほうが適切だ。 「さあ、白色セメントだか漆喰《しつくい》だか知りませんがな、白い色をしていましたね」 「昨日の夕方わたしがみたときも、やはり白でしたよ」  と、彼は妙に色にこだわっている。 「それがどうしたというんです?」  由木は反問した。テラスの上には濃霧がふたたび渦をまいて、なに一つ見えない。 「夜のうちにだれかがいたずらをしたんですよ」 「どんないたずらです?」 「ペンキをぬったんです」  納得ゆかぬ面持ちで相手をみた。中学生の集まりじゃあるまいし、塑像《そぞう》にペンキをぬりたくるようないたずらをするものがいるとは思えない。  すると、一メートル先も見通せなかった濃霧が次第にうすく透明になっていくにつれて、現像液にひたした印画紙をのぞいているように、庭のたたずまいがおぼろにあらわれ、ものの輪郭《りんかく》がはっきりとしてきた。由木はテラスの片隅に水晶体のピントを合わせた。その瞬間、彼もまた、赤くまだらにぬられた童子の像をみたのである。 「なるほど、妙ないたずらをしたもんだ」  と由木はつぶやいた。わざわざ深夜にしのんできて、赤ペンキをぶっかけた酔狂人の心理が理解できない。  ところが霧がうすれるにつれて、その像にぬられた塗料が決してペンキなどではないことに気づいた。ペンキよりも赤インクに近い。いや、赤インクよりも血潮の色ににている。  彼は立ち上るとひきつけられるようにガラス扉の前に近寄った。童子がささえる器のなかに、真赤な液体が満々とみたされている。そのあふれたものが六本の腕をつたわって、童子たちの胸や胴や脚を深紅にそめているのだ。そして、したたりおちた液体は足もとのテラスの鉄平石の上にどす黒い血溜りをつくっている。  ベレの画家も肩をならべ、おびえた表情で童子像を見つめていた。由木は手荒くノブをひねってガラス扉をおしあけた。履物がないから靴下のまま、つま先立ってぬれた冷たいテラスの上を歩いた。指先でそっと液体にふれてみる。 「……まさか、血じゃないでしょうな?」  芸術家は、真蒼になった唇をわなわなと痙攣させていた。 「血ですよ」 「人間の、……でしょうか」 「そう、牛か豚の血ででもあってくれるといいんですが」  しかし、人血であるにせよ獣血であるにせよ、一体だれが何のためにこんなことをしたのであろうか。それが当面の大きな疑問であった。だれが、なんのために……? 由木は黙々として立ちつづけていた。霧のつぶが頬をぬらし、服をぬらした。 「刑事さん!」  突然その画家が金切り声をあげた。 「ありゃなんです? ほら、あそこにある、あれです。カードだ、カードだ、カードですよ!」  殺人のたびにスペードのふだが遺留されるという話は、通夜の席でも話題になっていたのである。 「どれ、どこです?」  画家の指の先を由木は見た。いかにもテラスから五メートルほどはなれた芝生の上に、一枚のカードが裏返しにひっそりとおいてある。由木はぎくっとした。刑事は奇術師のように、そのカードがどんな札であるか一見して透視することができた。彼のこめかみにミミズに似た血管がうかび上ったかと思うと、それは電流が通じられたかのように脈動した。  由木はおし黙ったままテラスをとびおり、ズボンのすそがぬれるのもいとわず芝生をふんで、カードをひろった。微小な百合の模様を一面にちりばめたその図案は、由木が事件のたびに見たなじみのものである。彼は躊躇なくおもてを返して、予期したしるしをそこに認めた。  安孫子が脱走した! そう直感した由木は、犯人のひとをなめたふらちな振舞いに、全身の血が逆流するのを覚えた。カードをもつ指が小きざみにふるえている。  しばらくしてやや冷静にかえると、被害者はだれか! ということがあたまにうかんだ。牧か、尼リリスか、日高鉄子か。それをたしかめるべく寝室をたずねようとして、二、三歩あるきだした彼は、つぎの瞬間その場に釘づけになって、建物の上方に目をなげたまま凍ったような表情をうかべたのである。  由木のパントマイムを終始テラスの上でながめていたベレ帽の画家は、あわてて天上をふり仰いで刑事の視線を追った。とたんに彼も悲鳴をあげてとびさがった。  テラスの上には白ぬりのパーゴラがしつらえてあって、隅の支柱からはいのぼった蔓バラが一面にからみ合っている。その蔓バラの密生した葉のすき間から、パーゴラの上に横たわった一人の人間が見えるのだ。どうやら女らしい。それも、白っぽいところから判断して、裸らしいのである。じっと動かぬところを見ればすでに死んでいるにちがいなかった。  驚愕がおさまると、画家はおそるおそる屍体を見上げ、塑像の位置をながめて、大皿のなかにたまった血液はこの女の傷口からながれおちたものと知った。 「警部を呼んでくるまで、あんた番をして下さい。だれも手をふれさせんようにして、その辺を歩きまわらんようにしてもらいます。た、たのんだですよ」  由木はそういうと相手の返事もまたずに、ガラス扉のところにむらがっている人垣をわけて、建物のなかに姿をけした。  剣持警部は食卓に向ったまま、からの珈琲茶碗を前にしてのんびり朝刊をよんでいた。肥満したお尻がイスからはみでている。 「なんだって?」  カードをみせられた警部ははげしくあえいだ。新聞をほうりだした拍子に、空になったモーニングカップが床の上にころがり落ちた。 「だれがやられた?」 「女です。下から見ただけじゃ判らんですが、尼リリスか日高鉄子のどちらかです」 「パ、パ、パ、パ……」  と吃《ども》って、自分のあわてたさまに腹を立てたように、床をけって立ち上った。 「パーゴラの上というと、二階の窓から投げ落したのじゃないか」 「三階だろうと思うんです。真上に窓がありますから」 「よしっ」  目の色かえて食堂をでた。問題の窓が建物のどのあたりにあるか、大体の見当はついている。二人は屋根裏部屋に通じる階段を走って上った。肥った警部がおくれて二階に到達したとき、身の軽い由木はすでに半ばあまり先を駆けのぼっていた。 「どうだ?」  屋根裏部屋の南の窓のところで警部が息をきらせて訊く。由木はだまって身をひき、かわって剣持が窓から首をつきだした。すぐ目の下に蔓バラのパーゴラがひろがっていて、そこにあおむけに横たわった女の屍体が見えた。それも、一片の布もまとっていない完全な裸身である。濃紅色のギエネ、ピンクのドクトル・ニコラス、淡クリームのホワイト・ゴールド、そして、赤、白、オレンジ、複色の大輪咲き……。色とりどりの花にかこまれ、濃みどりの豪華なしとねに寝た姿は、いかにも、わがままな金持娘の好みに合った死にざまのようにみえた。いや、わがままな死に方というよりはロマンチックな死に方といったほうがよいのかも知れない。ただ、髪がひどくぬれていることが由木の気をひいた。いくら濃い霧だからといって、あれほどぐっしょりとするわけがない。まるでシャンプーをしたみたいではないか。  刑事はいそがしい視線を屍体とその周囲になげながら、かつて松平紗絽女がセンチメンタルな乙女心として語った、花にうずもれ、星をいだいて死ぬという言葉を思いだしていた。おそらくそれは、紗絽女の言葉に託した尼リリスの心境でもあったのだろう。殺された時刻がいつであったかまだわからないが、霧がわきでる前であるならば、昨夜は晴天だったから星もかがやいていたはずである。その意味では、彼女はのぞむとおりに死ねたわけだ。全身の血液が流失してしまったためか、それとも葉の色を反映したためであるのか、リリスの顔は蒼味をおびて生前には見られなかったほど美しい。胸を朱《あけ》にそめた傷と、大きく見ひらいた目とをのぞけば、しずかに眠っているとしか思われないのだった。 「由木君」  剣持警部は首をひっこめた。 「ぼくは本署に電話をかける。きみは残った連中をたたき起こして集めてくれ」  そこで両人は踊り場までもどり、由木は二階へいくべく警部とわかれた。     二  そろそろ十時半になるというのにどうしたことであろうか、牧の部屋も鉄子の部屋も胡桃色《くるみいろ》のドアがぴたりととじられて、一向に目ざめた気配がない。  由木は急にいたたまれぬ不安を感じると、牧の部屋の前に立って思いきり扉をたたいた。 「牧君! おい牧君! 起きろ、起きるんだ。牧君! 起きないか、おい!」  ようやく聞こえたとみえて間のびした応答があったのち、牧数人のねぼけた顔があらわれた。平素は寝乱れすがたをだれにも見せまいとするほどの身だしなみのいい男であるのに、今朝は顔つきまでがひどくだらしない。 「なにかご用……」  あくびを噛みころしながら不明瞭な発音でいった。 「のんびりしたことをいってる場合じゃない。昨夜あれからどうしました?」  きびきびした口調で追及された牧は、はげしくまばたいた。 「どうって、べつに……。食堂でジュースをのんだあと十分ほどおしゃべりをして、すぐ寝ました」 「尼さんとわかれたのは?」 「部屋に入るときですよ。それがどうかしたんですか」  まだ眠気がとれないとみえて、とろんとした目つきをしている。 「夜中になにか物音を聞かなかったですか」 「さあ……。いまあなたに起こされるまでぐっすり眠ってしまったから、気づきませんね。なにかあったんですか」 「尼さんは、だれかの恨みをうけるようなことはなかったですか」 「尼君が? 由木さん、それなんの意味です? 尼君がどうかしたというんですか」  由木のただならぬ顔色に、ようやく眠気がとんだらしい。刑事はそれに答えることなしに、たたみ込むように訊ねた。 「尼君と安孫子はあまり仲がよくないと聞いていたのですが、実際はどうでした?」 「ちょいちょい喧嘩はやったです。喧嘩というより口論の一種です。しかしそれがどうしたというんです? 由木さん、じらさないで教えて下さい。一体、尼君がどうしたんです?」  由木はつかつかと部屋をよこぎって窓をおしあけると、黙って外をのぞかせた。斜め右下にパーゴラが見えている。身をのりだした牧の上体が大きくぐらりとゆらめいたかと思うと、悲痛なうめき声がもれた。 「畜生っ……。由木さん、これはあんたの責任です。安孫子の監視に手落ちがあるからこんなことになるんだ」  平素のあの落着いた紳士とはまるでちがった野獣じみた声だった。 「医者をはやくたのみます、手当がはやければ助かる。いや、ぜひ助けなくちゃならん」 「牧さん、落着いて下さい。お気の毒だが尼さんはもうだめです。とうのむかしに死んでます」  それを聞いた牧はベッドの端にどすんとくずれると、両手で頭をかかえこんでしまった。 「由木君、由木君」  早口に警部のよぶ声が聞こえる。何事かと思ってでてみると、彼はひどく狼狽した表情で階段の上に立っていた。 「いま本署に電話をかけたんだ。犯人はきみ、安孫子じゃない。留置場から一歩もでていないというんだ」  由木は凝然《ぎようぜん》として立ちすくんだ。いまのいままで彼らは、安孫子の犯行だと信じて疑わなかったのである。安孫子が留置場から一歩もそとにでなかったとなると、それは単に尼リリスを殺した犯人が彼でなかったというばかりでなく、あの連続殺人を犯したのも安孫子ではなかったことを意味する。剣持と由木とはあまりに大きな打撃に口をきくこともならず、しばらく顔を見合わせていた。階下の客間から興奮した芸術家の声高なおしゃべりが聞こえてくる……。  ややあって、警部はしゃがれた声をだした。 「由木君、これで事態はいいほうに向かったよ。少なくとも、われわれにしてみれば立場が有利になったんだ。犯人は残るふたりのうちのどれかにちがいない。男か女か、牧か日高か。この両名をとことんまで追及すれば犯人がだれかという問題も判明する。ぼくは駐在所に連絡をとってくるぜ」  警部は下におり、由木はふたたび廊下をもどって今度は日高鉄子の部屋の前に立った。  彼女の寝室もまたしんとしたきり物音ひとつしない。四、五度声をかけ、思いきり大きな音でドアをたたいてようやく呼びだすことができた。閨房《けいぼう》に目ざめた美女が紅絹《もみ》の袖口から卵のように白い肘《ひじ》をのぞかせる図は、浮世絵によくみる画材でまことになまめかしいかぎりだが、目をしょぼつかせた鉄子の顔はまともに見ていられない。 「どうかしましたの?」 「また一人殺されました」  みじかくいって反応をうかがった。  女子画学生は、息をすってあえいだ。 「だれが殺されたんですの? 安孫子さんが脱走したんですか」  まるで皮肉をあびせられでもしたように、由木はにがい顔をした。 「犯人は安孫子君じゃありません。われわれは少しばかり勘ちがいをやっていたんです」  彼女はまぶしそうに目をしばたたかせた。 「殺されたのは万平さんじゃありません?」 「なぜ万平さんが殺されたというんです? なにか理由でもあるんですか」 「いいえ、ただ、なんとなしにそう直感しただけ……」 「殺《や》られたのは尼リリスさんですよ」 「あらっ」  呆けたようにぽかんと口をあけている。手っとり早く質問をあびせてみたが、その返答は牧と同様で、夜中になんの音も聞かなかったというのだ。 「あなた、目ざといほうですか」 「ええ、たいていはちょっとした物音ですぐ目がさめるんですけど、つかれていたせいかしら」 「疲れていることはわかりますが、それにしても今朝は寝すぎやしませんか」 「なぜ?」 「だって、もう十時四十分をすぎてますよ」 「ほんとだわ。どうしたんでしょ」  手頸の時計に目をやって意外な面持ちだ。 「気分はいかがです」 「少し頭が重いですわ」  頭がすっきりしないことは由木も今朝経験した。ひょっとすると、睡眠剤を一服もられたのではあるまいかと思う。犯人が、殺人の邪魔をされぬために一同をねむらせることは、充分あり得るはずなのだ。ただ自分たちにくらべて牧と鉄子のねむりはあまりに深すぎるが、兇行現場として階上をえらんだからには、二階に寝るものに対してはより多量の睡眠剤をあたえて、多少の物音で目ざめぬようにしておくのは当然である。  ではどんな手段でのまされたのか。由木は自分が眠くなった時刻から逆算して、薬品はあのジュースに混入されていたにちがいないと考えた。彼が昨夜とった食物もしくは飲み物は夕食とそのジュース以外にないし、夕食に混入してあったならば、もっと早く眠ってしまったはずである。 「日高さん、昨夜わたしがご馳走になったジュースは、だれがこしらえてくれたのですか」  鉄子はなぜそのような質問をされるのかわかりかねた表情で、眠そうにまばたいた。 「尼さんですわ、なぜ? ……」 「尼さん以外にはだれもタッチしなかったんですか」 「ええ、昨晩はあのひと、独りでこさえてくれましたわ」 「もう一つうかがいますけど、あなた方のなかで睡眠剤をもっているのはだれとだれです?」 「それも尼さんですわ。あんな朗らかな性格ですけど、ときどき気が昂ぶってねむられないことがあるんです。でも、そういう晩はブロバリンかなにかをのんで、お風呂に入ると効き目がでるんですって、ほかの人はそんなことないから睡眠剤などもっていません」 「だれかが尼さんの睡眠剤を失敬しようとした場合、簡単に手に入れることができますかね?」 「さあ、どうでしょうか。あたし、尼さんのお部屋に入ったこと一度もありませんから、そうしたこと知りませんわ」  ちょっと気色《けしき》ばんだ返事だった。  要領を得ぬままに質問をうちきった由木は、睡眠剤を入手できたのがだれかという点を追及するために、ふたたび牧をたずねた。彼は依然としてベッドの端に腰かけ、向うをむいたまま頭をかかえこんでいた。由木は無遠慮に入っていくと、窓を背にして牧と向き合った。 「顔を上げてわたしの質問に答えて下さい。尼さんは睡眠剤を所持していたそうですな」 「ええ」 「だれかが睡眠剤を盗もうとしたら、どうです、簡単にとれますかね?」 「なぜ睡眠剤が問題になるんです?」  由木はかいつまんで推理を説明して聞かせた。 「……、そうか、それでこんなに眠いんだな」  ぼそぼそと独りごちるような口調だ。 「でも、そいつは難しいです。尼君は、ここで連続殺人がおきるようになってからひどく用心ぶかくなってきました。今度は自分が狙われるかもしれない。睡眠剤の瓶のなかにこっそり青酸加里でもまぜられていたならば大変だなどといって、鍵をかけたスーツケースのなかにしまっていました。ですから、尼君以外にスーツケースを開けられる人はいません。その用心もとうとう無駄になってしまって……」  セーヴしていた感情を押えきれなくなったのを、牧は声をふるわせて絶句した。  由木は困った面持ちで首をかしげていた。いままで知り得たかぎりでは、睡眠剤をのませた張本人は尼リリスということになりそうである。しかもその当人は被害者なのだ。すべてが矛盾してつじつまが合わない。  やがて由木はあきらめたように立ち上った。 「牧さん、この一連の連続殺人事件の真犯人はあなたと日高さんとのどちらかなんです。このことがはっきりするまできびしく監視しますから、そのつもりでいて下さい」  高圧的にでられて彼はぴくりと眉を上げた。 「なんですって? 安孫子君が犯人じゃないのですか」 「それがその、われわれのほうも若干誤解をしとったですが、同君は無関係なことが判明しました。絶対に潔白です」  なかば呆れた面持ちで由木の顔をみつめていたが、何やらぶつぶつつぶやいたかと思うと、それきり黙りこんでしまった。頭のしんがまだ充分|覚醒《かくせい》しなくて、こみいったことを考えることができぬふうである。  廊下にでた由木は、両人のうちどれを真犯人とすべきか決めかねて困惑《こんわく》しきっていた。鉄子は尼リリスの睡眠剤を入手することがむずかしい。一方牧は婚約者だからその点は容易だろうが、彼女を殺す動機が考えられない。  はてどうしたものだろうか、と思いながらポケットをまさぐって一服しようとした。ところがタバコをどこかにおき忘れたことに気づいて、いまいましそうに舌うちをした。  タバコのみは意地がきたない。吸いたいと思うと矢もたてもたまらなくなる。どこにおき忘れたのであろうか、最後に火をつけたのはどこであったろうかとしばらく記憶をたどっているうちに、やっとのことで思いだすことができた。安孫子の部屋でカードを捜査したとき、思いもかけずトリカブトの根を発見し、その際一服つけたのが最後である。  そうだ、シガレットケースはあそこにおき忘れてきたのだ! ようやく気がついて廊下にもどると、安孫子の部屋のドアをあけた。正面の窓にカーテンがたれているからほの暗い。由木はまよった表情で室内を見まわした。さて、この部屋のどこで吸ったんだっけ?  いくら考えてもその先が思いだせない。めんどうだ、片っ端から探してやれ! カーテンをひきはらって室内を明るくすると、狂った浚渫機《しゆんせつき》のように手当り次第にひっかきまわした。そして洋服ダンスの扉を乱暴にあけたとたん、思いもかけぬものを見つけて、自分の目をうたぐった。  洋服ダンスのなかには、安孫子がのこしていった二枚のアロハと二枚のカッターシャツがぶらさがっている。その片隅に、息をひそめて潜伏する犯罪者を思わせる恰好で、数枚のカードがそっと身をちぢめているのだ。手にとってみると、まぎれもなくあの一連のふだである。スペードの8からキングにいたる六枚がちゃんと揃っていた。  由木は犯人の頭脳のよさをいまさらながら讃嘆していた。捜査ずみのこの洋服ダンスは一種の盲点となっているから、安孫子が帰って来るまでは二度と開けられることがない。彼(もしくは彼女)はそれを充分に勘定にいれた上で、ここを一時の安全な隠し場所としたにちがいないのである。  いまいましくも残念なことだが、これを隠した人間が牧であるか鉄子であるか、由木にはまったく見当がつかなかった。彼はしばらく呆然としてその場に立ちつづけていた。 「おい、由木君。由木君!」  階下のほうで警部の呼ぶ声がしたので、由木はわれにかえった。剣持もまた、なにかを発見したらしいのだ。  十五 星影竜三     一 「こっちだ、こっちだ」  いささかうわずった声である。叫ぶだけで場所をいわない。声をたよりに飛んでいくと、彼は浴室の扉口から大きな顔をのぞかせていた。浴室は調理室に入ったところの右手にある。 「どうしたんです」 「あれだ、あれを見てくれ」  ふとい指が籐で編んだ脱衣籠をさしている。見ると、乱暴にぬぎすてられた女の服の上に、ブラジャーとパンティがおいてあるのだ。赤い花模様のワンピースには、由木も見覚えがあった。 「尼リリスの服ですな」 「ああ、おれも覚えている」  ガラス扉をあけて奥をのぞいた。浴槽のふたはとったままになっており、タイルのながしの上には石鹸と、タオルをひたした桶とがおいてあった。 「すると現場は——」 「ここだね」  無愛想な口調だった。由木に対して怒る理由がないのに、腹を立てているようだ。 「どうりで髪がぬれていると思いました。頭からシャワーを浴びている最中に……」 「まあ、そんなところだな。水を浴びていると他の物音は聞えないから、犯人はなんなく近づけたわけだ」 「そこをぐさりとやったんですな」 「いや」  と、警部はふとい首をふった。 「そうじゃあるまい。廊下には血がたれていないだろう。だから失神させただけなんだ。そいつを三階まではこび上げると、そこで刺したんだろうな」 「なぜ浴室で殺さないで、三階まで連れていったのでしょうね」 「それはきみ、犯人に訊かねばわからんよ」  と、警部は不機嫌に答えた。大きな顔一面に、渋い表情をうかべている。  また由木は、あの、つねづね花の毛氈の上に寝て星を仰ぎながら死にたいという言葉を思いだした。犯人は、尼リリスを殺害したあと、せめて生前の彼女のロマンチックな望みだけでもかなえさせてやろうと考えたのではあるまいか。 「由木君、きみは覚えていないかな、日高鉄子が一昨日《おととい》語ったことを」 「どんなことをですか」 「犯人がヴァラエティに富んだ殺しをやるって感心していたことだよ」  由木も思いだした。 「だが今度はまた刺殺という手段をとっている、第三の事件とおなじようにね。彼女が主張するように、もし犯人が見栄で殺しに変化をつけていたとするならば、早くもアイディアが涸渇《こかつ》したことになるな」  由木はうなずいて同意した。そのくせ二人とも合点のいかぬ面持ちであった。剣持警部のこの考えが早呑込みにすぎぬことがわかったのは、尼リリスの屍体が解剖され、その報告を受けたときだったのである。  由木は話題を変え、忘れていたカード発見のいきさつを語った。 「見つけた?」  怒ったような顔でひったくると、今朝芝生の上でひろったスペードの7をポケットからとりだして、息をつめて見比べた。 「こりゃいいものが手に入ったぞ。愚図々々していたらきみ、今度はこのトランプが役立たされたかも知れないぜ」  スペードの8を指でピンとはじいてみせると、七枚のカードを、満足げにポケットにおさめた。いままでの不機嫌が急に吹きとんでしまった。 「さ、あっちへ行こうか。駐在巡査はもう来ている。それから問題は食事だ。万平老人の具合がよかったら手伝わせてなにかつくってくれないか。お客をあのまま発たせるわけにゃいくまいからな」  剣持はつとめててきぱきといったが、元気のあるのは表面だけのことで、ひと皮むけば由木と同様、頭のなかはすっかり混乱しているのだ。筋みちだったことを考えるのはまったく不可能な状態だった。  調理室のそばの万平の部屋をたずねてみたが、リューマチスは一向に恢復の気配がみえない。結局、食事の支度は洗面をすませた鉄子がすっかりやってくれた。その一挙一動に由木の監視の目が光っていたことはもちろんである。  ほどなく大型のジープと小型トラックが屍体運搬のために到着した。どちらの車も黒く塗られていたわけではなかったが、見るものには、死臭を嗅ぎつけていちはやく集まってくる不吉な鴉《からす》のように思えた。係官の一人は、尼リリスの屍体を積みこむときに、不謹慎にもヤッコラサと声をかけた。牧数人は呆《ほう》けた顔で、鉄子は怯えた表情をうかべてそれを見送った。二人はプラスとプラスの磁石がはじき合うように、左右の石積柱のそばに離れて立っていた。  パーゴラの上の屍体をテラスにおろしたさい、ちょっと意外なことが明らかにされた。それまでは、刺されたのちに投下されたものと考えられていたのだけれども、そうではなくて、彼女の背中をつらぬいた兇器は、蔓バラを押えるために植木屋がとりつけていった太い針金なのであった。とすると、犯人はそこにそうした針金のあることを知っていて屍体を落したのであろうか。  朝食はそのあとで始まった。由木が手伝ってこんがりと焼けたパンを応接間にはこんだのだが、根が感受性のするどい芸術家のことであるから、食欲のでるはずもない。それにひきかえ剣持警部と由木は生首《なまくび》をみたぐらいでどうということはなかった。朝食の時間がおくれたせいか平素よりも喰い気があるくらいである。口いっぱいにほおばった。  牧と鉄子はたがいに少しはなれた席に坐って黙々と口をうごかしている。僚友を失った鉄子と婚約者を失った牧と、これまた食欲が旺盛であるはずもなかろう。自分でパンを焼いたくせに、鉄子はほんの少しかじったきりだった。  赤い手をしているのは牧であるのか、鉄子であるのか、はたから見ただけでは全然見当がつかない。だが彼らにしてみれば、きわめて簡単な算術によって、どちらが犯人であるかちゃんとわかっているわけだ。自分が潔白ならば犯人は相手にきまっている。だから一夜明けたいまの二人は相互によそよそしく、伏せた眸のなかにははげしい敵意と警戒の色がみてとれるようだった。  やがて食事がすむと牧は無言のまま二階へ上っていったが、鉄子はイスにかけたきりしばらく居心地わるそうにしていた。 「……あのう、あたし、牧さんと二人きりで二階にいるのこわいんです」 「なぜです?」 「だって……。あの人、精神異常者じゃないでしょうか。そんなひとと二人きりでいるの、いやですわ」 「するとあなたは、牧君が犯人だといわれるんですな?」  警部の言葉は、いやに念をおすふうに聞えた。 「だって、あたしがやったのでないなら、あの人に決ってるじゃありませんか」  鉄子の返事には不服そうな調子がある。 「それはそうだが……。しかし、牧君が相愛の尼君をなぜ殺す必要があるだろう?」  鉄子に質問したところで、彼女が答えられるはずもない。剣持は少しはなれたイスに坐っている由木刑事に問いかけたのである。しかし、答えたのは鉄子だった。 「そんなこと、あたし知りませんわ。ただ……」 「ただ、なんです?」 「ただ、恐ろしいんです。今度わたしが殺される番じゃないかと思って……」  身をすぼめて怯えた眸になった。警部は素直に彼女の言葉をうけとることはできなかった。いうまでもないことだが、日高鉄子にもまた疑ぐる余地があると思っていたからである。 「まさか、真っ昼間に殺人事件がおきるはずもないですよ。わたしの考えでは、もうこれ以上殺人はあるまいと思うのですがね。仮りにあなたが殺されたとしたら、のこった牧君が犯人であることは明白となります。そうした愚かなまねを犯人がやるはずはないです。それともあなたには、牧君に殺されても然るべき理由がおありなんですか」 「ありませんわ。でもあのひとが異常者だったらねえ……」  と、まだ心配そうである。 「ま、部屋に入ったら鍵をかけておくことですな。それでも心配だといわれるならば、本署から警官が来るまで由木君に警戒してもらってもいいです」 「お願いしますわ」  ほっとした面持ちで鉄子が食堂からでていこうとすると、警部はにわかにそれを止めた。 「あら、なにかご用?」 「あなたは、皆さんとここに来られてから、中途で一度東京へお帰りになりましたね?」 「ええ」  剣持警部がなにをいいだすのかわからないものだから、とまどった表情だった。 「東京へもどられたのはいつです?」 「二十一日の午前中ですわ」 「二十日に来られて、つぎの日に帰られたというのはどうしたわけです?」 「あたくしを疑っていらっしゃるのね」  醜い顔が、剣持警部を軽蔑するようにゆがんだ。 「いや、疑ぐる疑ぐらぬということより以前の問題ですよ。生きのこった人間があなたと牧さんの両名だとなると、犯人はそのどちらかに相違ありませんからな。牧さんの行動も徹底的に調べますが、しかし日高さんの動静についても、一点のくもりもないように明白にしておく必要があるんです」 「わかりましたわ。絵具が一本たりないことに気づいたんで、買いにもどったんです」 「その説明は由木君からも聞きましたよ。しかし、わたしはどうも納得できんのです。われわれ素人ならともかく、あなたがた専門家が絵具を忘れるとは信じられん。考えてもごらんなさい、兵隊が鉄砲も持たずに戦場にいくことがあるでしょうか」  警部は話が長びくと思ったのか坐るようにすすめたが、鉄子はかたくなに首をふって立ったままでいる。 「……加うるにです、絵具を買った以上は明日にでも帰ってこられるにもかかわらず、あなたはそうなさらなかった。二十一日に東京へもどって、そのまま二十三日まで向うにいらしたじゃありませんか」  そうつっ込まれて鉄子は一層ふてぶてしい顔つきで、相手の肥った顔を見つめていた。 「本当のことをいいますと、ここの空気が面白くないから帰ったんですわ。ご存じかもしれませんけど、不愉快なことがあったんです」  不快なことというのは、懸想《けそう》していた橘を紗絽女にうばわれた一件をさすのであろう。警部はだまって目でうなずいてみせた。 「そんなわけで、気分転換のつもりで東京でぶらぶらしているうちに、紗絽女さんやお花さんや橘さんたちが殺される事件がおきたもんですから、恐しくなって余計にもどる気がしなくなったんです。でも、荷物がこちらにおいたままになっていますし、お友達が殺されたというのに知らぬふりもできないと思ったので帰ってきたんですわ。二条さんも行ってみたいとおっしゃるし……」 「荷物をのこしたまま東京へもどられたというのは、他日ふたたびりら荘に帰ってくるつもりだったからですね?」 「ええ」 「それほど不愉快なことがあったのなら、つまりここを飛びだしたいくらいに不快なことがあったならば、いっそのこと最初から荷物を持って東京へ帰ればいいじゃありませんか」  と、剣持は相手をのぞきこむようにして追及した。彼女ははじめて微かなたじろぎのいろを見せた。 「……ここで絵をかきたかったからです。不愉快なことから逃避したいという世俗的な気持と、ここで絵をかいてみたいという芸術的な意欲がまじりあっていたんです」 「何枚かかれました?」 「まあ、かく暇などあるはずがないじゃありませんか。二条さんが殺されたのにつづいて、その血が乾くまもなく今度は尼さんが殺される。これでは落着いてキャンバスに向う気持になれるもんですか」  喰ってかかるような口吻《こうふん》だ。 「牧さんだって安孫子さんだって、歌の練習なさったこと一度もないですわ。それとおなじことなんです」 「わかりました、わかりました」  剣持はいささか辟易《へきえき》したようだった。 「とにかくですな、先程も申したとおりあなたと牧君の行動ははっきりさせる必要があります。そこで、あなたが二十一日に東京へお帰りになってから、二十三日に向うを発ってここに戻ってこられるまでの三日間の動静を、よく思いだしてメモにして頂きたいのです。とくに二十二日、つまり橘君や松平君、お花さんが殺された日の行動は念入りに書いてもらいたい。いいですか」  鉄子は、いかにも疑られたのが心外だといいたげに警部をにらみつけていたが、やがて黙って食堂をでていった。由木もすぐあとにつづいて二階へ上る。彼女の心配を、単なる取越苦労として黙殺するだけの根拠は、彼にもなかった。由木は廊下の端にたたずんで、鉄子と牧の部屋の扉にそれとなく警戒の視線をなげていた。  三十分もたたぬころ、鉄子の扉がかたりと音をたてて開くと、そっと由木を手招きして、ノートの切れはしに細かい文字でしたためたメモをさしだした。 「これでいいでしょうか」  いくぶん機嫌のなおった声だった。 「どれどれ」  と由木は手にとって、すばやく紙面に目をはしらせた。 「結構だと思いますな。警部に見せてきます」 「あたしを犯人だとお思いになるのは結構ですけど、早くもどってきて頂きたいですわ。一つしかない命ですもの、殺されるのはたまりません」  小さな声でいうと、向う側の牧の扉を、レンズの奥の腫《は》れぼったい一重瞼の目でそっと見た。  鉄子が内側からドアに鍵をかける音を耳にしてから、由木は廊下におり、剣持警部の姿をもとめた。  その剣持はテラスの端に立ちつくして、じっと彫像のように思いにふけっていた。犯人が二人の男女に限定されてみると、日高鉄子に対する疑惑が、真夏の空の積乱雲のように勃然《ぼつぜん》とわき上ってくるのを覚える。鉄子は東京へ帰ったと称しているけれど、はたしてそれは事実だろうか。東京にもどったとみせかけて、ひそかにこの近辺に身をかくしていたならば、獅子ケ岩で橘を襲うことも、裏庭でお花さんを屠《ほふ》ることも容易であったろうし、深夜に荘内の廊下にしのび込んで行武を倒すこともまた、決して不可能ではないと思うのだ。剣持は由木刑事がさしだした紙片にするどい視線をはしらせた。  メモによると彼女は、二十一日の昼間、絵具を買いがてら銀座を歩いて、夕方下宿にもどっている。問題の二十二日は日中を洗濯などをして過してから、夜は自分の部屋で読書したと称しているのだった。 「由木君、手のあいている者を東京へ出張させて、調査してもらおうと思うんだ。きみ、ちょっと駐在所まで行って本署に電話してくれないか」 「電話はここにもあるじゃありませんか」 「彼女には聞かせぬほうがいい。このメモを持っていきたまえ」 「はあ」  と、由木は即座に立ち去った。  霊柩車《れいきゆうしや》が到着したのはそれから十分ほど後である。急に応接間のあたりがざわざわしてきた。待機していた芸術家たちが二条の棺をかつぎだしていったのだ。警部もこれを見送るべく本玄関に廻った。痩身の未亡人は相つぐ変事にすっかりとりのぼせて涙もでないようだ。立っているのがやっと、という風に見える。  警部の姿を見かけて、顎鬚をはやしたベレ帽が近づいてくると、未亡人たちは寄居《よりい》の宿屋に泊ることにしたからと告げた。本来ならば今夜はここに一泊して骨あげに行く予定になっていたのが、物騒なりら荘にすっかりあいそをつかしたらしい。つぎの犠牲者にまつり上げられるのは真っ平だという気持が、彼の顔に露骨にあらわれていた。とりもなおさず、それは警察力への不信を意味している。剣持は、情けなくもまた憤りたい複雑な気持をおさえて、諒解した旨の返事をした。  二条の未亡人と二、三人の友人代表がハイヤーにのって棺を追ってでたあと、それを見送った芸術家たちは応接間にもどって、各自のつぶれたタバコの箱などをポケットにねじこみ、やっと解放された思いの声高で喋りながら靴をはいた。そして外に立つとあらためて事件のあったテラスやパーゴラを離れたところでながめ、そろって鉄の門から歩き去っていった。  とたんにりら荘はあらゆる物音をのこらず持ちだされてしまったかのように、死の家らしいしずけさにもどった。あのにぎやかでお喋りな尼リリスがいなくなったためであろうか、その静寂は、いままでになく痛いほどに感じられるのだ。剣持はひとけのない食堂にもどると、どさりとイスに坐って、気ぬけした表情で頬杖をついていた。  やがて玄関に元気な靴音がしたと思うと、連絡をすませた由木刑事が帰ってきた。 「やあご苦労、どうだった?」 「本署から県本部を通じて申し入れをし、ひまな者を行かせてくれることになりました。なるべく早く報告をくれるよう無理をいっておきましたが……」  彼も家のなかのしずまり返った空気にはすぐ気づいたらしい。 「絵の先生たちは帰ったんですか」 「いま帰った。未亡人たちも、もうここには戻ってこないよ。寄居の旅館にとまるそうだ」 「おやおや、われわれ見限られたとみえますな」  口元をゆがめて苦笑いをしている。  正午過ぎに橋本検事の一行が三台の車をのりつけたが、そのいずれもがしぶい顔をしているのは、剣持たちが終夜応接間に坐っていたにもかかわらず、目と鼻の先に発生した事件を防止できなかったことを非難するためか、安孫子を犯人と誤って断定した自分たちの捜査のいたらなさに腹を立てているためか。  剣持も由木も、いくぶん具合のわるそうな不面目な表情で一行をテラスに案内し、さらにパーゴラの上の窓口にみちびいた。現場写真がとられたのち、屍体を収容するのに時間をくって、検証がおわったのは三時を過ぎた頃である。ただちに応接間で訊問が開始された。  牧数人と日高鉄子はべつべつに呼ばれてきびしい質問をうけたが、得るところはほとんどない。ジュースに睡眠剤が入っていたらしいことが明らかになった程度で、新事実の発見はなかった。その途中で一人の警官が一升瓶をさげてくると、ぬき忘れられていた浴槽の水をつめていった。大学の研究室から依頼されたというのみで目的についてはつまびらかにされなかったが、訊問の最中だったために、検事のほうでもくわしく追及しなかったのである。  訊問がすむと、休むことなしに捜査会議がはじまった。一同はいそがしそうに扇子をつかい、ハンカチで汗をふきながら、白熱の論議をたたかわせた。検事も署長も刑事たちもあらゆる細かい点を検討しつくして、西日に照されたカンナが庭にながいかげをひく頃に、日高鉄子犯人説が出席者のほとんどの支持を得る結果になった。彼女が帰京したとみせかけてこの近辺に身をひそめていたと仮定してみると、牧数人に比較してはるかに楽に犯行の説明がつく。まだまだ不明の点は多くあるけれども、それは今後の調査がすすむにつれて明らかになるであろう。結論はそうしたところにおちついて、席上にはほっとした空気がながれかけた。  解剖の結果がもたらされたのは、その時分である。検事の一行を驚かせたのは尼リリスの死因であった。左の肩胛骨《けんこうこつ》の下部にささった針金のために死亡したのではなくて、溺死だというのだ。肺と胃のなかにかなりの量の水が入っていることから、浴槽のなかで溺死させられたのち、さらにパーゴラの上からなげ捨てられたことになる。器官のなかに充満していた水と浴槽から汲みだした水とを分析し比較した結果、この推定には誤りがないという。 「すると、あの針金がつき刺さったときはすでに死んでいたというわけか」  と、しなびた顔の署長がいった。しわだらけになったのは腸チフスをやったからで、それ以前は生気溌剌《せいきはつらつ》とした美男子だったと自慢している。 「そういわれてみるとそうですな。もし生体につき刺さったならば、現場一帯に血がとび散っていなくてはならない」  大きな体をちぢめるようにして剣持警部は面目なさそうだった。それまで大勢を決していた形の日高鉄子犯人説にとってかわって、あらためて牧数人がクローズアップされてきた。 「屍体を三階までかついでいったとすると、これは男の仕事だね。彼女には体力的に不可能だろうからな」 「しかしですね、北海道のヒグマが馬を襲うときは半殺しにしておいて、前脚をかついでいくそうではないですか。馬のやつはまだなかば意識がのこっているから、後脚で歩いていくという。ちょっと、故障した車を牽《ひ》いていくレッカー車みたいですが……」 「なるほどね。尼リリスを半死半生にしておけば、女でも彼女を三階へつれて上ることは可能だというんだね?」 「ええ。われわれが酔っ払った友達と肩をくんで歩くみたいにやればですね」 「そう上手《うま》くいくだろうか。溺れかけたものを扱った経験はないんだが」  と、署長は懐疑的だった。 「しかしね、相手は素っ裸なんだよ。そんな光景を目撃されれば、日高鉄子としては釈明の仕様がない」  検事は頭から否定した。 「それは牧としても同じではないですか。裸の女を抱えていくのですから」 「だが牧の場合は婚約者を抱いているんだ。浴槽のなかで眠っていたから、すくい上げて部屋につれていくんだという弁解ができる。日高鉄子に比べると、それほど人目をおそれる必要はなかったんじゃないかな」  大半のものが検事の説に同調した。尼リリスが眠っている云々と検事が発言したのは、胃のなかから微量の尿素系の睡眠薬の存在が立証されたからである。微量だったのはあらかた吸収されてしまったためであった。嚥《の》んだ量もしくはのまされた量が少ないというわけではない。 「浴槽で溺死させるというと、第一次大戦当時のイギリスに有名な事件があったね。あれは犯人が夫だったから浴室に入っていけたわけだが、今度のケースでも牧は婚約者なんだし、あの日高鉄子は同性なんだから、どちらがやっても、被害者としては安心していたことになる。もし由木君でも入ったら、裂帛《れつぱく》の悲鳴をあげたろうけどね」  由木は黙って苦笑していた。  そして部屋のなかが暗くなったのに気づいて立ち上ったとき、電話のベルが鳴った。由木は廊下にでていった。 「ええ、読んで下さい。こちら署長も検事もそろっておいでです」  由木のたかぶった声は応接間にもつつぬけに聞えてくる。最初のうちは何を話し合っているのかわからなかったが、そのうちに、日高鉄子のアリバイ調査の報告だということがのみ込めてきた。一瞬一座はしんとなる。署長も、検事も警部も、応援に来ている数名の刑事たちも、耳をそばだてて、由木のみじかい合槌のうち方から吉凶を判断しようとつとめていた。  やがて通話はおわって受話器をかける音がした。ついで由木が入口にあらわれたが、興奮しているのか目が光っている。  由木は一歩入ったところに立ち止って、一同の顔を見渡しながら言葉をつづけた。 「日高鉄子が東京にいたことは絶対に間違いないという返事です」  検事が立ち上がりかけた。 「その結果、二十一日に東京の下宿にもどって二十三日に向うを発つまでの三日間の動静は、彼女のメモのとおりであるというのです。とくに二十二日の行動に重点をおいて調べてくれたんですけど、これも間違いありません」  沈黙が支配した。検事は由木の顔を穴のあくほど見つめている。あとの連中は無言のまま顔を見合わせていた。 「……信じられん」  ややあって検事がぽつんとつぶやいた。 「……信じねばならん」  と署長が弱々しく応じた。ふたたび沈黙がつづいた。 「そうだ、信じねばならん。警視庁の調査とあれば信じなくてはならない」  と、検事は結論をつけた。髪はすっかり後退してしまっているが、四十歳というわかさだ。ふちの太い眼鏡をかけているせいか、顔を見ているとある種の昆虫を連想する。 「すると犯人は牧数人ということになるが、先程も検討したとおり、彼を犯人とするには数々の困難がある。あり過ぎる……」  検事はながい指を卓上にひろげて、一つ一つ勘定しながらそれを折っていった。 「炭焼きが殺されたとき、りら荘をはなれなかったというアリバイがある。松平紗絽女のカップに毒を入れるチャンスがない。橘秋夫が獅子ケ岩で殺された際には、川下で農夫と話をしていたというアリバイがある」 「それに、動機が考えられない」  また沈黙がつづいた。蛍光灯がはげしくまたたきをした。片手で神経質に扇子をもてあそんでいた検事が、音をたててそれをテーブルになげだすと、ずらりとならんだ渋面を見廻して口をきった。 「どうもこの事件はわれわれの手に負えない。二条義房という男が真相をみぬいたという話だが、残念ながらわれわれにはなに一つとしてつかめたものがありません。わたしはいま、ふと妙案を思いうかべたのだが、これによればかならず事件を解決することができると思う」 「なんです、それは?」 「わたしが東京在勤中つき合った人間に、星影竜三《ほしかげりゆうぞう》という素人探偵がおるのです。素人探偵といっては語弊があるけど、われわれとはまったく無縁の畑ちがいの人間だ。が、ふしぎなことに、犯罪事件の推理になみなみならぬ才能をもっておるのです。この先生に解決を依頼してみたらどうかと思うのだが……。もちろん本人は謝礼を要求するわけではなし、事件の謎を解いたからといって、それを吹聴するわけでもない。その点、決して心配はいりません」  きりつめられた捜査費用から足をだすようなことになっても困るし、警察の非力を宣伝されるようでも困る。一座はふたたび顔を見合わせて、ひそひそと囁いた。しかし検事の自信にみちた説明が力あってか、だれも反対するものはなかった。 「星影竜三……?」 「そう、星影竜三です」 「あなたの提案に異議があるわけではないが、あまり聞いたことのない名ですな」  署長はいくぶん心もとなさそうな口調だった。 「そこがそれ、表面に立って名を売ろうなんてつまらんことを考えないからですよ」  検事は必要を感じて、この素人探偵が知恵をかしたがために解決をみた事件の二、三を引用してみせた。それらのなかでも、ある医大の解剖室でおきた殺人事件のエピソードが、人々の関心をひいたようであった。深夜の解剖台の上で女子医学生が惨殺され、解体切断された。この事件は、解剖室の二重の扉も窓もそれぞれ厳重に施錠されていたことにより、にわかに謎を深めたのである。扉の鍵は責任者が保管しており、だれにも渡さなかったことが明白となった。その密閉された解剖室に、犯人はどうやって出入し犯行したのだろうか。星影竜三はこの難問をあざやかに解明するとともに、犯人の正体をみごとに推理し指摘してみせたのだった。  検事のこうした話が終った頃、ようやく一同は、星影竜三なる人物に信頼と期待と興味の念をいだきはじめたかにみえた。 「ではその、星影さんとやらに頼んでみましょうか」 「賛成だな。だが、すぐ引き受けてくれるだろうか」  剣持警部が不安そうに声をひくめた。本来ならば、局外者に事件の解決をゆだねることに賛意を表するような彼ではない。だれにもまして、当局の面子《メンツ》というものを気にする人間である。 「わたしが直接たのんでみれば、それに本人が多忙でなければたいてい大丈夫だと思いますな。ただ断っておかなくちゃならんことは、先生少々変りものでね。いや、変人というほどではないが傲岸不遜なんです。気に入らん人間とは口もきかないというわがままなところがある。しかし彼の世話になるのだから、多少のことは、大目にみて我慢してもらうんですな」  検事はそう語って、疲れた顔をにやりとさせた。この日の捜査会議は事件の解決を星影竜三氏に依頼すること及び、安孫子宏をただちに釈放することを決議して、解散となったのである。尼リリスの両親がマーキュリーを乗りつけたのは、ちょうどその頃だった。     二  検事の一行が帰ったあと、剣持警部と由木刑事は牧たちとつれだって尼リリスの遺族に会い、くやみを述べた。母親は胸に大袈裟なタックをとった小豆色のワンピースをきて、小さなレンズの近眼鏡をかけ、娘とちがって体つきも小柄であるし色もマレー人のように黒かった。しかし他人の思惑などてんから無視してずけずけ口をきくところが、やはりリリスそっくりであることを、間もなく剣持たちも思い知らされたのである。  彼女がリリスの死をさぞ悲しむであろうと思ったのは、仏教徒である剣持たちの思い違いであった。この骨ばったヒステリタイプの婦人は昂然《こうぜん》と肩をゆすぶり鼻の孔を思いきりふくらませて、パリサイ人《びと》をながめるキリストのような顔をすると、娘が天なる神に召されたのはクリスチャンとしてまことに幸福であるという意味のことを述べて一同を仰天させたきり、あとはむっつりおし黙って、口をきこうとはしなかった。  しかしそれも無理ないことではあった。このなかにわが子の命をうばった憎いやつめが混っているのだし、剣持警部と由木刑事ときては頭上のパーゴラに屍体がなげおとされたのも知らずに眠っていた能なし警官なのだから、顔をみるだけでも癪にさわるはずだ。いくらなんでも、娘が殺されたことを、まさか本気で幸福だと思っているわけでもあるまい。  リリスの父親というのは、むくんだような浅黒い顔にもっさりした髭を生《は》やした肥大漢で、肥っていることはリリスによく似ているけれども、こうした色黒の両親からよくもまあ皮膚の白い娘が生まれたものだとふしぎな気もする。彼は以前代議士をしていた時分に収賄事件がばれて小菅《こすげ》入りした経験の持主であるが、それ以来とんと人気がなくなって選挙のたびに連続落選のうきめに会っていた。勢力|挽回《ばんかい》のつもりで手をつけた軽工業の会社も赤字つづきの有様で、この二、三年すっかり意気銷沈の状態であった。そこにただ一人の愛娘《まなむすめ》が殺されたものだから、魂をぬかれたデクの坊みたいになっている。 「もうじきお夕食の仕度ができますけど」 「いいえ、あたしたちはサンドイッチ持ってきたから結構。あなた、リリちゃんの荷物を車にはこんで頂戴。なにぼやぼやしているの、こっちよ!」  鉄子に敵意をこめた視線をあびせておき、もと代議士に気合をかけて、二階のリリスの部屋に上がっていった。他人が見ていなかったならば耳をつかんで引きずってゆきそうな剣幕である。階段の下に立って一同はただ苦笑《にがわら》いをするばかり、すっかり女丈夫に気をのまれた形だった。  また夕食の時刻がめぐってきた。食欲もなければ話題もはずまぬ、気だるく陰気な食事がはじまった。このおなじテーブルに七人の若者が顔をそろえて、婚約したの失恋したのと悲喜こもごもの青春劇の幕をあげたのは、つい一週間前の夕方である。わずかのあいだに四人も減ったその変化のはげしさをかえりみると、悲哀よりも恐怖よりも、まず驚きの念が先にたつのであった。  いま食卓についているのは牧と鉄子と剣持たちの四人に加えて、ついいましがた警察ジープで送り返された安孫子宏である。食卓の空気が重くるしいとはいえ、釈放された安孫子の表情は明るく、一方アリバイが認められて嫌疑のはれた鉄子もうれしそうだ。剣持たちの監視の目が、自分ひとりにあびせられていることを意識している牧は、先程からだまってまずそうに口を動かしていた。  しかし、かつて安孫子も鉄子も殺人の嫌疑をこうむり、そしてふたたび疑惑がはれたことを思ってみると、これはりら荘にいるだれしもが一度はかからねばならぬハシカだともいえよう。とするなら、今度は牧が罹患《りかん》する番であるし、余病を併発せぬかぎりは、やがて恢復することであろう。余病を併発せぬかぎりは……。  すっかり暗くなってから、尼リリスの屍体が白木の棺に入れられて戻ってきた。あの元気だったミソサザイのような饒舌家、人を人とも思わぬ勝気なわがまま娘の尼リリスが、このようにものもいわぬ屍体となって帰ってきたことを、だれもがまだ信じられぬ面持ちで迎えた。まして事件当時その場にいなかった安孫子には、一層この感がふかいらしい。  リリスの母親は手をかそうとする牧たちをにべもなく拒絶して、自分たちの手で棺をマーキュリーの後部に移すと、毒のある視線を一同になげておいて闇のなかに消えていった。  無能な警察官を侮蔑するような後味わるい一瞥をくれて……。     三  このりら荘に星影竜三が姿を見せたのは、翌る二十八日の午後であった。そのとき学生たちは食堂のテーブルに坐って、銘々が勝手に本をよんだり、ぼんやり考えごとをしたりしていた。彼らをひとつ所に集めたのは剣持や由木が監視をするのに便利だからであり、三人の男女は係官のこうした指図に不平をいうにはあまりにも元気がなくなりすぎていた。牧も鉄子も虚脱したように無気力になり、多少とも活気ののこっているのは安孫子だけであるが、彼とても犯人扱いをされた暗い数日間の経験が、肉体的にも精神的にもこたえていることは明らかだった。  剣持たちは、さきに東京へ赴いた橋本検事から素人探偵出馬応諾の報を得ていたが、もちろん学生たちはなに一つ聞かされてなかった。だから検事が星影をつれて到着しても、相変らず無気力な面持ちで、まるでアヘン患者のように反応一つおこさなかったのである。  食堂の監視を到着した三人の刑事にまかせて、剣持と由木は応接間に入った。リリスの通夜の席のあとはすでに片づけられて、いつものように大きなテーブルが部屋の中央にすえられてある。咲きつづけていた赤いカンナもついに盛りをすぎたとみえ、しぼみかけて黒ずんだその姿はトウの立った美人を連想させるのだった。  剣持たちはこの部屋で、星影と初対面の挨拶をかわした。色白の、ととのった顔に気障なコールマン髭を生やした中年の紳士は、よほど身なりに気をつかうとみえてじつにあかぬけした服装をしている。すぐ気づいたのはテーブルの上にのせた華奢《きやしや》な手の指だが、それは芸術家のように先がほそく、形のいい爪が美しくみがかれていた。検事がいうほど傲慢《ごうまん》無礼な人間にはみえないけれども、眉のあたりに神経質な気短かそうなぴりりとしたものが漂っていて、それが対座するものに一種の警戒心を起させるのだ。要するに剣持たちのうけた第一印象は、くつろいで語ることのできぬ気づまりな男ということであった。  星影は捜査担当者の口からもう一度事件の内容をくわしく聞きたいと希望したので、剣持警部は手帳をひろげて、いかなる些細なことも見逃すまいとするように、注意をはらって語りはじめた。 「最初に殺されたのは炭焼きの須田佐吉という男でして、これが尼リリスのレインコートを盗んで頭からかぶって歩いていたというのが、そもそもの間違いのもとなんです。彼はここからさらに四キロほど山奥の小屋に住んでいて炭を焼いているんですが、事件当日は営林署に用事があったため山をおりて、その帰りみちに遭難したわけです」  星影は黙って発言者の目をみつめている。おのれの才能に自信を持った人間がよくみせる、あのおちついた視線だった。 「はじめわたしは、コソ泥をやるのが目的でここに忍びこんだのかと思ったんですが、殺されたあとで彼の細君や炭焼き仲間に訊いてみると、決してそんな悪人じゃないという。ですからレインコートを盗んだのもおそらく出来心なんでしょう。たまたまこの近所を通りかかったとき、内部からもれてくるわかい男女の声にふと興味を感じて裏玄関からのぞいてみた。ところが鼻の先にレインコートがおいてあってだれもいない。おりから雨が降っていたことでもあるし、ついふらふらと失敬する気になったのじゃないかと思ったわけです」 「それで?」 「その日は朝から霧雨が降っていたものですから、須田は盗んだレインコートをかかえて用件をすませると、それを頭からかぶって山へ帰りつつあったらしいのです。町中でそんなものをかぶっていては人から怪しまれますし、また営林署の連中にきいてみても署に寄ったときはまだレインコートをかぶっていなかったという。ですから山路にさしかかって人目がなくなってから、安心してそれを着用したのではないかと想像するわけです。……そのころ霧雨はやみかけていたので、この寮にあそびにきた連中のなかには散歩にでかけたものがいる。たまたま炭焼きの姿を見て、女物のレインコートをかぶっていたためにその人物を尼リリスもしくは松平紗絽女と誤認して、油断をみすまして崖からつきおとしたものと考えておるのです。現場は絶壁のふちをとおっているほそい山路でして、雨の日はとくに危険なところなものですから、毎年事故がある。いきなりつきとばされれば、屈強な男でもひとたまりもありません。つるりと辷《すべ》った跡がついていましたよ」 「犯人の足跡はどうですか?」  と、星影がはじめて質問した。 「ええ、なにぶん悪がしこいやつですからね、自分の足跡を残すようなヘマはやりませんよ。草の上をふんで接近すればむずかしいことじゃないですし、二条義房を殺したときも草履をはいて足跡をかくすと、あとでその履物を風呂のかまどに放りこんで処分していますからな」  星影はまばたきもせず警部の顔を見つめていたが、ややあって訊いた。 「もう一つ疑問があります。須田という炭焼きが雨具ほしさにレインコートを盗ったとのことですが、当日朝から霧雨がふっていたとすると、本人は山をおりたときすでに簑《みの》なり合羽なりをきていたと思うのです。これがさらにレインコートをぬすんで着るということは考えられない。屋上屋をかさねることになるんじゃないんですか。この点どうですか」 「さあ、そいつは……」  剣持の顔に動揺のいろがうかんだ。炭焼き小屋に妻女を訪問してはみたけれど、そこまでは訊かなかったのである。なるほど、噂にたがわぬ頭のするどい男だ。 「あとで結構ですからその点をはっきりさせて下さい」 「はあ、いま刑事をよんでしらべさせます」  少々面目を失った彼は、食堂につめている刑事を呼んで、炭焼き小屋まで行ってくるように命じた。  刑事がでていくと、星影はふたたび口をひらいた。 「もう一つ、崖から下におりることができるのですか」 「ええ、ずっと廻りみちになりますけど、河原に降りることはできます」  星影は軽くうなずいて、話の先をうながした。  警部は炭焼き殺しの際の各人のアリバイを語ったのち、順に松平紗絽女、橘秋夫、お花さん等々の事件に言及した。動機とアリバイと可能性の問題について、星影は無愛想な、しかしするどい質問をこころみた。警部が由木の助力をかりてそれに答える場面も何回かあった。  剣持との質疑応答が終ると彼は席を食堂にうつして、ここであらたに学生たちを相手に座談をはじめることにした。  星影の端整な、どこか気むずかしげな容貌をみたとたんに、学生たちは一様にぴんと緊張したいろをみせた。星影は彼らの気分をやわらげるようにつとめながら、若者たちがここにやって来てからのさまざまな出来事を思いだすままに語ってもらった。話のタネがつきそうになると、「まだあるでしょう、なんでもいいのです、思いつくままに喋って下さい」といって三人を鞭《むち》うち、せき立て、励ましながら、日毎のトラブルや軋轢《あつれき》のみならず、お花さんが笑ったとか、二条義房が怒ったとか、剣持たちが聞いてはあくびのでそうなつまらぬことを、微に入り細をうがって聞きほじっていた。星影の表情は異常に熱心である。 「だんだんわかってくるよ」  食堂をでたときこの素人探偵は、満足そうな表情をうかべて検事をかえりみた。 「二十二日の夜明け前に、尼君がトイレットの帰りに経験したという話をどう考えるかね。そのとき食堂のなかにひそんでいた人物はだれで、なぜハートの3とクラブのジャックを盗んだのか、それについて説明できるか」 「いや、それは全然……。二条義房もその点だけは解釈できないといったが」 「それじゃぼくと一緒に来たまえ。きみにヒントを与えてやろう」 「どこへ?」 「園田万平老人のところにさ。しかし他の諸君には待っていてもらいます。かれは気の小さい男だというから、大勢で押しかけてびっくりさせるのは避けたほうがいい」  検事の案内で星影は園田老人をたずねた。まだ、リューマチスが痛むらしく、ほとんど身動きができないという。白い不精髭が頬から顎にかけてうす汚くのびて、いかにも老いさらばえた感じだった。 「園田さん」  と、星影はゆっくりと声をかけた。 「あんたが酒好きだと聞いているので、あとで酒屋から特級酒を一本お見舞に上げるが……」 「ああ」  万平はうすきみ悪そうに、寝たままの恰好で星影の顔を見上げていた。 「それとも洋酒のほうがいいか」 「洋酒はだめだ」 「ほほう、日本酒のほうがいいのか、洋酒はなぜいやかね?」 「あんな酒は嫌えだ。甘かったり薄荷が入っていたり……」  そこまでいいかけたとき、万平のにぶい顔がそれとわかるほどにはっとした。 「ぼくは約束をまもる男だよ。きみが日本酒が好きだというなら日本酒を上げる。そのかわり、きみも本当のことを話してくれなくちゃいけないぜ」  万平はだまって力なく目をしょぼしょぼさせた。しわのなかに怯えと狼狽のいりまじった不安な表情だった。 「あの学生たちの持ってきた洋酒の瓶が食堂の棚にのせてあったのを知ってるね?」 「ああ」 「あれを夜毎に呑んでいたのはきみだね?」  万平は布団の中で身をちぢめた。 「べつに心配しなくてもいいんだよ」  星影は笑ってみせた。 「ぼくらが探しているのはお花さんたちを殺した犯人なんだ。あんな酒を呑んだからといって、そんなことをとやかくいいはしない」 「うン」 「間違っていたら訂正してもらいたいんだが、きみは夜中になるとお花さんの寝息をうかがって、そっと寝床をでた。そして食堂にしのび込んであの酒を呑んでいたのだね」 「ああ」  万平は観念したように目をつぶった。  星影はおだやかな調子で訊問をつづけ、お花さんがケチで酒を呑ませてくれないためホームバーのセットに誘惑されたこと、二十日深更から二十二日の払暁《ふつぎよう》にかけて毎夜呑みにでかけたこと、その二十二日にはだれかがトイレットに降りてきた気配がしたので発見されたら大変と蒼くなってちぢこまっていたこと、女房が殺されてから以後は身をつつしんでいるが、すでにあらかた呑んでしまったこと等々を訊きだした。 「そのとき棚においてあったカードをいじったのはきみかい?」 「おれじゃねえ」  と、彼は枕の上で無造作に首をふった。 「ほんとかね? あのカードのなかから二枚の札を抜きだしたのはきみじゃないのか」 「おれがいじったのは酒の瓶だけだ」  万平が小心で嘘のつける男でないことは、一見すればわかる。この老人がハートの3とクラブのジャックを盗んで、なんの役に立つというのか。  万平の部屋はすでに暗かった。星影竜三は電灯のスイッチをいれるともう一度日本酒の贈物の約束をして、廊下にでた。いまの訊問で得たことを整理するかのように二人はちょっとの間を無言で歩いていたが、やがて星影が口をひらいた。 「きみ、どう思う?」 「あいつは仮病じゃないかな。だれも万平を診察したものはないしさ、ほんとに身動きできないのかどうか、大いに疑問だと思うな」 「ぼくのいうのはそうじゃない。尼君がトイレットに降りたとき食堂にひそんでいた人物は園田万平なんだ。つまりカードが盗難に遇《あ》ったのはそのときではない、ということなのだ」 「するとそれ以後か」  応接間の扉をあけながら、星影がそれに答えようとしたときに、いち早くその姿を目にした剣持警部が立ち上って声をかけた。 「星影さん、いま炭焼き小屋を訪ねた刑事が戻ってきました。その報告を受けたところです」 「結果は?」  星影は待ちかねたように幾分声をはずませた。この人が感情らしきものを表面にだすということは、りら荘にきてはじめてのようである。 「細君の話では雨傘をもってでたというんです。ゴムの合羽があるんだけれど通気がわるくてむしむしするからといって、傘をさしてでかけたそうです。だから須田は、おそらく途中でそれを紛失するかどうかして、やむなく尼さんのレインコートを失敬したんじゃないかと思うんですがね」 「ありがとう。それで結構です。ぼくの思ったとおりだ」  星影はふたたび表情をおし殺して、あまり抑揚《よくよう》もつけることなくいった。そして愛用のヴァージンブライアをとりだすと火皿にグレンジャーをつめ、いささか気取った動作でタバコに火をつけた。  うまそうに目をつぶって一服する。それは謎を解いたあとの寛《くつろ》ぎのようにもみえるし、またつぎの飛躍をひかえての小休止のようにもみえた。他の人々も思い思いに紙巻をくゆらした。 「いかがなもんでしょう、調査の結果は?」  ただ一人タバコを吸わない署長は手持ちぶさたのあげくに、さっきから試みたくてうずうずしていた質問を、遠慮勝ちにいってみた。署長のみならず、一座のすべてのものが、星影竜三の才能に大いに期待する一方では、本職の自分たちにすらきわめられなかった謎を、この素人探偵に解けるわけがあるまいと思っていた。星影を推した検事自身でさえもが、心の一隅ではやはりそうした思いを捨てきれなかったのである。人々の胸のうちを見抜いたものかどうか、星影は眉に八の字よせて非難するように一同を見まわすと、不快げに答えた。 「全部の謎を解くためには東京へもどらねばならん。しかし大体のことはわかっています」 「犯人の正体もですか」 「そう」 「動機の問題も?」 「ええ」 「犯人は牧数人……じゃないでしょうか」  署長は気をひくようにいった。しかし星影は否定も肯定もしないでグレンジャーの青いけむりをみつめていた。署長の発言が耳に入らぬかのようである。 「……だが」  と、暫くたってから口をひらいた。 「ただ物的証拠がとぼしいです。できるならもっとはっきりした事実をつかんで、あなたがたに納得してもらったほうがいいんじゃないかと思う」 「とおっしゃいますと?」  署長はのみこめぬ面持ちだった。スペードの十三枚のカードも、犯人が各殺人の際にもちいた兇器も押収してある。星影はなにが不足だというのだろうか。 「わなを仕掛けて犯人をおびきだすのですよ」  依然としてのみ込めない顔つきだった。一体どんなわななのか。そううまくひっかかるものだろうか。 「今夜というわけにはゆかない。もう四日待ってもらいます。そのあいだにわたしは東京にもどって謎の残った部分をしらべて、すべてを明らかにしておきます」  二条義房がそうであったように、この男もまた東京に帰って調査する必要があるという。 「学生諸君にはなんとか了解してもらって、あと四日間だけここにいるようにして頂きたい。なお——」  星影は敏感に一同の危惧《きぐ》の念を読みとって、先手をうった。 「わたしの考えではこれ以上の殺人は起きない。なんとなれば動機がないからです。また本人は自分の犯罪について自信を持っている。したがって自殺をはかることもあり得ない。だからここに残って警戒をつづけるのは、由木刑事だけで充分です」  由木がなにか抗議しようとするのを押えつけるようにしてつづけた。 「それも監視をするということではなくて、むしろイージーにやってもらいたい。心底からそうする必要はないが、少なくとも表面をみたところではのんびりした印象をあたえるようにやってほしいと思う。犯人を罠《わな》にかけるには、そうしたほうがいいのです。ただ眠るときには必ず鍵をかけるよう、この程度の用心はしてもらいます」  はたしてそのまま信じてよいものかどうか、一同疑念がないでもない。しかし星影の非常に自信ありげな口吻と、うっかり下手な質問をして星影のつむじをまげてはよろしくないという憂いから、二、三の問答があったのち、人々はその言葉にしたがうことになった。  話がきまった。すると星影は例のスペードの札のなかから一枚貸してくれるよう所望し、それをポケットにおさめると、今度は酒屋の所在をたずねたのち、腰をあげた。酒店のありかを訊いたのが万平老人に約束の特級酒を贈るつもりであることはわかるが、スペードの札をなんに用いるのかさっぱり想像がつかない。しかしこれまた迂闊《うかつ》な質問をしてヘソを曲げられても困るから、やはり一同なにも訊くことをしなかった。  星影が愛用のベンツを駆ってりら荘から去っていったのちまでも、のこされた係官はたがいに顔を見合わせるばかりで、まるでタブーであるかのように、暫くはそのことを口にだすものはいなかったのである。  十六 青い夕焼     一  珍しく気象庁の予想が的中して、八月三十日は朝から大雨がふりつづき、夜になると、山間部にちかいこのあたりの暗い空をひきさくようにして、稲妻が走った。どちらかというと、このような晩は自宅でくつろいでいたいものだけれど、本署の応接室には署長をはじめ、剣持警部や橋本検事が言葉すくなにひたいを寄せて坐っていた。  窓をうつはげしい雨脚と頭上にとどろく雷とに消されて、柱の六角時計が告げた十時半の点鐘も聞こえなかった。彼らは目的も明かされぬまま、星影竜三に呼び集められたのである。 「どうしたというのかな。星影氏の話では、今度りら荘にくるのは来月の一日だということだったが……」 「それにしても遅いじゃないか。もう半を過ぎとるぜ」  そうした噂をしているとき、表のほうで、夜勤の警官の応答する声がして、聞き耳をたてている一同の前に、ぬれたコートを片手に持った星影が入ってきた。うしろにがっしりとした見知らぬ顔の四十前の男、一目見て自分たちと同じ警察界の人間と思われる人物をつれている。 「待たせたかね?」  検事に向っていうと、腕時計に目をやった。 「もう時間がないから愚図々々しちゃおれん。宿屋で休んでいたんだが面白いテレビがあったものだからね、つい遅刻してしまったよ。さあ、でかける仕度をしてくれたまえ」 「星影さん、あなたがなにを目論《もくろ》んでおられるのか、ちょっと話して頂けませんかな。われわれまだなにも知っちゃおらんのですから」  署長にそういわれた星影竜三は、べつに機嫌を損じた様子もなくイスに腰をおろした。 「失敬々々、そいつは悪かった。わたしが目論んでいるのは、いうまでもなく犯人を罠にかけることですよ。一昨日諸君にお話したとき四日後に来るといっておいたが、それは犯人をあざむくためのことで、東京の調査がすみ次第戻ってくるつもりでいた。紹介するのが遅れたが、こちらが警視庁捜査一課のなかでも敏腕家として知られている水原《みずはら》刑事です」  星影は、水原刑事と一同が目礼をかわすのを待って言葉をつづけた。 「東京の調査は水原君の協力を得て、昨日いっぱいと今日の午前中で片がついた。だから今夜はだしぬけにりら荘をおそって、犯人の虚をつこうというわけです。じつは、われわれは夕方りら荘の近くの駐在所まで行って、そこに由木刑事を呼んで、三人でいろいろ手筈をきめてきた。そのときに、わたしが東京で準備しておいた犯人おびきだしの手紙を、そっと犯人の部屋になげこんでおいてくれるよう由木刑事に依頼しておいたのです。もちろん筆者がわたしであることを悟られてはまずいから、スリラー小説の故智《こち》にならって、新聞紙の活字を切りぬいて貼りつけておきました。便箋も封筒も、日本芸術大学の紋章入りのやつを使ってある。だからそれをみた犯人は、差出人が学生のなかの一人であると思うにちがいないのです」 「どんな内容です?」 「犯人の心にきわめて動揺をあたえるべきある物を同封して、ただ一言、マントルピースと書いただけです」 「マントルピースというと——」  検事が問いかけた。 「マントルピースはあの大きな建物のなかで、応接間だけにしかない。だから、この一語だけで、示した場所はすぐわかるわけなのです。これは犯人にとって、とても気味わるい手紙なんだよ。と同時に、なんとしてもそいつを手に入れて破棄してしまわねばならぬ重大なものが、そのマントルピースの近くに隠してあるという意味になるんだ」  犯人にショックをあたえるあるものとは、なにか。しかし、訊いたところで説明するような星影でないことはわかっている。 「おそらく犯人は、そのものの発見者であり、かつまた手紙の筆者である人物が、ただの親切心からこうした封書をくれたものとは思わない。当然なにかの交換条件を持ちだすことは予想するにちがいないだろう。しかし、その危険をかえりみてはいられぬほどの重大なものなんだ。だから犯人は一か八か、のるかそるかの気持でやって来ると思う。おそらく兇器を持っているだろう」  星影はふたたび時計に目をやった。正面の柱に六角時計がかけてあるけれども、自分のナルダン以外は信じたくないといった彼の態度に、署長は軽い反撥を感じた。 「十一時まで由木君が応接間に腰をすえて、ゆうゆうと読書していることになっているんだ。だから犯人がやってくるのは十一時以後ということになる。由木君があくびをしながら階段をのぼって自分の部屋に引っ込むのをみて、さらに寝入るのを待ったのち、応接間にやって来るだろう。われわれはこれから真直ぐにりら荘にいって、テラスから応接間にしのび込む。そして犯人が現われるのを待つのだ。テラスの鍵は由木君がはずしておいてくれることになっている」  それだけの説明を聞いたのち、一同は立ち上って外にでた。ふりしきる雨のなかに、星影のベンツと警察のジープが停車している。人々はそれに分乗して、くらい雨の夜道を、いちずに三峰口の方向へつっ走った。稲妻が青くひかるたびに、丘や木や家が異様な地獄の風物のようにうかび上り、そして、一瞬ののちに墨汁のごとき闇があたりをのみつくした。  二台の車を駐在所の前にのりつけて、あとは歩いてりら荘へむかった。雨は車道にあふれて川のようにはげしくながれ、剣持は足をふみあやまってしぶきを上げてそのなかに落ちこんだが、長靴をはいているため辛うじてことなきを得た。  やがて、一同の視線のなかに、黒々としたあの豪壮な建物がうかんできた。闇夜のせいかいつもに比べてずっとたけが高く、まるで一行を威圧するように見えた。北側と東側の一部の窓が明るいのは、廊下とトイレにちがいない。鉄門の鍵も前もってはずされてあったから、人々はわけなく庭に入った。  ポーチの前をとおり、かどをまがって南側にまわると、テラスはすぐ目の前にある。二階の各部屋のあかりは消されていた。どの部屋の主も夢路をたどっているように見えるが、ただ犯人のみが眠ったふりをして大きな目をあけているにちがいなく、それを考えると、みなの胸は妙に高鳴ってくるのであった。待ちに待った犯人の正体が明らかにされるのは、数刻のちに迫っている。しかし、果して星影の計画どおりにはこぶであろうか。  人々は足さぐりでテラスをふみ、ガラス扉を手にあてると、そっと押した。あらかじめ蝶番《ちようつがい》にあぶらがさしてあるから、音もなく開く。無言のまま靴をぬぎ、それを手に持って水をきると、つぎつぎと応接間にすべりこんで合羽をぬいだ。しんがりの橋本検事がしずかに扉をとじた。雨の音がいくらか小さくなった。彼はほっとしながら、機械的に腕の夜光時計の文字盤をみた。十一時五分をさしている。  人々は思い思いのカーテンのかげに身をひそめて、犯人のあらわれるのを待つことにした。大体のことはすでに打ち合わせができていたし、細かいことはその場合の各自の判断で処理することになっていた。だから警部は、ガラス扉を背後にしてマントルピースを右にみる位置でカーテンにくるまり、検事は彼から数メートルはなれた右手の、入口の扉と向い合ったところに身をひそめた。その入口の扉は、由木が閉めてでていったままになっている。  雨脚は一向におとろえない。ときおりカーテンのすき間から稲妻がはしって、大きなしずまりかえった応接間のなかを昼間のように明るく照し、それにつづいて、おどろに鳴る雷がガラス扉をびりびりとふるわせた。だれも咳ひとつしない。いや少しぐらいの身動きをしても、さいわい雨の音に消されて人の耳には聞こえなかった。  やがて十二時、そして十二時半。依然としてだれもあらわれない。一時。一時十五分……。一時半……。剣持はそろそろ膝頭がいたくなってきた。連続した緊張をゆるめるためにタバコが吸いたくなった。しかし、もちろん吸うことはできない。  果して犯人は来るであろうか。星影の計算ちがいではなかろうか。あの素人探偵を頭から信用したのがそもそもの間違いではあるまいか。大体あの男はうぬぼれが強すぎる。自分たちがさんざん首をひねってわからなかった真相を、中途からひょっこりでてきて解けるはずがない。  ……一時四十五分。……そしてやがて二時になろうとしたそのとき。正面の黒々とした壁に、にわかに金色にかがやく一本の縦縞があらわれた。ぎくりと身を固くしているうちに、その黄金の筋は目にみえぬ速度でじわじわと太さを増していく。そうだ。犯人がドアをあけているのだ。そう気づいたとたんに、警部の心臓は口からとびだしそうな激しさではずみはじめた。  廊下からさしこむ光線によって、応接間はかすかに明るくなった。テーブルやイスやマントルピースのたたずまいがかなりはっきりと見えた。ドアはなおもしずかに開けられ、四十度ほどの角度になったとき、ぴたりと停止した。  しかし犯人は姿をみせなかった。二、三分間、いや正確に時計をみて計ったならば二、三十秒であったかも知れないが、空白な時間がながれた。剣持警部は他の連中に目をやる余裕もなく、ただ正面の入口を見つめつづけていた。  急に廊下の方から黒い人影があらわれたと思うと、するりと部屋のなかにすべりこみ、くらい隅にとけるように見えなくなった。それが待機していた犯人であることは、もはや疑う余地はない。影はしばらくそこにたたずんで、暗闇に目がなれるのを待っているらしかったが、やがてそろそろと歩きはじめた。  相手の姿が、剣持の目とカーテンの隙間とをむすぶ線の上からずれて見えなくなったので、彼は頭の位置をずらせて調節をはかりながら、ふたたびその姿をキャッチした。犯人は、マントルピースの前に立ってしきりにあたりを手さぐりしている様子だった。雨の音にまぎれてなにも聞こえぬけれど、そうした気配が、警部の肥った全身の毛穴から感得された。中途で飾り皿がたおれる音がすると、犯人は凍りついたように暫時立ちすくんでいた。  やがて火床をかきまわすと金属性の音がかすかに断続していたが、そこから何も発見できなかったとみえて、今度は煙道のくぼみに手をのばして探っている気配がした。犯人は慎重に、すばしこく、そして大胆にその調査をつづけて、ようやく目的のものを発見したようにその動作をとめた。  入口からさしこむ光線のなかで、小さな紙包みが照しだされた。犯人は包みの中身を光の下で確かめようとしているらしい。が、昂奮しているためか慌てているためか、紙をひろげるのにひどく手間取った。  と犯人はどうしたわけかそこでぎくりとした様子をみせると、急に身をひいてぴたっと壁によりそった。  剣持にはなぜ身をかくしたのかわからなかった。が、その疑問はすぐ氷解した。ドアが無造作におしあけられると、長方形にくぎられた光線をバックにして、由木刑事が立ちふさがったからである。スイッチを入れて天井の蛍光灯をつける。彼はランニングシャツにズボンといういでたちで、いかにも寝そびれた様子にみえた。壁にはりついた犯人の姿は死角になっており、由木は全然それに気づかぬふうである。由木は入口を背にしてイスにかけると、ピースに火をつけて一服し、中央の丸テーブルに伏せてあった読みさしの本を、頬杖をついて熱心に読みはじめた。  星影をのぞく他の連中は、刑事のしていることが実際のものであるかお芝居であるのか、にわかに判断をくだすことができかねた。由木はときどきピースを吸っては、熱心に読みふけっている。容易に腰をあげる様子はみえない。警部は、扉のむこうに缶詰にされた犯人のことを思い、由木の姿と扉とを、半々に見つめていた。  それから四、五分経過したであろうか、扉のかげからきわめて徐々に犯人の腕があらわれ、やがて胴と胸と首とがでると、開いたドアから廊下ににげようとして、足音をしのばせて歩をふみだした。由木が腰をすえたからには、いつまでも扉のむこうにかくれて立ちつくしているわけにはゆかない。  青白い蛍光灯をあびた犯人が、正体をカーテンのかげの監視者たちにさらけだして、まさに扉口をまたごうとした瞬間、その足は宙に固定したように、しばらく停止してしまった。  ふりむきざまに由木が「待った!」と声をかけたからである。ぎくっとした犯人は、だが決断力に富んでいた。くるりと向きをかえると、この目撃者の息の根をとめるために、右手にかくしもったナイフをひらめかせて、床をけって飛びかかった。  由木がいつ立ち上ったとも見えなかった。どさりという音が聞こえたとき、犯人はすでに床の上に転倒していた。きらりと光ったナイフが弧をえがいて空をとぶと、絨毯に落下して音もなくつき刺さった。  水原刑事がカーテンを排してとびでるとすばやく手錠をはめ、ひと足おくれて、星影や署長たちがあらわれた。この意外な伏勢に、犯人はようやく自分がわなに陥入ったことを知ったらしく、蒼白んだ頬をひきつらせて人々をにらみすえた。  星影は、身をよじって抵抗を示す犯人のポケットに手を入れてもぞもぞやっていたが、すぐになにかをひきだして、一同の前に開いてみせた。それは犯人が苦労してマントルピースの隠し場所からとりだした、スペードの8からキングにいたる六枚のカードであった。     二  天の底をぶちぬいたように降りつづく雨の音に、すべての物音が消されて、階上の二人の学生はいまだに目ざめることなく眠っている。  派出所においてある二台の車が廻送されてくるまでのあいだを利用して、簡単な訊問が星影によってこころみられたのち、虜囚《りよしゆう》は、警察自動車にのせられ、由木刑事の護送のもとに、りら荘をはなれていった。小止みになりかけた雨は、ふたたび窓ガラスをやぶりそうに激しく降ってきた。  雨にぬれた髪や服をハンカチでふきながら、由木がりら荘にふたたび戻ってきたのは、それから小一時間のちのことである。彼の帰りを待ちかねていた人々は、すぐさま由木刑事を食堂にひっぱりこんで、さて頭数のそろったところで星影の推理を拝聴することになった。犯人の正体が判明したいまでも、彼の説明をきかぬ限りは合点はいかぬことが多い。 「さあ、なにから話したらいいか……」  星影はしばらくグレンジャーをくゆらしながら考えていた。 「この事件には数多い被害者がでているが、本来の殺人計画の槍玉にあがっていた犠牲者は、ただ二人の人物にすぎないのだ。ところがその殺人に当って思わぬ齟齬《そご》をきたしたものだから、家計簿の赤字がふくれ上るように、止むを得ない殺人がつづいたのだよ。どれもこれも、犯人が自分の身をまもるための必要に迫られてやったことなんだがね」 「その二人というのは?」 「松平さんと橘君さ」 「動機はなんです?」 「そう、それが面白い問題だね。この事件の根本の動機は、最初から諸君の目の前にちゃんと掲示されていたんだ。にもかかわらず、だれひとりとして気づいたものはない。ぼくを除いてはね」  星影は、しかしべつに得意そうな顔をするまでもなく、一同を順ぐりに見廻した視線を、最後に検事のところでとどめた。 「どうだね、諸君、まだわからないかなあ」 「さあ……」 「二十一日の晩のことを思いだしてみたまえ、寝室にひっこんで読書をしている牧君を、橘君がひそかに訪ねてきたときのことだ」  いわれて人々は、当夜のテノールとジャズピアニストのあいだのエピソードを想い起した。だがそれがどうしたというのだろうか。 「橘が牧に向って、婚約した女から告白された彼女の不行跡の悩みについて相談したことかね?」 「そのときの話の内容を、牧君が語ったとおりに再現してごらん」 「だから、あのピアニストは、婚約したばかりの松平紗絽女から告白された不貞な行為をいかに処理すべきか——」 「そうじゃあるまい」  と、星影はいらだたしそうに、じれったそうに、検事の言葉を中途でさえぎった。 「橘君は相手に対して、『婚約した女が不貞であることを知った場合、きみならどう処理するかね?』と訊ねたんだ。紗絽女さんが不貞であるとは、一言半句もいっていないのだよ」 「しかしあの場合、橘の婚約者といえば松平紗絽女にきまってるじゃないか」 「まだそんなことをいってる」  星影は批難するような目つきになった。 「橘君は『自分と婚約した女』とはいっていない。りら荘のなかに婚約している男女は、橘・紗絽女のペアだけではないじゃないか」 「というと……?」 「もう一組の男女といえばだれとだれになる?」 「牧数人と尼リリスのコンビじゃありませんか」  と、そばから由木が口をはさんだ。 「そうです。橘君が意味した不貞な女というのは牧君の相手の女、すなわち尼リリスのことなんだよ」  人々のあいだにざわめきが起ったが、星影が話をつづけることによって間もなくしずまった。 「牧君という人物は、昨今のみだれた男女関係を批判的に見ている、近頃めずらしいまじめな青年だ。一方、橘君は偶然のことから尼リリスの前科を知ったのだが、この尼リリスが自分の不行跡をほおかむりして牧君と結婚しようとしていることを、黙って見ていることができなかった。おそらく何回か尼リリスに注意したことだろうし、彼女がその忠告をきかぬ場合は、橘君自身の口から牧君に告げるといっておどかしたこともあるだろう。それにもかかわらず、尼リリスはおのれの不貞を決して牧君に告白しようとはしない」 「そりゃ無理ないですな。ぶくぶく肥って器量がわるい上に、わがままで、勝気で、うぬぼれがつよくて、度しがたいリリスのような女を嫁にもらってくれる人間は、牧をのけたらまあないでしょうからね。しかもあの青年は歌手としての将来性もあるし、その上に好男子です。尼リリスには不相応の旦那さんですよ。彼女はそれを自覚していたから——」 「いや、ぼくはそうは思わないですな。醜女のなかには、自分のみにくいことを知っていじらしいほどに萎縮《いしゆく》するものと、反対に人並以上にうぬぼれの強いものとがいる。いろいろ聞いたことから想像するに、尼リリスは自分の身の程を知っているようなしおらしさを持っていなくて、ひどく図々しいタイプに属する女であるようだ。とすれば由木君の考えるのとはちがって、ただただ牧君を愛するがゆえに、その愛する男から捨てられまいとして、自分の過去を告白しなかったものと思う。さらにまたああした素直さのない女は、他人の忠告などにしたがうものではありません。却って反撥を感じて、逆の行動にでる場合が多いです」  なるほど、星影の推察は正しかったのだ。 「いつまで待っても忠告にしたがう様子がないから、しびれをきらした橘君は一夜とうとう自分で牧君をたずねて、尼リリスがふしだらな女であることを遠まわしにほのめかした。ところが、牧君は勘違いをした。この友人が、婚約したばかりの紗絽女さんから婚約前の不倫な行為の告白をうけて悩んでいるものと早呑込みをして、逆に相手を激励する目的で、不倫許すべしといった意味の発言をしたのです。一方、橘君は橘君で、またそれを誤って解釈してしまった。つまり、牧君が妻となるべき尼リリスの犯したあやまちを寛大にも許すものと考えて、それならば敢えて彼女の秘密をもらすにも及ばないだろうということで、彼女の不行跡をうち明けずに帰っていったのです」  人々の混迷した表情が次第にすっきりしたものとなっていった。八月二十一日の夜、牧の寝室で行なわれた両人の会談が、終始その対象とするものを誤解していたとは、本人同士はもちろん、係官たちもいまのいままで気づかなかったのである。 「で、その尼の不倫な行為というのは、具体的にどんなことなんです? 橘がどうして知ったのですか」  剣持警部の問いに対して星影は直接答えることをせずに、かたわらをかえりみて水原刑事に発言させた。水原は、低いおちついた声で説明をこころみた。 「わたしは星影さんの要請をうけまして、尼リリスの身辺を洗ってみました。その結果、彼女が二年あまり前に遊び半分のアルバイトとして、府中の米軍基地に勤務したことを知ったのです。なおも調べてみますと、おなじ職場の軍曹《サージヤント》と関係ができて、日曜ごとに新宿のホテルでデートをしていたことをつきとめました。おそらく橘さんは、この両名がホテルからでてくる姿を偶然目撃したのではないかと想像するんですが……」 「その軍曹との関係はいまでもつづいているんですか」 「いえ、もう一年ほど前に切れているはずです。というのは、相手の下士官が帰国してますから」 「わかりました」  肥った警部がうなずくと、星影は話をつづけていった。 「さて尼リリスはだね、この秘密を牧君に知られてしまっては一大事なんだ。いいかね、牧君が不倫許すべしといったのはそれが他人のことだと思っていたからであって、自分に関係のあることとなれば寛大であるわけはないのだよ。リリスは、だから禍いのもとを絶つために、この事実を知っているただ二人の人間である橘君と松平さんの口を封じることにした」 「そうなりますと尼リリスは、橘と牧との会話の結果を知らなかったのですか」 「そうなんです。会談の結果は、双方の誤解のためにリリスにとって好ましい終結をみました。つまり橘君は、リリスのふしだらな行動について沈黙をまもろうと決心したわけですね。ところが、肝心の彼女はそれを知らずにいた。知っていたなら当然殺人は思い止ったでしょうな」 「ほう、じゃそれを知らなかったがためにあれだけの人が殺されたのか」  検事が嘆声をあげた。 「彼女のその計画は、りら荘に来る前から立てられてあったんだよ。ところがたまたま二十一日の午後、おりから雨が晴れ上がったので散歩にでかけた途中で、偶然にも通りかかった崖の下に足をすべらせて転落している炭焼きの屍体を発見した。そのとたん、この屍体を利用して自分のアリバイをつくり、それによって有利な立場をつくっておこうと考えたんだ」  期せずして一同の口から驚きの声がでた。殺されたものとばかり思っていた炭焼きが、じつは過失死だったとは! 「ですけど星影さん、炭焼きは白いコートを着ていたものだから松平紗絽女と誤認されて、つき落されたのじゃなかったのですか」 「ちがいます」  と、星影竜三は署長の顔をじっと見つめて答えた。 「炭焼きはあやまって転落したのです。皆さんは彼がコートを盗んで着ていたように思っておられるが、これも先刻の婚約者の不貞問題の場合と同様に、大変な思いちがいをしています」 「とおっしゃいますと……?」 「あのコートは、炭焼きがかぶっていたものではない。須田なにがしというその男は、生きていた時分に尼リリスのレインコートには一指もふれたことはありません。これは当人の名誉のためにもはっきりいっておきます」 「そ、それではなぜ屍体のそばに落ちていたんです?」 「落ちていたのじゃない、置いたのですよ。屍体を発見した尼リリスが、その足でりら荘にもどってとってきたものを、そっと置いたにすぎないのです。これをもっとくだいていえば、炭焼きの屍体を利用することについて咄嗟《とつさ》に計画をたてた彼女は、カメラのフィルターを忘れて取りにもどったという口実のもとに自分の部屋にとって返すと、コートをかかえてふたたび現場にかけつけた。そして遠廻りをして崖下におりると、コートとスペードのAのふだを屍体のかたわらに遺棄《いき》したのです。そのさい、炭焼きがさしていた傘はとりあげて、どこかに隠してしまったものと思う。この点について本人に確かめるわけにはゆかないから、実際にどう処分したのか知ることもできないが……」 「すると、コートを午前中に盗まれたというのは嘘ですか」 「そう、洗濯するつもりで裏玄関の近くのテーブルの上にだしておいたなどというのも、まったくのつくりごとです。コートは最初から自分の部屋においたままだった。万平老人がその日の十時頃に掃除したさい階段の下の小テーブルの上にコートがなかったというのは、盗まれたからなかったのではない、初めからそこに置いてなかったのだから、万平さんの目に入らなかったのが当然なのです。仮りにもし午前中に盗まれていたならば、ああしたお喋りな性格の彼女が黙っていられるはずはない。ただちにその紛失したことをふれ歩いて大騒ぎするにちがいないのです。しかし実際に騒ぎだしたのは夕方になってからではなかったですか。その点から考えても、午前中に盗まれたと称するのが嘘であることがわかります」  一同はいまさらながら尼リリスの悪知恵には呆れる思いだったが、すべては彼女の思惑どおりに運んで、リリスには完璧なアリバイができたのである。いやアリバイのみではなく、安孫子という容疑者を製造することにさえ成功したのであった。 「すでに気づいていることと思うけど、食堂においてあったカードのなかからスペードの札ばかり十三枚ぬいたのは、尼リリスなのだよ。その目的についてはのちほど述べるつもりだが、まさか自分で自分のものを盗むとは思わないから、それが盲点となって疑われずにすむ。そこがリリスの狙いであったわけだね。……さて、炭焼きの屍体を自分のアリバイに利用しようと考えた彼女は、そのカードの最初の一枚を屍体のかたわらにおくことによって、これが連続殺人の最初の犠牲者であることを強調したんだ」  尼リリスのなみなみならぬ頭のよさについては、一同すでに充分理解できた。しかしのみこめないのはその後の事件の真相である。犯人が彼女であることはわかっていても、さてリリスがどのように行動したかということになると、やはり星影の解説を待たなくてはならなかった。     三 「橋本君。つぎの犠牲者はだれだと思う?」  星影竜三は神経質な容貌に皮肉な笑みをうかべて、検事をかえりみた。 「きまってる。松平紗絽女じゃないか」 「そうじゃないさ。彼女は二番目に殺されたんだよ」 「だから紗絽女が——」 「いいかね橋本君、炭焼きは殺されたのじゃないんだよ、過失死なんだ。ぼくが松平紗絽女は二番目に殺されたといえば、彼女の前にもう一人だれかが殺されていることがぴんとくるはずじゃないか」 「ああ、そうか、すると……」  と、検事は髪の薄い頭に手をあてて、おのれの血のめぐりのわるさに赤面していた。 「第一番目に殺されたのは橘君さ」 「しかし——」 「二十二日の昼食前後のことを思いだしてみたまえ。リリスはどこかへ外出したのではなかったかね?」 「そうそう郵便局へ行きましたよ」  と由木が答えた。 「あなたはそれが事実であるかどうか調査してみましたか」 「いえ、そこまではまだ」 「われわれはここに来る前、局によって調べてみたのです。その結果、二十二日に尼リリスがきた事実がないということを知りました。予想したとおりですけれどね」 「それじゃなんのために外出したんだ?」 「彼女が外出したのは、電報を打つためでもなければ書留や速達をだすためでもない、獅子ケ岩で待ち伏せして、釣りにくる橘君を殺すためだったんだよ。門をでるときに、スペードの2を郵便函にいれていったことはいうまでもないがね。やがて、そんなこととはつゆ知らない橘君が河原に降りるとそばに寄って、なにくわぬ顔で釣りを見物する。尼リリスが自分の命をねらっているとは夢にも思っていない橘君は、彼女が駅前の郵便局からもどって、魚釣りをひやかしに来たものとばかり思っている。警戒するわけがないのです。その橘君の油断をみすまして、いきなり背後からなぐりつけた。昏倒した彼の延髄にナイフをつき刺して息の根をとめると、スペードの3を残してりら荘にもどったんだ。いかにも郵便局から帰ったふうをよそおってね」  剣持警部は、そのときの彼女がほとんど昼食に手をつけなかったということを思いうかべた。いくら彼女が冷血な殺人鬼であるにしても、人を殺した直後では食欲のおこらないこともまた当然である。 「いいかね、橘君と紗絽女さんの殺害を逆にみせる、そこが犯人のトリックなんだ」  一語一語くぎるように星影は語っていった。 「だから彼女は、この二つの殺人の順をひっくり返してみせるというその目的を果すために、あらゆる努力をこころみている。その第一がスペードの札を利用することなのだ。最初に彼女が考えていた計画では、まず橘君を殺してスペードの2の札を置き、つぎに紗絽女さんを殺してスペードのAをなげる。これによって彼女のほうが先に殺されたように印象づけるはずだったんだ。実際はAを炭焼きの屍体に使ってしまったけれど、橘君と松平さんの殺人に二枚のカードの順を逆に用いたという点では、やはり初めの計画どおりであったわけなのさ」  人々はなるほどというふうに無言でうなずき、無言で話のつづきを待っている。 「ここで橋本君にたずねたいが、橘君のビクのなかにあった鮎は何匹だったかね?」 「はて何匹だったかな?」  と、検事は小首をかしげた。 「十六匹ですよ。わたしは鮎の塩焼きが好きですからよく覚えてます」  由木刑事が応援をかってでた。 「腐ったのは?」 「十三匹でした。喰い気の恨みは忘れませんよ」 「十三匹の鮎がなぜ早くいたんだか、それに疑問をもちませんでしたか」  問いつめられて由木は心細げな表情になると、落着きなく眸を動かした。 「そこが重要な点なのですがね。あの話を聞いたときわたしは、腐った十三匹の鮎は橘君が釣ったものではなくて、それよりもずっと以前に他の人の手によって獲られたものではないかと考えました。もっとはっきりいえば、魚屋で氷に漬けて売っていた鮎ではないかと考えた。ご存知のように氷でひやしてある魚は、外にだすと早くにいたむものだからです」 「とおっしゃいますと、あの鮎は尼リリスが魚屋から買ってきておいたやつで、そいつをビクのなかに投げこんでおいたというわけですか」 「そう。前の日に尼リリスが影森の駅の前にある魚屋で買って来ると、こっそり冷蔵庫に入れておいたのです。それを持って獅子ケ岩へ向かったわけですね」  教えられてみると調査の手落ちがいたるところにあり、一同は面目なさそうな面持ちで耳をかたむけていた。 「尼リリスが魚屋から買っておいた十三匹の鮎、それに橘君が釣り上げた三匹の鮎、それでビクのなかに計十六匹の獲物が入っていたわけです。あのときビクをのぞいた万平老はなんといいました?」 「ええと、待って下さいよ。……そうですな、『橘さんの腕前では十六匹釣るのに三時間はかかったべえ』といったようですな、確か」 「そう、そこですよ、彼女が狙った点は。ほんとうは、橘君は三匹釣ったとき殺された。決して十六匹釣り終ったときにやられたのではない。釣り上げた三匹の獲物の数から正確な所要時間をわりだすことはもちろん不可能ですが、釣り始めてから間もなく殺されたということ、つまり紗絽女嬢より先にやられたのだということは、十三匹の鮎がいたんだ事実によってはっきりとわかる。尼リリスという女は、ビクのなかに十三匹の鮎を入れたことによって、犯行時刻を五倍も遅らせることに成功したのです。その結果、橘君は紗絽女さんよりも後まで生きていたように思われてくる。じつに巧みなやり方じゃないですか」 「まったくうまいもんですな」 「加うるにです、橘君の屍体をそのまま陽のさす河原に転がしておいたのでは死後変化が早く進むから、正確な殺害時刻というものが比較的容易に指摘できる。いかに鮎の数で誤魔化そうとしてもむだです。それをふせぐためにわざと水中にひきずりこんでおいた。なにしろ川の水がつめたいから、ああすれば冷蔵庫のなかに入れておいたと同様な効果があるわけです」  一同は声もなく尼リリスの天才的な悪の才能に感嘆していた。窓ガラスをうつ雨の音は少しもその勢いに衰えをみせず、星影の声はときどき消されがちである。人々は一言も聞きのがすまいとして、一層体を前にのりだしていた。 「尼リリスのトリック、すなわち橘君の死と松平さんの死を逆にみせかけようとする目的のもとに用いられたトリックは、スペードのカードによるものと、鮎によるものだけではない。これら二つの手段は間接的な、なまぬるいやり方だったけれど、それだけでは印象がよわいから、もっと強烈な方法をとる必要があった。尼リリスはそう考えたのです。橘君がなぜ延髄をさされたかという理由もここにあるのだがね」  星影竜三氏はそこで言葉をきると、またヴァージンブライアをとりだしてゆっくりとグレンジャーをつめ、おもむろに火をつけて旨そうに一服した。殺された二条も気障な男だったけど、この素人探偵のポーズにも似たところがある。由木刑事はそう考えていた。  いま星影が提出した疑問については、先に由木刑事と剣持警部のあいだでとりあげられたことがある。犯人は橘のすきをうかがって石で後頭部を殴打して昏倒させた。この場合相手のとどめをさす気ならば、その石塊でもう一度なぐりつければいとも容易に殺害することができたはずである。ところが犯人はそうしたこともせずに、きわめて小さな器官である延髄をもとめて、これにナイフをつき立てている。なぜであろうか。  この疑問は、しかし剣持も由木もついに解くことができなかったのである。星影はそれにどんな解答を用意しているのだろうか。一座のなかのだれよりも、二人はそこに興味を感じていた。 「ここで諸君にちょっと質問を呈したいのだが、この場合に兇器として使用されたナイフの形状を記憶しておられますか」 「ペンナイフでしたよ。赤いプラスチックの柄がついたナイフで、白字でMと彫ってありました。Mというのはいうまでもなく所有者の頭文字です、つまり松平のイニシャルですな」  星影は署長の発言が終るのを待って、言葉をつづけた。 「そこでもう一つうかがいたいが、あの学生たちのなかで同じようなペンナイフを持っているのは誰とだれで、その形状はどんなものです?」 「それはわたしが知ってます。一つは尼リリスの所持品でして、クリームと紫のマーブル模様です。イニシャルはいうまでもなくAです。もう一つは橘秋夫の持ってるやつでして、彼のは黒にTのイニシャルがついています。ほかに牧数人もグリーンのやつを持っていたんですが、紛失したといっていました」  由木が記憶のいいところをみせた。星影はだまってうなずくと、さらに語をつづけていった。 「では、尼リリスが用いたもう一つのトリックについて説明します。このトリックは、松平紗絽女さんのナイフと牧数人君のナイフがおなじ形であるばかりでなく、ともにMというイニシャルが彫ってあるということ、いいかえれば、この二つのナイフは、柄の色彩をべつにすると瓜二つであるということを利用したのです。これに目をつけた尼リリスは、多分事件当日のことでしょうが、機会をみて、両君のポケットからそれぞれのナイフをこっそり盗み出しておいた。なにぶんにも彼らはきわめて親密な間柄だから、お互いが頻繁に部屋に出入りしていた。したがってナイフを失敬するといっても、べつに難しいことではありません。さてりら荘で夜を明かして、いよいよ計画を実行にうつす段になると、彼女は紗絽女さんから盗んでおいた赤いペンナイフを隠し持って釣り場へむかったわけです。昼食をすませてやって来る橘君を待ちうけていたことは先に説明したとおりだが……」 「わかった。犯人の狙いはアリバイ造りにあったわけだな」  と、検事は大発見したようにいった。 「そう」  星影はぶっきら棒にうなずいてパイプをくわえた。が、火が消えていることに気づくと、火皿の灰をかきだしてあたらしく刻みをつめかえた。一同は黙々として話のつづきを待っていた。 「殺人を犯して寮にもどって来た犯人は、昼食をすませると、何くわぬ顔をしてチェスの試合に加わった。その最中に砒素入りココアを松平さんにのませ、毒殺をはかったのはご承知のとおりだが、苦しんでいる彼女を介抱するとみせかけて、牧君から盗っておいたもう一つのペンナイフをことりと床の上にすべりおとした。いいですか、このナイフは尼リリスが故意におとしたものですよ。ところがその場に居合わせた人間——というのは行武君ひとりだが、その行武君が、松平嬢の服のポケットから転がりおちたと錯覚してしまったのは当然のことです。なんとなれば前にもいったように、そのナイフにもMのイニシャルが入っていたからです」 「ですけれど、それは少々無理じゃないですか。いかにも二つのナイフは形も大きさもそっくりだし、刻んである頭文字はおなじですけれど、色がちがいます。橘の延髄につきたっているのは赤で、松平さんのポケットから転がりでたのはグリーンなんですよ。それに、行武という男は洋画科の学生時代に、色彩感覚が非常にすぐれていたため教授から可愛がられたというんですから、赤とグリーンを錯覚するとは思えないです」  剣持警部の疑問は、同時にすべての係官の疑問でもある。この点だけはどう考えても星影の推理のミスであると思われた。  だが星影は表情も変えずに、話をすすめた。 「そこですよ、問題は。水原君、例のものをみせて上げてくれたまえ」  いわれて水原刑事はかたわらの鞄をひきよせ、なかから紙につつまれた四角な平たいものをとりだした。好奇心にかがやいた一同の視線が彼の手もとを注視した。  水原刑事が紙をひろげると、そこに一枚の油絵があらわれた。玉川の丘のあたりをえがいた風景画で、新緑の候ででもあるのか、空や山や林が、あざやかな緑、浅葱《あさぎ》、青の絵具でぬられてある。 「いかがです、この絵は?」 「さあ……」  と人々は返答に躊躇《ちゆうちよ》した。犯罪者の人相をみることは得意だけれども、絵画の鑑賞はあまり得手ではない。 「すがすがしい風景じゃありませんか。初夏ですな」  星影はそれに答えずににやりと笑って、発言者をみた。 「これが『|さらば草原よ《アデイオス・パンパミーア》』です」 「は?」 「『ブルーサンセット』ですよ」 「ブルーサンセットですって?」  行武が、紗絽女にからかわれて激怒した『ブルーサンセット』という言葉が意外なとき星影の口からもれたものだから、一同は呆然とした面持ちで、素人探偵と油絵とを交互に見較べていた。 「行武君は、これを夕方の景色のつもりで描いたんです」 「これがですか?」 「そう、夕焼の描写です」 「これが夕焼? 妙じゃありませんか、どこも赤くそまっていない」 「そう、だから青い夕焼ですよ。行武君はキャンバスに茜《あかね》色の空をかくつもりで、コバルトブルーの絵具をぬっていたんです」  そう説明されてみても、人々は納得ゆかぬ面持ちだった。 「どうも、芸術家のやることはわれわれに解せませんなあ」 「そうじゃない。行武君が誤ってしたことなんです。本人は赤系統の絵具をぬったつもりでいたんですがね」 「しかし星影さん、幾度もくり返すことですけれど、行武は色彩についてはきわめてデリケートな感覚の持主だったんですよ」  と剣持警部が反論した。 「以前はね。しかしこの絵を描いたときはそうではなかった。赤と青とを識別することすらできぬ色盲になっていたんです」  警部はまだ納得しかねる表情で小首をかしげた。 「お言葉を返すようですが、色盲というのは先天的なものだと聞いていますが」 「必ずしもそうじゃない。メチルアルコールで視神経をやられた場合に、ごくまれですが色盲になることがあるんです。失明する一歩手前までいった人のなかにね」  ほう……と人々は期せずして嘆声を発した。だから、彼は音楽学部へ転部したわけなのか。それにしても彼が色盲であったことを、いかにしてこの素人探偵が知り得たか、それがふしぎであった。 「行武君はむかし非常な酒豪であったが、洋画科から声楽科に転籍した前後からぷっつり禁酒してしまったことは、諸君もご存知と思うが……」 「うん、ここに到着した夜のことだが、婚約の発表を祝って盃をほせ、ほさぬで大いにもめたといっていたよ」 「そうなんだ。彼は、自己の芸術的天分をつみとった酒というものに対して極端な憎悪の念をもっていたはずだ。その気持はわれわれにも理解できるじゃないか」  行武の無念の心境を思ってだれもが大きくうなずいた。当夜の彼の胸中にそうした感情の動きがあったということは、やはり説明されるまではだれにもわからなかったのだ。 「彼がこの青い夕焼の絵を画いていたときは、まだ自分の色彩神経が冒されたことには気づかなかった。ところがたまたま、これが尼リリスや松平さんの目にふれた。赤くぬったつもりの夕焼空が緑色になっているということを聞かされたとき、行武君は大地がくずれるような驚きを味わったことと思う」  星影はなおも暗い表情でいい、そして検事のほうを向いた。 「ねえ橋本君、彼は画家としての将来を期待されていた男だけに、自分が色盲となったことはだれにも知られたくなかったのだ。洋画科から声楽科に移った理由を、心境の変化とのみいって深く問われるのを迷惑がったのも、自分の過去のプライドを傷つけられたくなかったからなのだ」 「すると松平紗絽女が『さらば草原よ』のアメリカ名が『ブルーサンセット』だといったのは、一種のいやがらせだったのか」 「そうさ、口からでまかせのことなのだ。『ブルーサンセット』なんてタンゴは存在しないからね。いやがらせであると同時に揶揄《やゆ》でもあったわけだ。紗絽女さんという女は、彼のそうした心理を見ぬいていたんだね。そのことに触れられると行武君の心がいかに激しく痛むかということを、よく知っていたのだ。相手の致命的な欠陥を見ぬいて、これを面白がってからかっていたのだから、考えてみれば、なんとも残酷な女だ」  星影がいうと、そのあとをひきついだ水原刑事が補足した。 「わたしは、行武君がメチール禍にあったときにかかった内科医と眼科医をつきとめて、いまのお話にあったようなことを確かめたわけです。この絵は行武君の遺族の方に連絡をとりまして、至急あの人の遺品のなかから送ってもらいました」  星影氏はそのあいだグレンジャーをふかしていたが、話が終るとパイプを片手ににぎって口をひらいた。 「さあ、これで同君が赤と緑とを識別できないことが立証できた。だから話をもとにもどして、尼リリスが松平さんを介抱したさいにころげ落ちた緑色のペンナイフを見た行武君は、その形を一見しただけでは果して松平さんの所持品か牧君の持物か見わけることはできなかったわけです。しかしあの場合は、前後の事情によって、紗絽女さんのものと思い込むのがきわめて自然でもあり、当然でもあった。あのとき、その場にいたのは行武君ひとりであったことを想い起して下さい。他の連中、はっきりいえば色神に異常のない人々を追い払って行武君のみを残しておいた点にも、尼リリスのこまかい神経のくばりようがよくあらわれています」  一同はだまってうなずいた。しかし彼らが感嘆しているのは半分はリリスのゆきとどいた殺人計画に対してであり、あと半分は、それを見事に看破した星影竜三の推理の才能に対してであった。 「これで兇器にペンナイフが使われた意味がわかったことと思うが、ご承知のとおり、あのペンナイフは玩具みたいに可愛らしい。だからこれを兇器とすると、心臓を刺したぐらいでは致命傷にもなりません。結局、延髄につき立てるほかはないということになるのだよ」 「そういうわけでしたか」  と、剣持警部は疑問の氷解をよろこぶように大きくうなずいた。 「由木君、松平さんが毒にやられたときのことを思いだして頂こう。人々が婚約者の橘秋夫君を探しに行こうとしたとき、リリスはなんといいましたか?」 「そうですな……」  と刑事は顎をなでながら、目をつぶった。 「彼女は、当人が獅子ケ岩で屍体となっていることを知っていながら、わざと反対の方角を教えたようですな」 「そう。あのとき反対の方向を教えたのは、橘君の屍体が見つかっては困るからです。松平さんが殺されたのちに橘君がやられたように見せかける必要があるのだから、是が非でも、松平紗絽女さんの息が絶えた後で橘君の屍体を発見させなくてはならない。彼女が舞台の名女優のように困難な芝居をやりとげたことを、ぼくは讃嘆せずにはいられないのだよ」  星影がそういってひと息いれると、剣持警部があらたな疑問をもちだした。 「ですが星影さん、犯人はどうやって松平紗絽女に毒入りココアを飲ませたのでしょうか。あのカップを彼女にわたしたのは安孫子でして、そのため彼は非常に不利な立場に追いやられたんですが、この点がどうしてもはっきりしません」  すると、星影はすぐ答えることなしにしばらくグレンジャーをふかしていたが、細面のその顔には次第に微笑がひろがっていた。 「すっかり尼リリスのトリックにはまりこみましたな。これもじつに簡単なことなんですよ。ぼくがなぜそれを見破ったかというと、先日学生諸君といろいろと話し合った際に、牧君が色の黒い女を嫌っていることを知ったからです。さらにその婚約者である尼リリスが、透きとおるような色白な皮膚をしていたことも聞いた。さらにまた、同君の両親が双方ともに色の黒い夫婦であることも知ったのです。これから考えてみると、尼リリスは父親に似ても母親に似ても色が黒く生まれたであろうということが想像されるし、牧君にきらわれぬために、色を白くするように努力したことも想像できる。あのように透きとおった皮膚をつくる漂白剤は、ただ一つしかありません」 「砒素だ!」  と検事が叫んだ。 「そう、効果のあざやかな漂白剤といえば、砒素の水溶液であるファウレル水ではないかということにすぐ気づきます。砒素水のことをあなた方に向ってくどくどいうのは釈迦《しやか》に説法だけれど、これをのむとたしかに透きとおるような独特の皮膚の色になる一方、砒素に対してきわめてつよい抗毒性をもつようになる。おそらく彼女は液体のファウレルを持ち歩く不便さをさけるために、その材料である粉末の亜砒酸を持ってきたにちがいないと思う」  剣持も由木もこの薬剤のことは知っていた。ファウレル水というのは亜砒酸の一パーセント水溶液なのだ。ふつう亜砒酸の許容量は〇・〇一乃至〇・〇二グラムであり、〇・〇五グラムのむと中毒症状を起す。しかしファウレル水を服用して徐々にその量をふやしていったものは、やがて十グラム以上、すなわち許容量の千倍以上というおどろくべき大量にも平然と耐えられるようになるのである。砒素は、そういう特別な性質をもっている。 「なるほど、わかりました。彼女は前以って台所の砂糖つぼのなかに粉末の砒素をまぜておいたのですな?」 「そう、珈琲や紅茶は食卓にはこんだのち、角砂糖なりテーブルシュガーなりを入れるわけだが、ココアに限って調理室で砂糖をまぜて練るのですから、砒素入りの砂糖が安孫子君や行武君、さては大切な婚約者であるところの牧君の飲み物にいれられるおそれはないのです。つまり尼リリスと松平君の二つのカップにのみ砒素入りの砂糖が用いられることになるのです。つまり尼リリスは毒入りココアを飲んだのだが、抗毒性のある犯人は、無毒のココアを飲んだ場合と同じで、それに少しも影響されることがないわけだ。これが、あの事件の真相です」  肥った警部は上体を起すと、ほっと吐息した。が、疑問が氷解してすっきりした気持になれたのは、単に剣持ばかりではない。  事件が発生したのち、当局はただちに砂糖ツボを押えてなかの角砂糖を分析してみたが、その結果は何の毒物も発見されなかった。しかしそのときはすでに、有毒の砂糖が無毒のそれらとすりかえられていたからに違いない。リリスには、そうする時間の余裕はたっぷりあったはずだからである。  剣持警部は、尼が紗絽女のカップのみを大切に保管しておきながら、自分のカップはさっさと万平に洗わせてしまったことを思いだして、犯人のぬけ目のないやり方に思わず苦笑した。同時にその笑いは、自分の間抜けさ加減に対する自嘲にも通じていた。  十七 カードの秘密     一  人々は由木がわかしてくれたあつい珈琲を飲んだ。だれも一向に眠いとは感じていなかったが、応接間の暗闇のなかで緊張した数時間をおくったせいか、やや疲労を覚えていた。平素は珈琲ぎらいな橋本検事も、そのときのひとカップは非常にうまいものに思えた。雨はなおも降りつづいているが、雷鳴だけはほとんど止んで、ときおり遠くのほうで光る程度であった。 「質問があるんだが」  と、禿げ上がった検事が切りだした。 「なんだい」 「尼リリスがスペードのカードを持ちだしたのはわかるんだが、なぜ、十三枚も必要としたのだろう。本来ならば二枚でよかったはずだ」 「それは不測の事態の発生を計算に入れていたからだろう。すべてが計画どおりにいくものではないからね」 「しかし、十三枚というのは多過ぎやしませんか」  かわって署長がそう訊ねた。 「多過ぎるといえば多過ぎるな。当人が死んでしまったいまとなっては訊くわけにもいかないが、一つはミステリアスな雰囲気をだそうとしたのではないかね。一体どれだけの人間がやられるのだろうという恐怖感と、底知れぬ不気味感とをだすためにね。必要な枚数だけ取りだしたのでは、こうした効果はでないだろう」  黙ってうなずいている。 「それに、殺しは二件だから二枚持ちだすというのでは、犯罪の骨格を見すかされるという心配もある。だから彼女としては、もう一つの未遂事件を起して、そこに三枚目のカードを残すぐらいの予定だったかもしれないな。そうすれば、犯行の動機というものもぼやけてくるしね。それやこれやで区切りのいい十三枚というカードを持ちだしたのかもしれぬ。しかし結果からみると、決して多過ぎはしなかったではないか」  星影は癇のつよいたちらしく、眉の間にくっきりとしたたてじわが寄ってきた。それに気づいた検事がそっと署長の袖をひいたので、どうやら感情の爆発はまぬかれた。 「さてつぎの犠牲者、つまり三番目に殺されたお花さんの件になるけれども、この場合問題になるのは動機がなにかということと、紙片にしるされてあった謎の数字の正体はなにかということになる。尤も動機については、当のお花さんが殺される直前に万平老人に語ったことから大体の見当がつけられる。ですから、われわれはまず、あの六桁の数字が何であるかを考えなくてはならないわけです」 「電話番号じゃないのですか」  といったのは、わざわざ東京まで赴《おもむ》いて調査をしてきた由木刑事である。 「ちがいますね」  星影氏はにべもなく否定した。 「電話番号だといったのは、その数字が六桁から成立しているために尼リリスが咄嗟に思いついた嘘であって、電話番号とは何の関係もありません」  由木は脳天をどやされたように、暫くのあいだうつろな表情をうかべていた。小娘の口車にのせられて、わざわざ酷熱の東京まででかけて行ったのが残念でもあり、滑稽でもある。また、急の場合にあれだけの嘘をついた尼リリスの抜け目なさにも驚かされたのであった。 「橋本君、犯人はこの六桁の数字を土台にしてたちまち電話番号を思いついた。きみは逆に東京の電話番号である六桁の数字から、一体なにを連想するかね?」 「さあ……」  容易に答えられそうもない。すると水原刑事は鞄のなかから一枚の新聞紙をとりだして卓上にひろげた。それは二十一日付の夕刊で、社会面の右隅に赤インクで囲まれた一郭が目についた。自治連合宝クジの当選番号である。  いぶかしそうな人々の表情は、視線がその一個所に釘づけにされると同時に、ふかい驚きのいろに変った。なんと、最上段に記された特等四百万円に当選した幸運な番号が、係官をさんざん悩ませた259789なのであった。 「そうか、宝クジの番号だったのか。たしかにこいつは六桁だよ」 「それをあの小娘めよくも電話番号だとホラを吹きやがった」 「いや騙《だま》されるほうがおめでたいぜ」 「そういえばお花さんの財布のなかにクジが一枚入っていたよ」  係官たちはいまになってようやく思い当ったことを恥じたためであろうか、言い合せたようにうつむいた。 「このクジの抽選は、二十一日の午前十一時から横浜の公会堂で行われたんだが、NHKがその実況放送をやってるし、正午のローカルニュースでもアナウンスしているんだ。おそらくお花さんはたまたまその発表を食堂のラジオかなにかで耳にして、自分が買っていたクジが四百万円に当ったかどうか、とりあえず特等の当選番号だけをメモしたいと思ったんだろう。そこで近くにいた尼リリスから万年筆をかりたわけなんだが、このちょっとした行為がのちのち彼女の命取りとなったわけだから、不運というほかはない。ところで由木君」  と星影は刑事をかえりみた。 「炭焼きの屍体のかたわらにおちていた例のレインコートですがね、そのポケットに入っていた品物は何となにでしたかね?」  星影は再三係官の記憶力をテストするようなことをやるものだから、うっかりできない。 「そうですねえ、山手線の回数券と百円札、それに万年筆……」  いいかけて彼ははっとした表情になった。ぬけめなさそうなその顔が、興奮のためみるみる赤くなった。 「そうだ、わかりました。クジの抽選は十一時からあったのだし、お花さんが尼リリスの万年筆をかりて当りクジをメモしたのは正午のことです。ところがその万年筆は、三時間も前の午前九時頃に、レインコートとともに盗まれたことになっています。お花さんはこの矛盾に——」 「そう、由木君のいうとおりです。尼リリスは、正午過ぎまでちゃんと万年筆をもっていた。これは否定できない事実です。いいかえれば、レインコートは正午過ぎまで無事だったことになるのです。それなのに彼女は九時に盗られたと主張している。お花さんがこの矛盾からどのような結論に到達したかは知る由もないが、矛盾を矛盾として胸のなかにしまっておくことができなくなって、納得のいく説明をもとめようとしたのですよ」 「そうだったのか。あのときお花さんはわたしたちに何か話したいことがあるといってきたのですよ。しかしこっちは忙しくて耳をかす暇がなかったから、相手にしなかったのです。あとでゆっくり聞いて上げるからと追い返しましてね」  由木が申しわけなさそうに小声でいった。 「さて尼リリスにしてみると、この矛盾がみんなの知るところとなれば身の破滅です。炭焼きの死んだのが午前十一時頃だというのに、肝心のレインコートはりら荘の本人の部屋にあった。これが俊敏な由木刑事の耳に入ってみなさい、レインコートを持っていって屍体のかたわらにおいたのは彼女の仕業だということがたちまち見ぬかれてしまいます」  由木は皮肉をいわれたように、不器量な顔をあからめた。 「まあそれだけのことだったら、面白半分にやったとか退屈しのぎに仲間をびっくりさせたとか、言い逃れはできただろう。人騒がせをして怪しからんというわけで由木君から叱言をくうものの、学生だからということで大目に見られます。ところが、そうした言いわけは通用しなかった」 「どういうわけですか」 「お花さんに呼び出され、つっ込まれたときには、すでに尼リリスは橘君を殺し、紗絽女さんを毒殺したあとだった。もはや、退屈まぎれなどという弁解が通用する段階ではなかったからです」 「なるほど」 「もう一つは、レインコートを屍体のそばにおいたのが尼リリスだったということになると、スペードのAをおいたのが彼女であったこともわかってしまう。そればかりでなく、なぜそんな真似をしたかという理由を訊かれた場合に、彼女には説明ができないのです」 「そうですね」 「さらにまた、橘殺し、紗絽女殺しのさいにカードを遺留したのが彼女であることも知れてしまいます。カードを残すことによってアリバイを造るという狙いが逆に作用して、殺人現場に署名を残してきたのと変りないことになる。まさかお花さんがそこまで見ぬいたとは想像できないけれど、犯人としては、あの矛盾をつきつけられたときには理屈のこねようがなかった。きみたちが仮りに尼リリスの立場にあると仮定してみたまえ、どんなに頭をしぼったところで、絶対に逃げ道のないことが解るだろう。ぼくは、お花さんから説明をもとめられたときの尼リリスのショックはじつに大きなものだったろうと思うな。犯人は、そのときはじめてぬきさしならぬ失敗をしたことに気づいたのだ。これがお花さんを殺した動機です」  一同のあいだから、またほっとした吐息がもれた。 「さて、つぎは行武君のことになるんだが、彼の生命は、最初からきわめて不安定な立場におかれていたのです。ここでもう一度、二十三日の夜のこと、お花さんや橘君や松平さんのお通夜でくたびれた学生諸君が、この食堂に集まってしばらく息ぬきをしたときのことを思い出してほしい」  当時その席にいた剣持警部と由木刑事が顔を見合わせた。 「その際に行武君が、グラスに注がれたペパーミントフィーズをのもうとした情景を思いうかべて下さい。平素は酒ぎらいの行武君も、気分転換のつもりか盃に手をふれた。そしてひと口のんでから、これはペパーミントじゃないかと文句をいったでしょう?」 「ええ、自分は平素からペパーミントは嫌いなのだ、と腹立たしそうにいってましたよ」 「そうだ、ぼくも覚えてるよ。尼リリスが、だれかが盗み呑みしたもんだからペパーミントしか残っていないのだというようなことをいって、それから彼女と安孫子のあいだに口論がもち上ったんです」  と警部も口をそえた。 「問題はそこにある。行武君はひと口のんでから、そのリキュールが薄荷の味のするペパーミントであることを知った。しかしこの酒は濃い緑色をしているのですから、呑まなくても、色を見ただけでペパーミントであることはわかるはずです。にもかかわらず味わうまでそれと気づかずにいたのは、当人の色感《しきかん》がだめになっていることを示している。行武君の色盲が明らかになれば、あの赤とグリーンのナイフを利用した尼リリスの犯罪が、極度の危機にさらされてしまうという点に注意していただきたい。おそらく犯人は、行武君のこの何気ない失敗をみて胸中|慄然《りつぜん》としたでしょう。幸いだれも気づいた様子がないのでほっとしたものの、このまま生かしておいては、今後いつまたしくじりをやるかも知れない。だから彼女は、行武君が、二度とこのようなヘマをくりかえさぬうちに処刑してしまう必要があった。で、その夜トイレに行った行武君のあとを追ってなぐり殺してしまったのです」  またもや一つの謎が明らかにされた。毎度のことながら、剣持警部も由木もそれをおのれの目で見ていたくせに、星影に指摘されるまでは見抜けないのである。二人とも冷汗がでる思いだ。 「ここでちょっと触れておくが、紗絽女殺しの場合はココアに毒をもるほかはなかった。男性たちは珈琲をのむのだから、珈琲にファウレル水をおとしたのでは、犯人にとって大切な牧君まで死なせてしまうのだからね」 「そうですな」  と由木は相槌を打ったものの、星影がなにをいいだそうとするのか、見当がつきかねた。 「橘君をやったときは、ペンナイフを用いなくてはならなかったわけだが、あの小さなナイフを用いるからには、延髄を刺す以外にはない。つまり、炭焼きが墜死をしたことはべつとして、二つの殺人の手段はそれぞれ必然性があったのだよ」 「わかります」 「犯人がヴァラエティ云々を意識しだしたとすれば、それはお花さん殺しのあたりからになるんだが、しかし必ずしもそうとばかりはいえない。タオルにしても火掻棒にしても、炊事場をのぞいてみるとその辺に転がっているんだから、ふとそれを利用する気になったのかもしれない。刃物を使うのとちがって返り血をあびずにすむし、しかも手っ取り早く勝負がつくからね」 「そうですね。持ち歩いているところを人に見られても怪しまれることはありません」 「そうなんだ。ところでつぎの吹き矢になると、また必然性がでてくる。あの場合は安孫子君の犯行にみせかけなくてはならないのだから。つまり、両手の自由がきかなかった安孫子君にとって、吹き矢が唯一の兇器になる。こんなふうに考察すると、毎回殺人手段をかえたのは、べつに奇をてらったわけでもなかったということになるのだ」  少し話が先走ったようだと呟いて、星影は言葉をもどした。 「ところが尼リリスの決意はおそすぎた。行武君の些細なつまずきに気づいたのは彼女一人ではなくて、二条君もそうであったのです。同君はそれからそれへと推理をはたらかせて、たちまち犯人が設定しておいたあらゆる欺瞞《ぎまん》を払いのけ、連続殺人の真相に到達してしまった。彼の推理才能はぼくも賞讃せぬわけにはゆかない」  星影竜三は二条義房をそうほめたのち、すぐに批判的な口調にかわった。彼が他人を無条件でほめることはまずないのである。 「ただ同君には芝居気があった。大向うのヤンヤの喝采《かつさい》を期待するという単純な性格の持主だったのです。だから安孫子君を留置場から呼びよせておいて、おもむろに尼リリスの犯行をあばいて見得を切り、大いに演出効果をあげようと考えていた。同君が命を失ったのは、その俗物根性のためです」  星影は咳ばらいをした。 「さて二条君の失敗の理由を検討してみると、犯人尼リリスの実行力というか決断力というか、それを甘くみていたことが数えられるんです。行武君が色盲であることをみずから暴露しかけた以上はですよ、犯人が彼を生かしておくまいと予知していたくせに、二条君はすぐに適切な手を打たずにいたから、行武君を殺させてしまった。それでもなお尼リリスのやりくちをみくびって油断したために、今度は自分が毒矢で射殺される羽目になったわけです」 「あのとき、わたしが二条君の到着時刻を伏せておけばよかったんですが、電話口で大きな声でどなっていたために、彼女に乗ぜられてしまったのです。どうもわたし自身が犯人の手助けをしたような気がしてならない」  二条が殺されたときのこと、リリスが由木をつかまえて、被害者の幽霊がでるとこわいから泊ってくれるよう哀願したのを思いだした。あの殺人鬼が二条のお化けを恐しがるほど殊勝なはずもないから、あれはもっぱら自分がかよわい女性であることを強調するのが狙いであったに違いないのだ。由木刑事は、彼女の悪知恵にあらためて感嘆するのだった。 「いや由木君、きみが到着時刻をもらさなかったとしても、相手は尼リリスです。必ずなにかの手段で殺していますよ。生かしておいては自分が危ない。生きるか死ぬかという、せっぱつまった立場に追いこまれていたのですからね」  星影は由木をなぐさめておいて、唇にしめしをくれた。赤い女性的な唇だ。 「この事件の犯人は、当初から行武君と安孫子君に嫌疑をむけるように心掛けていたのです。毒の吹き矢を用いて殺人をやったのも、当時手錠をかけられて自由を失っていた安孫子君の犯行にみせかけるためです」 「そのことはわたしも気づきましたよ、ええ」  剣持警部は得意気に口をさしはさみ、自分で相槌《あいづち》をうった。これでいくらかでも名誉回復したつもりである。     二 「ところがさすがの犯人も、今度はとんだどじを踏んだんです。何だと思います?」  由木が日に焼けた首をかしげた。 「矢尻にぬるトリカブトの根をぬいているとき、予期せぬ人に目撃されてしまったのですよ」  そういわれて由木は、ようやくことのなりゆきをおぼろげながら想像することができた。 「目撃したのは日高鉄子ですね?」 「そう」  由木はゆくりなくも五日前の二十五日の夜のことを思いだした。安孫子の洋服ダンスの下から発見したトリカブトの根を日高鉄子に見せたとき、彼女が急にぷいと立って自室に入ってしまったのは、由木が想像したように何事かが気にさわったせいではないのだ。彼女は由木に見せられた植物の球根から尼リリスがトリカブトの根をぬいたことを直感した。そのことから導きだされる結論はひとつしかない。吹き矢の根にトリカブトの毒を塗った人物も、二条の体を的にして毒矢を突きたてた人物も、尼リリスにほかならない。そのことを日高は反射的に悟ったにちがいない。  そこまで考えてきた由木刑事は、急に顔を上げた。 「すると日高鉄子は、われわれに相談することなしに直接自分で尼リリスに談じこんだわけですね?」  無視されたことが面白くない。 「そう、そういうことになります。しかしそれは無理ないですよ。あなたは気づかなかったかもしれぬが、日高女史は安孫子君に好意をもっている。これは先日ぼくがこの目で観察したことだから間違いありません。このひそかに愛している人間を、当局は殺人犯だと思い込んで逮捕したのだから、内心あなたがたに対して大いに敵意を抱いていた。と同時に、愛する男を絞首台に追いやろうと企んでいた尼リリスに対する怒りも非常なものだったでしょう。この爆発した憤怒は、正規の裁判手続をすませて法的な制裁を加えるようなのんびりしたやり方を待ってはいられない。彼女が直接行動にでた止むにやまれぬ心境は、ぼくには充分理解できるのだが……」  そこで星影はゆっくりとした口調にかわった。 「しかしねえ、日高女史をしてああした行動にださせた最大の理由は、またべつにあると思うんだ。連続殺人の犯人が安孫子宏ではないことを当局に信じさせるには、彼が留置場にいる事実を逆用して強固なアリバイたらしむるように、『第七番目の殺人』をりら荘で発生させるに越したことはない。『安孫子宏を救うために!』これが彼女のスローガンだったのだ」  わが身が絶対安全であることを確信しての上の犯行ではあるけれども、愛人を救わんがために敢て殺人するという彼女の決断を聞かされたとき、由木ははじめて日高鉄子を女傑であるといった剣持の言葉を理解したのである。 「なにぶんにも短時間だったから、ぼくは彼女とは充分な話はできなかった。要点だけは訊いておいたが、それにぼくの推理を補足すると、大体のことは見当がつくのだ。安孫子君がつれていかれた夜のことなのだが、日高女史が眠れぬままに窓から外を見おろしていると、花壇のところでなにかこそこそやっている人影に気づいたんだな。眸をこらして見ていると、尼リリスが花の根を掘っていることがわかった。珍しい植物を失敬して帰って、自分の家の庭に植える気なのだなと解釈した。いかにもわがまま娘の尼リリスらしいやり方だが、花盗っ人は風流なものだと考えて、日高女史はなにも訊ねずに目をつぶっていたわけだ。仮りに立場が逆だったなら、尼リリスのような勝気な女が容赦するわけがない。みんなの前で詰問して恥をかかせてやろうぐらいのことはやりかねないのだが、その点、日高女史はおとなしいんだな」  殺人犯の肩をもつような口調に、由木はいささか批判的だった。だが星影は、由木の顔つきなど頭から無視して話をすすめた。 「ところが由木君があたえたヒントから、例の植物がトリカブトであることを知り、ひいては尼リリスが連続殺人の犯人であることを見抜いてしまったのだ。一方、尼リリスのほうでは、決定的な場面を目撃されたとは少しも気づいていない。したがって自分が橘君を殺し紗絽女を殺し、お花さんその他の連中を殺した犯人であることがばれたとは、夢にも思っていない。だから日高女史に対してもすっかり気をゆるしていた。もし尼リリスが覗かれたことを知って相手を警戒していたとしたら、日高女史はああもやすやすとリリス殺しに成功するはずはなかったのだがね」  由木は投げやりにうなずいた。 「さて、溺死という殺害手段をえらんだのは、これまた由木君の発言がヒントになっているといっていた。由木君が射殺と溺殺という二つの手段をあげ、そのうちに射殺はすでに実行されている。そこで日高女史は、残った溺死に挑もうとしたわけなのだよ。ヴァラエティに富んだ殺害方法を用いることによって、尼リリスの死もまた、いままでの連続殺人の一環であることをそれとなく強調するのが狙いなんだな」  大きくうなずいたのは署長だった。 「最初は、彼女が入浴中に浴室に行って浴槽のなかに押しこむつもりだったそうだが、いろいろとアイディアを練っているうちに、三階まで屍体をかつぎ上げれば、非力の自分は嫌疑の外に立つことができると、そういうことを思いついたわけだ。さらにその屍体をバラの花の上に投げだしておけば、余計に牧君が犯人らしく見えてくるのではないか、ということにも思いついた。説明するまでもないことだが、ロマンチックな死に方に憧れていた女に、せめて死んだあとでもいいからその夢をかなえさせてやろうと考えるのは、彼女の恋人以外にないのだからね」 「われわれもそうした解釈をしたものですよ」  と、剣持警部が汗をふいた。 「それにしても星影さん、犯人が日高鉄子だとすると、あの肥った尼リリスをどうやって搬び上げたのでしょうかな?」  星影に質問をするときは、署長ですら多少遠慮気味になるのだった。 「搬び上げたのではない。そうみせかけたにすぎないのです」 「どうやってでしょうか」 「それはですね、彼女の説明によるとこうなるのです。牧さんについて、秘密の情報があるという口実で、夜がかなり更けた頃に、ひそかに尼リリスの部屋を訪ねた——」 「しかし、ああした雰囲気のなかで、よくまあ警戒もせずに扉をあけたものですな」  と剣持警部が感想をもらした。話を中途でさえぎられた星影は、明らかにむっとしたように押しだまると、相手の顔を軽蔑したように薄笑いをうかべて見つめていた。 「勘ちがいをしてはいけない。尼リリスにしてみれば、連続殺人の犯人は自分なのだから、りら荘のなかに恐ろしいものがいるわけがないんだ。怯えているように見せかけたのは、自分がかよわき女性で、犯人ではあり得ないことを、それとなく暗示するためだったのだぜ。しかも安孫子君が犯人として逮捕されたあとなのだ。彼女としてはいかにもほっとした様子をみせなくてはならない。警戒して扉をとざしていたとすると、そのほうがかえって不自然なのだよ」 「なるほどね」  と肥った警部は自分の思い違いを指摘されて赤面した。 「加うるに、牧君についての情報を知らせてやるから、といわれれば、冷静ではいられない。ご承知のように牧君が美男子であるのに反して、尼リリスはさして器量もよくない。表面ではわがままいっぱいに振舞っているが、牧に捨てられたらどうしようという心配はつねに念頭から去ることがないのだ。彼女としてはその愛している男の最新情報を聞かぬうちは心がおさまらないわけだよ」 「いや、わかりました」 「雑談しているうちに牧はうつらうつらしはじめたのですが、これは剣持警部や由木君と同じように、ジュースのなかに一服もられたからなのです」 「睡眠薬を? 尼リリスの部屋から失敬したわけですか」 「そうではない。日高女史は失恋して以来眠れなくなっていたものだから、スーツケースのなかに持ってきていたといっている。それをジュースに入れたわけだが、牧君には倍ちかい量を用いておいたので、当時はすでに熟睡していたことになる。彼が婚約者の部屋をおとずれて、日高女史の仕事を妨害するような心配はないのだよ」 「頭のいい女ですな、まったく」  剣持警部が感にたえぬようにいったが、星影はうなずきもしなかった。 「だれだって少し頭をひねれば、その程度の知恵はでますよ。余程の馬鹿でないかぎりね」 「そんなもんですかな」  警部はあてこすりをいわれたと思ったのか、鼻白んだ表情になった。 「さて、その睡眠剤が効き目をあらわして、いまやふらふらになったリリスに手を貸すと、三階へつれていったのだが、そこには前もって浴槽のお湯が入った洗面器が用意してあった。尼リリスを膝まずかせると、そのなかに顔をつっこませて押えていたのだ。女という生物は残酷なことをやるもんだね」  言葉を切ると、星影はよく磨いてある爪をじっと見つめていた。しかし一同が黙りこんでいたのは、必らずしも星影とおなじことを考えていたからではない、尼リリスが水死した現場が三階であったことの意外さに驚いたためであった。 「洗面器で溺れたのですか」 「そう。日高女史の狙いはいまも述べたように、牧君を犯人に仕立てるためでした。べつに牧君が憎いというわけではないが、だれかを犯人にしない限り自分が疑われてしまう。まあ、いってみれば女のエゴイズムだな。それはともかく、浴室で溺死させておいてその屍体を三階までかつぎ上げたとなると、だれが見ても牧君の犯行ということになる。この場合、動機なんかは二の次です。牧君以外には可能性はない。しかるがゆえに牧君が犯人だと断定されてしまうのです。尼リリスに過去のあやまちを告白されて逆上したんだろう、と詰めよられても、否定することはできないわけですよ。牧君としてはアリバイもないし、蟻地獄にひきずりこまれたアリとおなじことです。いくらもがいたところで救《たす》かる途はない」  署長がしなびた顔で相槌を打った。なにか追従《ついしよう》めいた口調であった。 「さて、尼リリスの屍体から服をはぎとった目的は、いうまでもなく入浴中にやられたように見せかけるためだが、ぬがせた服を持って一階に下りると、脱衣籠のなかに入れた。その上タオルや石鹸を持ちこむという芸のこまかいところまで演出したわけだよ」     三 「ところで、彼女はあのカードをどこで見つけたのでしょうか」  そう訊ねたのは由木刑事だった。安孫子の部屋をさがしても発見することのできなかったカードの隠し場所を、ああした風采《ふうさい》のあがらぬ画学生ふぜいにあっさり見つけだされたのでは、警部や署長や検事の手前面目がたたない。 「いや、そこにも誤解がある。彼女はついに尼リリスを屠《ほふ》ってしまったが、これが連続殺人の一つであるようにみせかけるのが最初からの計画だった。いうまでもなく二十二日に発生した三つの殺人、すなわち橘、松平、お花さん殺しの場合は、自分は東京にいたという立派なアリバイがあるから、尼リリスの死が連続殺人の一環とみられる限りは、自分の身は絶対に安全です。さてそう見せかけるには、ただ単にスペードの7の札を尼リリスの死骸のそばになげすてておけばいいわけだ。ところがすこぶる都合がよかったことに、彼女もまた尼リリスのカードとそっくり同じものを持っていたのです。いや持っていればこそ尼リリス殺しを決心することになったのでしょう」 「なんですって? 日高もおなじカードを持っていたとおっしゃるんですか」  これでは少々話がうますぎるではないか。だれもすぐには信じかねる表情をうかべていた。 「そう。説明をしなくては理解してもらえまいが、二十二日の早朝のことを思いだして頂きたい。尼リリスがトイレにおりたとき、食堂にだれかがいる気配がしたということは諸君もご存知のとおりです。さてその日の朝の朝食の席で、スペード十三枚がひきぬかれ残り四十枚になっていたはずのカードのなかから、さらにクラブとハート各一枚が減っていた事実が発見された。そこで当然その二枚の札を盗んだのは、その日の払暁に食堂のなかにひそんでいた人物にちがいないと見当づけられて、前日の午前中にりら荘をでて東京へもどって行った日高女史は完全に嫌疑外に立たされてしまった。ところがです。現在ではトイレに降りた尼リリスを脅かした食堂の怪人物の正体は万平老人であって、カードを盗んだのは彼ではないということが明らかになっている。とすると、日高女史がカード盗人の張本人であることもありうるではないですか」 「なぜです? なんの用があって二枚のカードを盗んだんです?」 「サンプル用ですよ」 「サンプルとは?」 「諸君は、彼女が絵具を買いにもどったという口実を訝《おか》しいと思わなかったのですか」 「ええ、それは思いましたよ」 「そのとおり、絵具を買いにもどったというのは嘘です」 「それじゃ、なんのために帰ったんでしょう?」 「あたらしいカードを買うのが目的ですよ。尼リリスが持っているのとそっくり同じのカードを」 「なぜ急にそんなものが欲しくなったんです?」  追いかけるようになされる由木刑事の質問に対して、星影竜三が答えたものはつぎのとおりである。  一同がりら荘にやってきた当日の夜のこと、日高鉄子は気|鬱《うつ》を散じるために、食堂の棚においてあったカードをもちだして、自分の部屋で独り占いをはじめた。スペードのふだが全部紛失して、クラブとハートとダイヤ及びジョーカーの四十枚しか残っていないが、それでもけっこう占う方法はある。  秘かに胸をこがしていた男性をあっさり紗絽女にさらわれた直後であるだけに、そのとき鉄子が占ったのも自分の結婚運かなにかであったろう。 「ところがついうっかりして、火のついたパイプタバコをハートの3とクラブのジャックの上に落として焦《こ》がしてしまったというのですよ。すでにスペードがぬけた残りの半端なカードですから、もはやゲームの役にも立たぬしろものではあるが、元来が尼リリスという女は意地がわるい。正直に謝ったとしても決して快よくゆるしてくれるとは思われなかった。いや、わがままな彼女のことだから仲間の前で罵倒《ばとう》されるかもしれぬ。かねがねブルジョアのぐうたら娘として軽蔑の目でながめていた女から面罵《めんば》されることは、日高女史としては耐えられぬ屈辱です。とうてい我慢ができることではありません。とすると、どうしたらいいか」 「口をぬぐって知らん顔をしているわけにはいかんですか」 「食堂から借り出すときに、牧君に見られたといっていました。尤も同君は紳士だ、告げ口をするようなはしたない真似はしなかったが」 「だから同じものを買おうとしたわけですか」 「そう、日が暮れたのちまでさんざん頭をひねった末に、そっと同じ一組のカードを求めてきて、そのなかのハートの3とクラブのジャックをもどしておけばいいという結論を得たのです。そこで夜中にふたたびカードを盗りにいったわけです。スペードの札の紛失にのみ、皆が気をとられてましたがね」  星影が言葉を切ると、横から水原刑事が例によって落着いた口調で、日高鉄子が二十二日に銀座のデパートにゆき、店員にハートの3を提示して一組のカードを購入したことをつきとめた旨の報告をした。 「だから二十三日にりら荘に戻ってきた彼女のポケットのなかには、当然そのあたらしいカードが入っていたわけです。尼リリスを殺したときに役立てたスペードの7は、あたらしく東京で求めてきたカードのうちの一枚だったのだよ」 「すると日高は、尼リリスのカードの隠匿《いんとく》場所は知る必要はなかったわけですか」  由木はなおもその問題にこだわりをみせた。 「そう、手持ちの札を使えばいいのだから、苦労して尼リリスのカードを探す必要はないのです」 「ではわたしが見つけたスペードの8からキングにいたる六枚のカードは、尼リリスが隠しておいたやつじゃなかったわけですな」  彼のいうのは、安孫子の洋服ダンスのなかで発見した札のことである。 「そう、あの六枚のカードも、日高女史が東京で買ってきたあたらしい札の一部ですよ」 「なぜそのような真似をしたんでしょう?」 「その理由はこうです。二組のカードの存在を知らない当局は、あれを発見し押収することによって、すっかり安心してしまう。まだ何処かに隠されてあるはずの尼リリスのカードを探そうとはしなくなる。そこが日高女史の狙いです。なぜそんな真似をしたかというと、二組のカードの存在することがわかってしまえば、尼リリスを殺した犯人が、それ以前の連続殺人を犯した犯人と同一人物であるごとくみせかけた日高女史の企《たくら》みが崩壊する。そうさせぬために、由木君の目につく場所にスペードの8からキングに至る六枚のカードを置いたわけです」  噛んでふくめるように星影は説明した。どうやら人々はそれを了解したようである。 「そうしますと、尼のカードは、まだどこかにかくされていることになりますね」 「そう、これだけ大きな邸だから探しだすのは容易じゃないでしょう。だが、ぼくは、尼のカードがまだ発見されないということを逆に利用した。先日ぼくがここを発とうとしたときに、用途をあかさずに剣持警部からカードを一枚借用しましたが、それもまたサンプルにする目的だったのです。いいですか、ようく聞いていないと話がこんぐらかって、わかりにくくなる。じつは、ぼくも日高女史がやったようにあれを持ってデパートに行くと、あの見本とおなじ品物を一組買った。そしてそのなかからスペードの7を一枚えらんで封筒に入れたものを、由木君に託して、日高女史が食事中をねらってそっと二階の部屋になげ込んでもらったのです。つまり、この事件に関連しておなじカードが三組あることになるわけだ」  話はいよいよ今晩の終幕《しゆうまく》の場に及んだ。一同はさらに真剣な顔で星影の言葉に耳を傾けていた。 「ぼくが書いたみじかい手紙を、彼女はすぐに理解した。ここでもう一度くりかえしておくけど、彼女は当局に対して、あくまでカードが二組あることを秘密にしておかなくてはならない。尼リリスのスペードの札の残りの七枚が存在することは、なんとしても知られてはならないのです」  星影は一同が理解しやすいように、ことさらにゆっくりした口調でくり返した。 「ぼくはいま、尼リリスの札の残りが七枚あるといったが、それはわかるでしょうな? 尼リリスの屍体のそばにおちていたスペードの7は日高女史自身で投げすてたカードだから、尼リリスがひそかに隠し持っているスペードの7は使用されていないわけです。つまり、死んだ尼リリスの手持のカードは、スペードの7からキングまで七枚ある、ということになる。いいですね?」 「ええ」 「そのスペードの7が封入してあったものだから、彼女はてっきりその手紙の筆者が、尼リリスの持ち札を発見したものと思いこんでしまった。ぼくがもう一組のおなじカードを買ってきたものとは夢にも思わない。自分が使ったトリックに自分がはまりこんで、それとは気づかないのだ。そこで彼女は、なんとしてもマントルピースの近くにかくされている残りの六枚のカードを手にいれて破棄しなくてはならないと決心した。こうした彼女の心の動きは、手にとるように想像できたのです。果してその想像はまちがいではなかった。とうとうぼくの仕掛けた罠にかかって、由木君にたのんでかくしておいたカードをとりだしたことにより、尼リリス殺しの犯人であることを諸君の前にみずから立証してみせてしまったのです……」  星影の長広舌がおわると、人々は各自の動きをとりもどした。署長と由木とは雨のなかをふたたび署へとってかえし、残った人々はそれぞれ手頃の部屋に入って、夜があけるまで休息することにした。     四  夜来の激しい嵐もおさまって、ひときわすがすがしい朝であった。牧よりもひと足さきに目ざめて洗面所におりた安孫子は、早くも庭を散歩している星影竜三の姿を見ておどろきの目をみはった。いやそればかりではない。食堂をのぞいてみると、意外にも橋本検事が朝刊をひろげているではないか。 「おや、検事さん!」 「やあ、おはよう。眠れましたか」 「ええ、ぐっすり」  先日訊問をうけたときとはまるっきり変って、明るく感じのいい人柄にみえる。酸いも甘いも知りつくしたような禿げた頭と、ふとぶちのロイド眼鏡のおくの柔和な眸が、ひどく頼もしい印象をあたえていた。 「ずいぶんお早いお着きですな」 「いやあ」 「星影さんも見かけましたが、あなた方がおいでになるのは明日の予定じゃなかったんですか」  昨夜のさわぎを少しも知らぬらしく、少々間がぬけた挨拶である。  検事のかいつまんだ話を聞いていて安孫子はたちまち顔色をかえた。しばらくは言葉もなく相手の顔をじっとみつめていた。 「ぼく、牧に知らせてきます」  くるりとうしろを向いて出ていった。  牧は、起きぬけの一服をやろうとしてピースに火をつけたところだったが、安孫子を迎えいれると、ベッドに腰を下ろした。 「どうした、朝っぱらから……」 「おい、大変なことができた。昨晩日高君が逮捕されたぞ」 「そうか」  意外にも彼はおどろく気配を見せなかった。 「なんだ、お前も知っていたのか」 「逮捕されたのは初耳だが、あれが尼君を殺した犯人であることは知っていたさ。事件当時ここにいたのは彼女とぼくの両人きりだったから、ぼくが殺したのではない以上、彼女が犯人であるにきまっている」 「そんならなぜ早く剣持さんにいわなかったんだ」 「馬鹿な!」  と牧は白い目をした。 「ぼくのいうことを彼らが信用してくれるものか。それにだ、彼女が犯人であることは知っていたけど、その日高君が橘や紗絽女さんをどうやって殺せたか、そいつがわからない。当日彼女は東京にいたというアリバイがあるそうだからね」 「そうじゃない、違うんだ。日高君は尼君を殺した犯人だ。しかし行武や二条や橘たちを殺したのは、その尼君なんだぜ」 「なんだって!」  立ち上る拍子に、サイドテーブルの上の灰皿を落してしまった。 「おい安孫子、冗談いうな!」 「ほんとだよ、いま検事から聞いたばかりなんだ。嘘だと思うなら、お前じかに会ってみろ」  真剣な安孫子の表情に、詳細はわからぬながらも牧は、やがて妻にむかえようとした女が殺人鬼であったことをようやく悟ったようである。彼は力なくベッドに腰をおろしたきり、二度と口はひらかなかった。  三十分ほどたって朝食がはじまったが、その席上で、二人の学生ははじめて検事の口から事件のくわしい説明をうけた。安孫子が皿のトーストをたいらげて牧のほうをみやると、彼はまだ一枚も手をつけずに頭をかかえていた。  食事が終りかけたころに、由木刑事が扉口に元気な顔をみせた。 「今日は手のすいた連中を動員させましてね、なにがなんでも残りのスペードのカードを探しだすつもりですよ。署で考えたんですけど、枕だとかクッションのなかなんか絶好の隠し場所じゃないかと思うんですがね」  猟犬のようにはりきっている。事件が解決をみせたせいか笑い声が明るい。そのすばしこそうな、それでいて不器量な顔を見ているうちに、安孫子はふと、ハードボイルド小説に登場するようなぶっこわれた顔つきだ、と称した行武の言葉を思いうかべた。気の合わぬ男だったが、その九州男児もいまは亡い。  十時にちかく、牧と安孫子の二人は星影のベンツに同乗して、このさまざまな思い出のあるりら荘をあとにすることとなった。そろそろ出発が迫ったときに安孫子は万平老人に別れを告げにいったが、この管理人のリューマチスは星影が見舞いに贈った特級酒をちびちびやったせいか、急に快方に向っていた。それに、遠い親戚ではあるが気立のやさしい娘さんがつきそってくれることになったので、安孫子も心のこりなく発てるというわけである。尤もこのがらんとした大きな建物のなかで、しかも殺人が数多くおこなわれた直後に二人きりで日夜をおくることは少々刺激がつよすぎるから、当分のうちは、近所の農家の青年たちに泊ってもらうよう頼むという。安孫子もこれには大賛成だった。  学生たちは身仕度をととのえて、スーツケースをベンツにはこび入れた。牧は黙々として後部座席にのり込んだが、安孫子のほうは応接間をのぞき庭をながめて、しきりに名残りを惜しむふうであった。昨夜の豪雨にテラスも芝生もぐっしょりとぬれ、気づいて見ると、この十二日間を女王のように咲きつづけたカンナの花は、あわれにも吹きおとされている。  送りにでた係官たちのなかで、由木刑事は特に安孫子に向って、深く頭を下げると嫌疑をかけた非礼をわびた。彼はいつものように胸をそらし、顔を赤らめ、はにかみながら何か答えていた。  運転席に星影が、助手台に水原刑事がすわる。車がUターンをして庭からでようとした際に、牧はここに到着した夕方、エプロンでぬれた手をふきつつ小走りにあらわれたお花さんの元気な笑顔を思いうかべた。そのにこにこしたお花さんの丸い顔が、石積柱にからんで咲いた朝顔の紅い花にオーヴァラップして見えたとき、車は鉄門をとおり過ぎるところであった。  大通りにでた星影は、アクセルをふんでぐんと速度をあげた。奥秩父の風景は、空も、大気も、木々も畑も、そしてひなびた白壁の家も、一夜を境にしてにわかに秋の気配を濃くしたようである。  星影はじっと前方を見つめながら、日高鉄子が安孫子を愛していたことを本人に告げたものかどうか、しきりに思案していた。   〈了〉 本電子文庫版は、本書講談社文庫版(一九九二年三月刊)を底本としました。